大判例

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釧路地方裁判所 昭和60年(た)3号 判決

本籍・住居《省略》

廃品回収業 梅田義光

大正一三年六月三〇日生

右の者に対する強盗殺人、死体遺棄被告事件について、釧路地方裁判所網走支部が昭和二九年七月七日言い渡した確定有罪判決に対し、右の者から再審の請求があり、同支部が昭和五七年一二月二〇日再審開始の決定をしたので、当裁判所は、検察官原武志、大久保慶一、奥村丈二、弁護人竹上英夫、鶴見祐策、鈴木悦郎、今重一、杉村英一、今泉賢治、永井哲男各出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪。

理由

略語例

一  確定審、再審請求審の表示

原一審=頭書の確定審である釧路地方裁判所網走支部もしくは同支部における審理

原二審=右の控訴審である札幌高等裁判所もしくは同裁判所における審理

一次再一審=本件確定判決に対し、昭和三七年一〇月三一日に提起された再審請求について、第一審として審理、決定した釧路地方裁判所網走支部もしくは同支部における審理

一次再二審=右決定に対する即時抗告により抗告審として審理、決定した札幌高等裁判所もしくは同裁判所における審理

二次再一審=本件確定判決に対し、昭和五四年一二月一七日に提起された再審請求について、第一審として審理、決定した釧路地方裁判所網走支部もしくは同支部における審理

二次再二審=右決定に対する即時抗告により抗告審として審理、決定した札幌高等裁判所もしくは同裁判所における審理

二  証拠等の表示

(1)  原一審ないし二次再二審における公判調書中の証人・鑑定人もしくは被告人の供述部分、証人・鑑定人もしくは被告人(請求人)に対する裁判所もしくは受命裁判官の尋問調書、審尋調書については、単に「証言」、「供述」と略記することがある。

(2)  書証の作成年月日につき年を省略するものは、昭和二七年を指す。

(3)  事実関係の年月日につき年を省略する場合は、昭和二五年を指す。

(4)  供述調書の略記

検面=検察官に対する供述調書

員面=司法警察員に対する供述調書

巡面=司法巡査に対する供述調書

第一本件公訴事実及び本件再審公判に至る経緯

一 被告人に対する昭和二七年一〇月二四日付起訴状記載の強盗殺人、死体遺棄の公訴事実(同年一二月八日付起訴訂正書を含む)は、次のとおりである。

被告人は、昭和二五年一〇月八日頃、北見市東陵町所在の東陵中学校東北約七〇〇メートルの山径において、前北見営林局会計課員羽賀竹男より当時北見営林局会計課に支出係として勤務し同営林局職員旅費の支給等の事務を担当しておりたる大山正雄(当時二〇年)を「ホップ」取引に藉口してその所要資金として多額の現金を携行せしめてこれを右山径に誘致した上同所において野球用バット・縄等を使用して同人を殺害しその死体を附近の沢の土中に埋没してその所携の現金を奪取せんことを誘われるや之を承諾し、羽賀竹男は「ホップ」取引資金に藉口し右正雄を現金約二〇万円を携行して同年一〇月一〇日夕刻北見市青葉町三番地柴川木工場附近に赴くよう誘う外前記山径附近の沢に大山正雄の死体を埋没すべき穴を掘さくする等の処置をなすべく、一方被告人は、大山正雄を右柴川木工場附近より前記山径に誘致したる上同所において野球用バットを使用して右正雄の頭部を殴打した上縄をもって之を絞頸する等の方法により同人を殺害しその死体を羽賀竹男が予め掘さくしおく穴に埋没し且右正雄所携の現金を奪取し来る等の処置を構ずるよう各自その分担すべき行為について協議を遂げ、ここに両名共謀の上、

第一  被告人は、右謀議に基づき、昭和二五年一〇月一〇日午後七時頃、前記大山正雄殺害に使用すべき野球用バット・縄等を秘かに携帯して前記柴川木工場附近路上において大山正雄の来るを待ち設ける中、同夜七時二〇分頃右正雄が同木工場附近路上に至るや之を誘致して同夜八時頃前記山径に立至りたるが、右正雄の隙をうかがい所携の野球用バットを振ってその頭部を殴打し、同人が昏倒するや更に所携の縄をもって右正雄の頸部を締緊し、因て右頭部打撃・頸部締緊等によりその頃同所において右正雄を死亡せしめて之を殺害した上、同人所携の現金約一九万円を強取し、

第二  その頃右行為に引続き該犯行を隠蔽する目的をもって予て羽賀竹男が前記殺害現場附近の沢に掘さくしおきたる穴の中に右大山正雄の死体を埋没し、もって遺棄し

たものである。

二 被告人は、原一審である釧路地方裁判所網走支部の審理において、本件公訴事実を全面的に争ったが、原一審は、昭和二九年七月七日、右公訴事実を認めて被告人を無期懲役に処した。被告人は、これを不服として控訴したが、原二審である札幌高等裁判所は、昭和三一年一二月一五日、右控訴を棄却した。これに対し被告人は上告したけれども、最高裁判所第一小法廷は、昭和三二年一一月一四日、上告を棄却する判決をした。また、被告人の判決訂正の申立も同年一二月一九日棄却され、ここに原一審判決は確定した。

三  被告人は、右確定判決に対し、昭和三七年一〇月三一日釧路地方裁判所網走支部に再審の請求(第一次再審請求)をしたが、右請求は昭和三九年四月二四日棄却され、これに対する即時抗告は昭和四三年六月一五日札幌高等裁判所において棄却され、特別抗告も同年七月一二日棄却された。被告人は、前記確定判決に対し、昭和五四年一二月一七日、再度、釧路地方裁判所網走支部に再審の請求(第二次再審請求)をしたところ、同裁判所は、昭和五七年一二月二〇日再審を開始する旨決定し、右決定に対する検察官の即時抗告は昭和六〇年二月四日棄却され、ここに再審開始決定が確定した。なお、被告人は、原一審判決の確定に伴い網走刑務所において受刑していたところ、昭和四六年五月一日に仮釈放された。

第二捜査を含む本件事案の概要、確定審公判の経緯及び当審における事実認定上の争点

一 本件の概要

左記1ないし8の事実については、証拠上明らかに認められるところであり、当事者間にも概ね争いがない。

1  被害者大山正雄、共犯者羽賀竹男及び被告人の身上・経歴等

本件被害者大山正雄(昭和四年九月二三日生)は、昭和二二年陸別営林署職員に採用され、昭和二三年六月北見営林局勤務となり、昭和二五年一〇月当時常呂郡訓子府町字日出に居住して通勤し、同局総務部会計課旅費支出係をしていた。

羽賀竹男は、大正一三年九月二三日北見市で出生し、昭和一四年同市の尋常高等小学校高等科を卒業後、会社事務員、陸軍糧秣廠札幌支廠、網走出張所勤務等を経て昭和一九年一一月に応召により苫小牧の陸軍稔部隊第九二六〇部隊に入隊し、昭和二〇年一〇月ころ九州から復員し、昭和二二年八月ころ北見営林局職員に採用され、北見駅近くの桜町の自宅に両親と居住して昭和二五年当時は同局総務部会計課に経理係として勤務し、前記大山とは会計課の同僚という間柄であったところ、拳銃の不法所持が発覚して起訴されたため、同年七月末同局を依願退職し、同年八月三日釧路地方裁判所北見支部で懲役五月・執行猶予二年の判決を受けたが、同年一二月一一日ころには、右営林局の管内を含めた職員、労務者に対する福利・厚生等を目的として日用品等の販売を主たる業務とする財団法人北見林友会に主事補として採用され、金銭出納簿や元帳の記帳の補助、林友会の経営にかかる食堂の切符販売、配膳の手伝等をしていた。羽賀は、昭和二六年七月三一日に林友会を退職し、その後職にも就かずにいたところ、昭和二七年二月以降東京で生活していた。なお、羽賀は、昭和二五年九月二〇日前後ころから翌一〇月一九日ころまでの間、実姉信田ウメの夫である信田孝三方の留守番を頼まれて北見市南仲町所在の同人方で寝泊りしていた。

被告人は、大正一三年六月三〇日、北見市の市街地から約一四キロメートル離れた同市字下仁頃一区で農業を営む父房吉、母なかの間に九人兄弟(六男、三女)の次男として出生し、上仁頃尋常高等小学校を高等科一年で中退して家業の農業を手伝い、以後仁頃郵便局の集配手、鴻の舞鉱山の坑内夫、再度の集配手を経て昭和一九年一一月応召により前記苫小牧の陸軍稔部隊第九二六〇部隊に入隊し、翌年一〇月に復員、帰宅したのちは、長兄が戦死したこともあって、父母弟妹らと同居し一家の中心となって農作業をしていた。被告人方では、畑約四町歩、水田約一反半を耕作していたほか、山林約二町歩、馬一頭等若干の家畜を有していた。被告人は、昭和二六年三月ころ堀籠褜子と結婚(届出未了)したものの、同女が病気で入院したため、まもなく離婚し、翌昭和二七年三月山本八重子と再婚(届出未了)した。羽賀とは、前記入隊後同じ部隊の北見地方出身者の一人として知り合い、復員後も同人と年賀状等の時候の挨拶程度の葉書のやりとりを二、三度したことなどもあったが、本件被害者大山とは全く面識がなかった。

2  大山の失踪

本件被害者大山正雄は、かねて常呂郡置戸町に住む実姉京子の夫である長尾心一方を訪ね、同人に対し、元同僚である羽賀竹男と組みホップ取引で一儲けしたいので資金を貸与してほしい旨申し入れていたところ、昭和二五年一〇月上旬ころ、出張のついでに同人方を訪れた際、同人から同月一〇日に北見市で貸し付ける旨の話があり、同日夕方同市内の小公園で落ち合い、次いで食事のため赴いた同市一条東二丁目所在の富山旅館で同人が当日北海道拓殖銀行北見支店から引き下してきた現金八万円(全部古い千円札)を受け取った。その際、大山は、長尾に対し、「羽賀に金を貸して羽賀が三楽園でホップの取引をするのを一緒に行って見るんだ。一、二時間のうちに取引を終えて戻ってくる。」などと言っており、食事もとらないまま、外が暗くなった同日午後七時ころ、長尾から、「金を持って夜出て歩くのだから気をつけた方が良い。」、「他人の前を歩いてはいけない。」との注意を受けながらも、「友達とやるのだから別に心配はない。」と言い残し、右現金を風呂敷に包んで上衣の下の腰部に巻きつけて出かけた。またその時大山は、旅館に風呂敷包みを置いていっており、それには、営林局の職員旅費の精算書の書類、小銭(百円以下の単位)の入った同局の旅費支給用の封筒数枚が入っていた。しかし、大山は、その日長尾の待つ富山旅館へは戻らず、翌日以降営林局を無断欠勤した。右長尾が翌日羽賀の自宅や前記信田方を訪ねあてて羽賀に会い、大山が言っていた前記取引の話を確かめたが、羽賀はこれを全面的に否定した。その後大山の家族、親族らが心当りを訪ねるなど大山の行方を探したけれどもその所在は判明しなかった。大山は、会計課旅費支出係として職員に支給すべき旅費の金額を審査し、支出係長から交付される旅費現金を旅費請求職員別に封筒に入れて渡す職務を担当していたところ、右一〇月一〇日当時、右営林局職員に支給すべき旅費引当金約一三万三一七六円を保管しており、そのうち金種が千円札の分はほぼ一二万八〇〇〇円と推定されたが、これも同人とともに不明となった。

大山が失踪した翌日である同月一一日ころ、同営林局会計課長宮島富太郎方に大山の筆跡と思われる差出人大山正雄名義の封書が郵送されたが、その内容は、自ら公金を拐帯したことを認める一方、官憲への届出を阻止すべく、「ミイラ取りがミイラにならないように」などという営林局幹部の不正行為を警告する趣旨のものであった。同局では、大山が公金を拐帯、横領したものと判断したけれども、同人の父大山治助が弁償を約束したためもあって事件はそのままになっていたところ、翌二六年六月になり後記小林三郎の公金拐帯、横領事件が新聞に報道され、羽賀の共犯容疑の線が出たことから、長尾心一は、あるいは大山が殺害されたのではないかと思い、同年七月五日ころ北見市警察署に事情を説明した。

3  小林事件の発生、清水・羽賀の逮捕

昭和二六年六月一一日、留辺蘂営林署庶務課会計係員の小林三郎(大正一二年三月三〇日生)が北海道拓殖銀行北見支店内にある日本銀行北見代理店から同署の前渡金四七二万円余りの大金を受領したまま行方不明となる事件が発生した。警察は、業務上横領事件として鋭意捜査をしていたところ、当時北見林友会に勤務していた羽賀について小林との共犯容疑が深まったため、同年六月二三日羽賀を右の業務上横領の被疑事実で北見市警察署において逮捕し、勾留して取り調べた。羽賀は、取調べ中自分の所持金一二万五〇〇〇円を逮捕直前ころ実姉信田ウメに預けた旨供述し、同女もこれを認め、同月二五日に一二万四七〇〇円を任意提出したことがあったけれども、決め手がなく、羽賀は同年七月一五日処分保留のまま釈放された。また、清水一郎(昭和三年五月一五日生)は、そのころ派手な遊興飲食を重ねていたことから嫌疑を受け、昭和二六年一二月一〇日自動車タイヤ窃盗容疑で逮捕されたが、同月二〇日ころには釈放された。

ところが、翌昭和二七年四月一五日に至り、北見市若松区所在の信善光寺裏山において白骨化した死体の一部が発見され、鑑定等の捜査の結果、この死体が行方不明になっていた前記小林であることが判明し、ここに事件は強盗殺人、死体遺棄事件(以下、これを「小林事件」という。)に発展した。北見市警察署に設けられた捜査本部は、同年八月三〇日有力な容疑者である羽賀について、大山との共謀による長尾心一に対する八万円の詐欺容疑で逮捕状を得るとともに、同年九月三、四日他の容疑者ら、すなわち、信田孝三、清水一郎、金田正三、木幡義美を別件で一斉に逮捕したが、当時上京中の羽賀については危険を察知されて逃走されたため逮捕に至らなかった。清水は、小林事件について、当初否認したものの、まもなく、それが、羽賀の立案に基づき、短期間の麻薬取引により大きな利益を獲得できるとの口実によって小林に多額の公金を流用させておびき出し、清水において昭和二六年六月一一日小林を殺害して公金を強奪し、死体を埋めたものである旨、小林事件のほぼ全貌を自白するに至った。

そして、昭和二七年九月一七日、羽賀は、前記信田孝三方の天井裏に潜んでいるところを前記詐欺容疑で逮捕されて北見市警察署に引致され、同月二〇日から留辺蘂町警察署に勾留され、小林事件について取調べを受けた。そして羽賀は、まもなく小林事件について犯行を認め、大筋において清水供述にほぼ一致する自供をするに至り、同月二九日には小林事件(強盗殺人、死体遺棄事件)で通常逮捕されたが(留辺蘂町警察署に勾留)、強取した金員の所在は不明であり、その捜査は難航していた。

4  大山事件の発覚

ところが、右小林事件で取調べ中司法警察員渡辺四郎から大山の件についても尋ねられた羽賀は、「大山は死んでいる。」と述べたことをきっかけとして、大山を殺害したことを自供するに至った。このため一〇月一日朝から羽賀に大山の死体の埋没場所への案内を求めたところ、最初に羽賀が案内した常呂郡端野村字緋牛内の指示地点からは死体は発見されなかったものの、同日二度目に同人が案内、指示した北見市高台第五区今村佐市方山林内の沢床(沢の底部)の地中から大山の腐敗した全裸の死体が発見された。

同所は、北見市街の北方の小山の起伏する丘陵地帯に位置し、北見市五条東六丁目の基点から北西にのびる通称仁頃街道の右基点から約一九〇〇メートル余りの地点において同街道より北東方向に分岐している山径(北見市昭和区方面に至る。)を約九〇ないし一一〇メートル進んだ付近の山径東南側低地にあたる。右仁頃街道沿いには、前記基点から約一〇〇メートルの地点に柴川木工場、同所から約一一〇〇メートルの地点に東陵中学校、同所から約一〇〇メートルの地点に青年会館があり、また東陵中学校の手前及び通過した地点の二か所においていずれも右街道をはさむように両側に木が生立している(いずれも「二本木」という。)。山径は、仁頃街道から入ると緩い下りの幅員約三メートルの未舗装の坂道で、両側に若干低くなっている部分があり、その外側の両端には草が生えている。山径の東南側には山径に沿って仁頃街道との分岐点寄りに始まる沢が形成され、周囲は、畑、山林となっており、人家はない。山径と沢の間には、ほぼ一〇メートル前後の幅で約二五ないし五〇度の角度をもった傾斜地があり、これに続く沢は、両側が五〇ないし八〇度の急勾配の崖である。山径から崖にかけての斜面には、笹、蓬等の雑草や細い雑木のほか、赤だもの木等が繁茂、生立し、これと反対側の斜面にも、白樺、いたやの木等が生立しているため、山径を歩行していると沢の中の見通しはきかない。大山の死体は、赤だもの木の直下の幅員約一・〇五ないし一・四メートルの沢床(崖の深さ約三・六メートル以上数メートル、傾斜約八〇度)において深さ約一・三五メートル(四・五尺)の地中から、頭部を沢の上手(仁頃街道と山径の分岐点方向)、下肢を沢の下手に向け全身を伸展して仰向けの状態で発掘された(以上、別紙見取図第一図本件地理案内図、第二図犯行現場図参照)。右死体の頸部には麻製細引様の物が巻き付けられ、その頭蓋骨の前額部から頭頂部、後頭部にかけ広く亀裂があるのが確認されたため、右死体は他殺と判断され、大山の失踪時の状況等にも照らし、前記大山に関する失踪、横領事件は、同人を被害者とする強盗殺人、死体遺棄事件(以下これを「大山事件」という。)であることが判明した。

5  被告人の逮捕、自白

羽賀は、大山事件について、当初は、自分が単独で大山を誘い出して殺害し、現金を奪って死体を埋めた旨供述していたところ、死体発見の翌日、すなわち、一〇月二日になって、自分は直接殺害に手を下していない旨言い出し、次いで、約三時間ののちに被告人の名前を出し、被告人を使って大山を殺害した旨供述するに至った。

このため、捜査当局は、被告人の逃走を心配し、特段の裏付け捜査もすることなく、同日午後八時三〇分ころ、前記被告人方に捜査官数名を赴かせ、就寝中の被告人を大山に対する強盗殺人、死体遺棄容疑で緊急逮捕し、同夜直ちに被告人を北見市警察署に引致した。被告人は、刑事課長である司法警察員警部伊藤力夫の弁解録取及び阿部・菅原巡査ら警察官の取調べに対し、本件犯行を否認し、同夜警察署内で羽賀と対面したこともあったが、翌三日午後になって、大館警部補、阿部・菅原巡査らの取調べに対し、本件犯行を自白し、右伊藤力夫がその供述調書を作成した。被告人は、翌四日午前中取調べの警察官らと共に本件犯行現場に赴いたのち、午後の釧路地方検察庁北見支部検察官副検事坂本好の弁解録取に対しては再び本件犯行を否認し、その弁解録取書が作成された。しかし、同日夕刻警察署に戻ってからの司法警察員巡査部長遠藤富治の取調べに対しては再び犯行を認め、その供述調書が作成された。被告人は、翌五日の北見簡易裁判所裁判官の勾留質問の際も本件犯行を認め、同日以降北見市警察署留置場に勾留された。被告人は、七日ころ父母、妻宛に本件犯行を認めたことを前提とする反省の手紙各一通を書いた。一〇月八日岡部良秀副検事が被告人を立会させて本件犯行現場、青年会館等の検証を実施したが、それに先立ち同副検事から簡単な供述調書をとられ、検証においても犯行状況等について指示説明し、犯行状況を再現する被告人の写真が撮影された。被告人は一〇月一二日網走刑務所に移監されたが、同月一六日、一七日及び一九日の橋本友明検事の取調べにおいても自白を維持し、右各日付の供述調書が作成された(但し、一六日検面は、被告人の身上、経歴のもの)。

6  自白の概要

被告人の検察官に対する自白調書の要旨は、以下のとおりである。

昭和二五年九月二〇日ころ、北見市内に買物に出た際、戦友の羽賀と出会い、その連れの大山を紹介され、次いで、同年一〇月六日ころ同様に北見市内に買物に出て羽賀の家に立ち寄った帰り途、道路を歩きながら羽賀から、ホップの取引をして儲ける話があるから仲間に入らないかと誘われて承諾し、自分がブローカー役の「井上」なる人物になって大山と取引するものと思っていた。同月八日、北見市内で再び羽賀と会った際、仁頃街道を北に進み青年会館を過ぎて右方に分岐する下り坂の山道を二〇ないし三〇間も下った付近に連れ出され、同人から大山を殺害して現金を奪い、死体を穴に埋めるとの話を打ち明けられ、驚いたけれども、羽賀から「今になってからやめると言うならば、お前の命にかかわるぞ。」とも脅され、今更断ることができず、これを引き受け、さらに羽賀から、「一〇日の夕方に俺も大山と一緒に行くつもりだが、もし俺が行けない時でも、大山に柴川木工場まで出て来るように話をしておくから、一〇日夕方柴川木工場まで来てくれ。そして、この付近まで大山の左側を一緒に歩いて来て、一歩下がってから野球のバットで大山の頭を殴りつけろ。バットは東陵中学校の近くの青年会館の裏側の縁の下に置いておくので、それを上衣の内側に隠して持っていけ。もっと丈の長い服を着てこい。バットで殴ったあとナイフで大山の頭を刺せ。大山の首を締めるための細引を用意し、これに両端と中間に結びこぶを作っておけ。そうすれば手が滑らない。衣類を全部はがし、死体は、その付近の沢に俺が造っておく穴に埋めろ。大山の衣類、持物やバットは全部持ってこい。もし俺が大山と一緒に来れない時は、東陵中学の近くにある二本榎のところで待っている。」などと指示された。

一〇月一〇日午後四時ころ畑仕事を切り上げ、海軍の中古の灰色作業衣の上衣、ズボンを着用し、刃の長さ二寸五分(七・五センチメートル)、幅五分(一・五センチメートル)、厚さ一分(〇・三センチメートル)位の七徳ナイフを持ち出し、早目の夕食を食べ、雑巾を破って布切れを作り、茶色の鳥打帽を冠り、自転車で北見市街に赴いた。市内を回ったあと、暗くなった午後六時半ころ青年会館に行って約二〇分位探して建物裏側の壁と薪の間に置かれてあった握り部分の切断された二尺位のバットを見つけた。午後七時ころ柴川木工場の材木置場付近に行き、自転車の荷台の麻縄をほどいてこぶを五個作ったのを用意し、ナイフの柄に雑巾の布切れを巻きつけ、これらをポケットにしまい、バットの太い方を下にしてこれを上衣の左側の内側に隠し入れ、上衣の裾から三寸位はみ出した下部を左手で隠すように支え持って、大山が来るのを待った。午後七時二〇分ころ大山が右手に風呂敷包みを一つ持って一人で来たので、同人と連れ立って歩いた。当夜は月は出ておらず、星が出ていたように思う。途中話をしながら、自分が左側に並んで歩き、仁頃街道から分岐した羽賀から指示された山道付近に至り、右足を一歩後に引き、同時に上衣の左側に隠していたバットの太い方の部分を右手に握って上衣の中から引き出し、両手でバットの細い方の部分を握って振りかぶりざま太い方の部分で大山の頭の後ろの方を殴りつけた。大山は「ウウン」と唸って斜め後方の右側の道路端に仰向けに近い姿勢で倒れた。顔を右側の方に少し曲げて倒れ、身体を少し動かし、「ウウン、ウウン」と唸っていた。そしてナイフを右逆手に持ち、右膝をついて大山の頭を目がけて突き刺したところ、ナイフの刃は根元まで全部頭に突き刺さった。ナイフを上から下へまっすぐ突きおろしたように思う。ナイフを付近の沢の方に投げ捨てたのち、麻縄を取り出して大山の頸に二巻きにして力一杯絞めた。大山は唸らなくなり、身体も動かさなくなった。そこで今度は、縄を首につけたまま大山の両手をもって沢寄りの草むらの中に引き下ろし、衣服を脱がせて裸にし、さらに死体を四間位沢の方に引張り、一旦沢に下りて羽賀の用意していた穴を探し出した。穴は大山の死体を置いた地点のすぐ下くらいのところにあり、深さは四尺位で、土は仁頃街道寄りの方に多く積まれていた。死体の両手を握って死体を穴まで引張り下して穴に入れ、土を両手でかけて埋めた。次いで大山の衣服を所携の風呂敷に包み、大山の持参してきた風呂敷包みを拾い、バットも持って東陵中学校の傍の二本榎のところに戻った。そこに羽賀が立っていたので、埋めてきたことを話し、これらの物を手渡した。北見市街の方に歩きながら、羽賀から千円札の束を受け取り、柴川木工場まで戻って羽賀と別れ、自転車に乗って帰途についた。途中札を数えると四五枚あった。午後一一時ころ帰宅したが、家人は皆寝ていた。翌一一日朝薄暗いころ起きてズボンを見ると前の腿のところに点々と上から垂れたような血がついており、驚いて馬小屋のそばの池へ行き、洗濯石けんを使って洗った。取得した四万五〇〇〇円のうち、約五〇〇円を煙草代、馬具修理費、自分の衣類・釘・トランク・手提鞄等の購入費や先妻褜子の入院見舞等の足しとして使ったが、同年一一月末ころ暗い気持でたまらなくなって三〇〇〇円余りを残し三万六〇〇〇円を風呂場で燃やした。その後本件でつかまるまで羽賀とは会っていない。

7  被告人の否認

被告人は、同月二一日再び留辺蘂町警察署移監となり、同日北見市警察署に送られて橋本検事に会った際、本件犯行を否認した。同日被告人は、同検事から与えられたわら半紙一三枚に警察官に対し自白した経緯を記載した手記(いわゆる「梅田手記」)を作成し、これを橋本検事に提出した。その内容は、逮捕されてから警察官に殴る等の私的制裁を加えられ、やむなく虚偽の自白をしたものであって、自分は無実であるとし、虚偽を述べたことについて謝罪するとともに検事の調べ直しを懇請するものであった。しかし、同検事は、その後右手記内容に関して被告人を取り調べず、わずかに同月二四日になって穴澤定志検事が、昭和二五年秋ころから翌年夏ころにかけての被告人の金銭収支状況について被告人を取り調べ、供述調書を作成しただけであった。同日、被告人は本件で起訴された。被告人は、以後確定審、再審請求審、当審を通じ無実を主張し続け、警察官に対する自白は、警察官から拷問を加えられ苦痛に耐えかねて犯行を認めたもので、その供述の細部も警察官の誘導に乗り、あるいは自分で適当に考えて全くの虚偽を述べたものであり、検察官に対する自白については、警察官から、「検察官に否認してはいけない。否認して憎まれては損だ。二、三年で終る刑が否認すると五年かかるぞ。」などと言われ、愚かにもこれを真に受けて、検察官に対し警察で述べたことと同旨を繰り返したにすぎない旨供述している。

8  その他の捜査状況

同年一〇月一日に発掘された大山の死体については、北見市の北見赤十字病院解剖室に移され、翌二日午前九時三〇分ころから司法警察員警部伊藤力夫により検視が行われ、これに併行する形で同日午前一〇時一〇分ころから同所で同病院医師三宅宏一の執刀により解剖され、これに右伊藤力夫、遠藤富治ら警察官が立ち会った。検視調書によると、死体の頭部前額部より頭頂部及び後頭部右側にかけ広範な頭蓋骨亀裂と赤黒い溢血痕が付着し、右後頭部に五×六分位の三角形の刺傷様の穴があって内部に達しており、頸部に細引が二巻きになっていたとされる。また、三宅医師は、同月二四日付鑑定書(以下「三宅鑑定書」という。)を作成し、これを北見市警察署に同月二八日提出したが、これによると、死因は、右側頭蓋骨前頭骨より頭頂骨後縁に渡る範囲で存在する陥没骨折であり、その凶器は相当幅のある棍棒様の鈍器であると推考され、右頭頂骨後方の骨欠損部は右陥没骨折の副産物的損傷として起こったかどうか必ずしも明らかでないとしながらも、独立した創傷と考えられないことはなく、右骨欠損部にほぼ一致する大脳頭頂葉うしろの部分に深さ約二・五センチメートル、長径一・八センチメートル、短径〇・五センチメートルの刺傷があり、頸部に巻かれた縄は三重であるとされた。右死体については、同月一三日穴澤検事が墓地に埋葬されていたのを発掘し、検証した。

同月二一日には、検察官の嘱託に基づき、北海道大学医学部法医学教室助教授医師渡辺孚が埋葬中の死体を同様に発掘して検査するなどし、同年一二月二日付で鑑定書(以下「渡辺鑑定書」という。)を作成した。これによると、死因は右側頭部打撃による脳挫創であるとされ、さらに死体の左肩胛骨にも小骨折があるとされた。

同年一〇月三日の被告人の自白後、右自白にいう本件犯行時着用し翌朝洗ったという被告人の海軍灰色作業衣上下であるということで、同月四日被告人の父梅田房吉からネズミ色上衣とズボンのほどき布地四枚が警察に任意提出されたが、血液の反応は認められなかった。また、被告人の身辺等についても広範な捜査がなされたが、被告人と本件犯行を直接結びつける証拠は出てこなかった。羽賀は、大山事件について同月二二日通常逮捕され、同年一一月一〇日起訴され、さらに小林事件について同年一二月一六日起訴された。清水一郎は小林事件について同年一〇月一八日起訴された。

二 確定審公判の経緯

被告人、清水、羽賀(大山事件、小林事件)に対する第一回公判はいずれも同年一二月八日釧路地方裁判所網走支部で各別に行われ、その後被告人と羽賀の弁論は併合され、さらにその後一時羽賀の弁論が分離されて同人が被告人の公判において証人として尋問されたことがあったものの、最終的には清水の弁論も併合され、三名共同審理を受けた。羽賀は、大山事件については、その捜査供述と同様、実行行為者は被告人である旨の供述を繰り返し、また小林事件については、自己の背後には主犯の相田賢治がおり、同人に強取金の殆んどを渡してある旨捜査供述と同様の供述をし、細部の金銭のやりとり等についても清水の供述と食い違う供述をした。これに対し、被告人は、前記のように右羽賀供述と真向から対立する供述をし、弁護人は、被告人の検察官に対する自白調書には任意性、信用性がなく、被告人が実行行為者であるとする右羽賀供述の信用性はない旨争った。清水は公訴事実を認めた。

昭和二九年七月七日、釧路地方裁判所網走支部は、大山事件について羽賀の供述及び被告人の検察官に対する自白調書の信用性を認めて被告人の主張を認めず、また小林事件については羽賀の主張を採用せず、羽賀に対し死刑(求刑死刑)、被告人及び清水に対しいずれも無期懲役(求刑各死刑)の判決を言い渡した。

同裁判所の大山事件の認定事実の要旨は、

羽賀は、昭和二五年八月ころ、商売を営む資金を得る手段として、相当多額の公金を扱っている大山を殺害して金員を強奪しようと考え、同年一〇月五、六日ころまでの間に同人と多数回にわたって会合し、営林局職員旅費等約二〇万円をホップ取引資金に短時間流用し利益を得るという取引話に同人を引き入れ、一方、殺害の実行行為者として被告人を思いつき、被告人に対し同月六日ころまでにホップ取引のブローカーとして加わることを承諾させ、同月八日ころ本件現場付近山径において被告人に対し、ホップ取引に藉口して大山を殺害して所持金を強取し死体を穴に埋める等の計画を打ち明け、これに応じた被告人に対し、一〇月一〇日夜大山を柴川木工場から右山径付近に誘導して実行に及ぶよう犯行の方法・道具、犯行後の処置等について指示するなどし、両名共謀のうえ、被告人において、同日午後七時ころ、柴川木工場前道路で短く加工した野球用バット、結節数個をつけた麻製細引、柄に布を巻いたナイフ等を準備携帯して大山を待ち、同日午後七時二〇分ころ羽賀の話に従ってやって来た大山を同行して本件現場山径に至り、大山の左側に並んで歩行中、隙をみて右足を後方に引き、大山の背後から隠し持った前記バットを取り出すとともに、振るって同人の右側頭部を強打し、昏倒した同人の頭部をナイフで突き刺し、次いで麻製細引でその頸部を巻いて緊縛し、よって右側頭部打撃による脳挫創等により、そのころ同所で同人を死亡させて殺害したうえ、所持金約一九万円を強奪し、さらに、右犯行を隠蔽する目的から前もって掘ってあった谷沢底部の穴に全裸にした大山の死体を埋没して遺棄した、

というものである。

この判決に対し被告人が控訴して争ったのは前記のとおりであり、羽賀も前記相田主犯説を主張するとともに量刑の点も争って控訴した。清水は控訴せず、有罪が確定した。控訴審において両名は共同審理を受けたが、両名の供述は一審と同様対立したままであった。札幌高等裁判所は、昭和三一年一二月一五日、被告人が司法警察員から「いわゆる拷問がなされないまでにしても相当程度の強制が加えられ、そのため本件犯行を自供したものとしてその任意性は必ずしも担保し難い情況にあったことが認められなくもない」としながらも、その検察官に対する自白調書については任意性を肯定し、結局双方の主張を認めずに右各控訴を棄却した。これに対する両名の上告も最高裁判所第一小法廷において判決をもって昭和三二年一一月一四日棄却された。

羽賀は、昭和三五年六月二〇日、札幌刑務所において死刑を執行された。

三 当審における事実認定上の争点

当審においては、職権により、原一、二審において被告人の関係で取り調べた全証拠(但し、既に滅失している証拠物を除く)を、また、当事者の請求により確定審記録及び二次にわたる再審請求審記録中の証拠の相当部分を調べ直したほか、新たに当事者から当審に対し請求のあった証拠も取り調べた。

これらの証拠を総覧して明らかなことは、被告人と本件犯行を直接結びつける客観的証拠や全くの第三者の目撃証言等は存在せず、これを結びつけるものは、被告人が実行行為を担当したとの共犯者羽賀の供述及び被告人の捜査自白だけであるということである。そして、被告人は、自分は無実であり、捜査自白は捜査官の拷問、強制、誘導等による虚偽のものであると強く主張しており、被告人と羽賀の右各供述は全く対立している。したがって、被告人の有罪、無罪を決するについての本件事実認定上の最大の争点は、羽賀供述の信用性及び被告人の捜査自白の任意性、信用性にある。以下、これらの点を中心としつつ、弁護人主張のアリバイの成否、動機の有無等についても判断する。

第三羽賀供述の信用性について

一 羽賀供述の存在

本件大山事件に関し羽賀が供述したもので、当審において取り調べたものは、以下①ないしのとおりである(以下、これを「羽賀供述」という。)。羽賀は、原一審において、被告人の公判に証人として喚問されて供述した(ないし)ほか、共同被告人としても供述し(ないし)、原二審においても、同様に共同被告人として供述した(、。原一、二審では、同人の捜査官に対する供述調書は何ら証拠になっていなかったところ、当審においては、これらを罪体立証として検察官請求により取り調べるとともに(①ないし⑨、⑪ないし)、弁護人請求により羽賀供述が変遷するなどして信用できないことの立証としても取り調べた(③、④、⑦ないし⑯、⑲ないし)。

①  昭和二七年一〇月一日付 員面(以下、年月日は数字だけ記載)

②  二七・一〇・二付 員面

③  二七・一〇・三付 員面(図面添付のないもの)

④  二七・一〇・三付 員面(図面一枚添付のもの)

⑤  二七・一〇・四付 員面

⑥  二七・一〇・六付 員面

⑦  二七・一〇・七付 員面(三枚綴りのもの)

⑧  二七・一〇・七付 員面(二枚綴りのもの)

⑨  二七・一〇・八付 員面

⑩  二七・一〇・九付 員面

⑪  二七・一〇・一二付 員面

⑫  二七・一〇・二一付 第一回検面

⑬  二七・一〇・二三付 第二回検面

⑭  二七・一〇・二三付 第三回検面

⑮  二七・一〇・二三付 第四回検面

⑯  二七・一〇・二四付 第五回検面

⑰  二七・一〇・二六付 第六回検面

⑱  二七・一〇・二六付 第七回検面

⑲  二七・一〇・二七付 第八回検面

⑳  二七・一〇・二七付 第九回検面

二七・一〇・三一付 第一〇回検面

二七・一〇・三一付 第一一回検面

二七・一〇・三一付 第一二回検面

二七・一一・一付 第一三回検面

二八・三・一二 原一審第七回公判証言

二八・三・一四 同第八回公判証言

二八・四・三 同第九回公判証言

二八・四・一四 同第一〇回公判証言

二八・四・二七 同第一一回公判証言

二八・八・三付 同検証調書中の指示説明部分(六月一八日実施)

二八・一二・一七 同第一九回公判供述

二八・一二・二四 同第二〇回公判供述

二九・一・二六 同第二二回公判供述

二九・二・一 同第二三回公判供述

二九・二・二 同第二四回公判供述

二九・三・三 同第二七回公判供述

二九・三・一六 同第二八回公判供述

二九・五・三一 同第三〇回公判供述

三一・五・二九 原二審第五回公判供述

三一・一〇・一一 同第六回公判供述

三一・一一・一四付 同審における上申書

三二・五・六付 上告趣意書

三五・六・二〇 遺言(札幌刑務所長作成の照会回答書)

二 羽賀供述の内容

羽賀は、大山の死体が発掘された当日である一〇月一日付員面において、単独で大山を殺害して現金一九万五〇〇〇円を取り、死体を埋めた旨自供したところ、翌二日付員面において、本件は戦友の被告人を使って大山を殺害させたものであると供述を変更し、その共謀内容や犯行に至る経緯等の概要を述べるに至った。以後、羽賀供述は、その細部において供述の変転はあるけれども、死刑執行直前の遺言に至るまで、共謀に基づき被告人が本件の実行行為を担当したとの根本において変化はしていない。全供述を通じ、羽賀は、本件の概要を概ね次のように供述している(後記のように変遷している部分もある)。

昭和二五年七月末に営林局を退職した後、世の中を太く、短く生きる気になり、商売用のまとまった金を得るため、人を殺して金を奪う考えになり、営林局の同僚であった旅費支給係の大山をその対象として考え、映画館(友楽座)や送別会で会った機会に同人に対し、利潤のあがる仕事がある旨申し向け、商品の取引に一時旅費を流用するよう誘った。その一方で、共犯者を探すうち、たまたま自宅に訪ねて来た被告人を辰巳食堂に案内した上、金欲しさのため手段、方法を選ばないことを確かめ、大山殺害計画を話してその参画を取り付けた(被告人との第一回目会合)。九月下旬ころ、辰巳食堂において、被告人を取引のブローカーであるとして大山に紹介し(第二回目会合)、次いで、一〇月初旬(三日)ころ図書館で被告人、大山と会い、流用金で購入する品物を直ちに他に転売して利益をあげられるものと大山を誤信させ(第三回目会合)、次いで、同月五、六日ころ、大山と会い、同人と同月一〇日午後七時三〇分ころ柴川木工場で待ち合わせることにしたが、その際、一〇日には自分が取引に一緒に行けないかもしれないが、被告人と一緒に行って取引するよう言い、一方、同月八日ころには仁頃街道から分岐する山径の本件犯行現場付近に被告人と赴き、沢に下りて死体埋没用の穴の位置を決め、バットによる殴打のあと頸部を縄で絞め、衣服を脱がして死体を沢に掘った穴に埋める相談をし、自分が造ったバットを短く切ったものを被告人に渡し、両端と中央部に合計四個の結び玉をつけた縄を用意するよう話した(第四回目会合)。翌九日、一人で右の沢に行って穴を掘った。一〇日午後五時(あるいは六時)ころ、柴川木工場で被告人と会い(第五回目会合)、急用ができたとの理由をつけて被告人一人で実行するよう指示し、その場から立ち去るふりをして柴川木工場の裏手の方からひそかに様子を見ていると、約束の時刻ころ大山一人が現われ、二人が本件犯行現場に向かったので、その跡をつけ、仁頃街道から分岐する山径に入ったのを見届けた。しばらく待っていると、被告人が帰って来たので、急ぎ柴川木工場付近まで戻り、仁頃街道を進んで被告人と落ち会った。そして、被告人から大山の持参した現金入り風呂敷包み、大山の衣類を包んだ風呂敷包み及び犯行に使用したバットを受領した。被告人には、とりあえず、強奪金の四分の一位を渡して別れた。自分の手に残った現金は千円札で一四万五〇〇〇円あった。大山の衣類、バットは当時留守番をしていた信田方のストーブで焼いたが、衣類に血痕は付着していなかった。同年一一月初めころ北見市街で被告人と出会った際、金員の追加を要求されたが、渡さなかった。自分の取得金のうち、一〇万円を同月ころ義兄信田孝三に貸したが、翌年四、五月ころまでに分割で返済を受け、同年六月逮捕されるとの情報があったため、そのころまで費消していた約二万円を除いた一二万五〇〇〇円を姉信田ウメに預けた。

三 羽賀供述の信用性の検討

1  検察官の主張

検察官は、羽賀供述が基本的に信用性が高いものであると主張し、その論拠として、(1) 大山の死体は、羽賀供述によって発見し得たものであって、本件の核心ともいうべき決定的な秘密の暴露があること、(2) 羽賀が大山の死体発掘場所を案内するに至った経緯は、誠に自然であり、また、羽賀が、実行行為者である被告人の名前を出さざるを得なくなったのも、客観的証拠に基づく捜査官の合理的追及に抗し切れなかったためであって、その供述の経緯は、自然で合理性があるうえ、小林事件に加えて大山の強盗殺人・死体遺棄の事実を自供することは、羽賀にとってほとんど死刑を免れがたい決定的なものであるから、羽賀が小林事件の強取金に関する警察の追及をそらすために本件を自白したとは到底考えられないこと、(3) 羽賀の被告人に対する本件犯行方法の細部にわたる詳細な指示内容は、大山の死体及び死体埋没現場等の客観的状況と整合すること、(4) 被告人の本件実行行為前後に関する羽賀供述は、被告人に密着し、それに準ずる体験に基づくものであって、その内容は臨場感に富み具体的であること、(5) 羽賀供述は、枝葉末節の部分はともかく、被告人との共謀による犯行であることを自白した後においては、その骨子は終始一貫しており、信用性に影響を与えるような動揺は認められないこと、などを挙げる。

2  弁護人の主張

これに対し、弁護人は、(1) 羽賀は、被告人を実行行為者とすることにより、大山事件の真実の共犯者を隠蔽し、同時に当時追及されていた小林事件の強奪金の行方を秘匿し、自らの刑責の軽減をはかろうとしたものであって、羽賀には虚偽供述の動機が存在したこと、(2) 羽賀には、北見営林局会計課長宮島富太郎宛封書すりかえ工作、羽賀秘密文書等にみられる奸智のように、自己に不利な状況から脱出するための特殊な虚言癖、性向があったこと、(3) 被告人が犯人でない旨の羽賀の奥野蔀、鐙貞雄に対する告白等、羽賀の自己矛盾の供述があること、(4) 羽賀供述には、羽賀の創作を首肯するに足りる数多くの不合理な変遷があること等を挙げ、被告人を本件の実行行為者とする羽賀供述は虚偽であると主張する。

3  当裁判所の判断

羽賀供述は、羽賀の立場では自白であるが、被告人にとっては、いわゆる共犯者の供述である。共犯者の供述(自白)がともすれば自己の刑事責任の軽減をはかり、あるいは真の共犯者らをかばう等の目的から、無辜の者を事件に巻き込んだり、共犯者に対し役割分担等について不利益を押しつけかねない危険性を孕むものであることは、つとに指摘されるところであり、共謀に基づき被告人が実行行為を分担したとの本件羽賀供述部分は、供述者である羽賀の置かれた立場や利益、右供述をしなければならない必要性の有無、供述に至った経緯・動機、供述内容自体の合理性、他の証拠により認められる事実との整合性、羽賀の人格等、あらゆる観点から、その信用性について慎重な吟味を要するものといわなければならない。以下、検察官、弁護人が指摘する点を中心に、順次検討する。

(一)  秘密の暴露

確かに、前記認定のとおり、羽賀の案内、指示した場所から大山の他殺死体が発掘されたのであって、検察官主張のように、羽賀の自供内容には、本件犯行の中心部分、すなわち、強盗殺人・死体遺棄行為の根幹部分について、いわゆる秘密の暴露があるということができる。そして、このような秘密の暴露を伴った自白については被告人が共犯者であるとする部分も含め、一般にその供述全体の信用性も高いと考えられる。また、後記のような羽賀が大山の死体埋没場所の供述を始めた経緯等にも徴すると、羽賀と大山事件との結びつきは決定的であり、羽賀が何らかの形で大山の強殺・死体遺棄行為に関与したことは疑う余地のない事実であるとも認められる。

しかしながら、羽賀供述は、既に述べたとおり、共犯者の自白としての危険性を有しており、被告人を共犯者であると名指しする部分の信用性についてはなお十分な吟味を要すると思われる。

(二)  供述に至る経緯、動機

羽賀が大山の死体埋没場所の供述を始めた当時は、判示冒頭認定のように、小林事件についての羽賀の自白があった後とはいえ、その強取金は未発見で、その行方について捜査が難航していた時期であり、羽賀が強取金の所在について捜査官の追及を受けていたことは推測するに難くないところ、弁護人は、警察官の右追及を一時的にかわして新たな虚構を考え出す時間稼ぎのために、羽賀は大山殺害を自供した旨主張する。

しかし、羽賀は、第四回検面において、「刑事さん達は、大山君が当時まだ生きているという前提で私の取調べをしていたのです。その中、今考えてもどうしてその様な気になったのかよく判らないのですが、刑事さん達から問われもしないのに、私は、『大山君は死んで居ります。』という話をしたのです。」と供述していること、当時羽賀の取調べを担当していた渡辺四郎は、原二審において、羽賀の方から積極的に「大山の失踪事件について俺は知っている。」と述べ始めたものである旨証言していること、既に重大犯罪である小林事件を自供していた状況下で、さらに羽賀が別の強盗殺人・死体遺棄事件に直結するような大山の死亡やその死体埋没場所について供述するのは、極刑につながりかねない深刻な事態を招来する可能性の非常に強いものであり、羽賀は容易にこのことを予期し得たと思われること等に徴すると、羽賀が、小林事件の強取金の行方追及を免れるための一時的な時間稼ぎのために大山の死亡を言い出したとは到底考えることができない。大山が死亡しているとの羽賀供述は、羽賀も後刻自ら「まずいことを言ってしまった。」(第四回検面)、「話している途中で、しまったと思った。」(原一審第二四回公判供述)と述懐するように、不用意に口について出たものであり、それをきっかけとして捜査官の追及を受け、その殺害を自供したものと認めるのが相当である。また、その後羽賀が一旦は全くでたらめの場所に捜査官を案内した経緯等にも照らすと、羽賀が真実の大山死体埋没場所を供述したのは、右のように口をすべらせたことを悔いて別の場所に案内したものの、取調べ担当の警察官渡辺四郎らが他の警察官の手前恥をかいたのに強く叱責もしなかったのに感じ入り、右渡辺らに申し訳けないとの気持を抱いたためであったと窺うことができる(原二審証人渡辺四郎供述)。そして、このような供述に至った経緯は、一応自然なものといえるのであって、首肯するに足りるものである。

なお、この点につき、羽賀供述中には、小林事件が発覚し、もう自分の運命は決まった、もうおしまいだという気持ちから大山事件を自供した(原一審第二三回公判)、小林事件一つでも死刑は免れないと思った(原二審第五回公判)との部分もあるけれども、羽賀自身前記のようにどうして大山のことを口にする気持ちになったのかよく分からない旨供述し、大山の死亡を不用意に口に出したことを後悔していた経緯もあること、関係証拠によると、羽賀は、小林事件について自供したとはいっても、同事件の強取金四七二万円余の大金の行方について、当初警察へのレジスタンスの気持ちから、これを小林の着衣とともに大阪のある人に送った旨弁解していたのであって(羽賀の原一審第二〇回公判供述)、前記のようにこの強取金の所在は確認されず、これをめぐって捜査は非常に難航していたこと、さらにその後も羽賀は判示冒頭認定のように相田賢治主犯説を唱え、上告審まで量刑の点を含めて争っていること(羽賀作成の昭和三二年五月六日付上告趣意書)等の事情にも徴すると、羽賀が既に発覚した小林事件で死刑を観念し、真実悔悟して大山事件の自供を始めたものとは必ずしも認め難いといわなければならない。

次に、羽賀が、自己単独犯行供述を撤回し、共犯者として被告人の名前を挙げた経緯について検討する。

羽賀は、原一審第一一、二三回各公判、原二審第五回公判、第四回検面等において、当初警察官に対し、大山の死体の頭の方向は沢の下手である旨、大山の頸部を絞めた縄は、二尺位の長さで、両端と中央部に合計四個の結び目をつけたもので、これを大山の首に一回巻いて真うしろで縛り、犯行後縄を持ち帰って焼却した旨供述し、また刃物使用の点については特に触れる供述をしていなかったところ、右供述内容と発見された死体の状況との食い違いを捜査官に理詰めで追及され、結局嘘を通せなくなり本当のことを述べる気になり、被告人の名前を出すに至ったと供述している。

死体に関する客観的状況として、冒頭認定のように、大山の頭部は沢の上手に位置し、その頸部には細引様の縄が巻き付けられて残されており、頭部に刺傷様の骨欠損部があったほか、関係証拠によると、後記認定のように、右細引様の縄は三重に巻かれていて頸部前面において結ばれており、その全長は推定約一四七センチメートル程度で、結び目が六個存在したことが明らかであり、原二審における証人渡辺四郎も、頭の方向や麻紐の長さ等が実際の状況と食い違うので他に関係者があるものとみて羽賀を取り調べたところ、羽賀は、「殺したのは俺ではない。」と言い出し、その約三時間後に被告人の名前を出した旨、羽賀供述にそう供述をしていることを合わせ考えると、羽賀は、当初大山の死体状況について供述したものの、その供述中には死体の客観的状況と食い違う部分があったため、捜査官に追及され、一旦自分が殺害を担当していないと述べたこと、然るのちに約三時間を経て羽賀は、共犯者として被告人の名前を出したこと、以上の経緯が認められる。

もっとも、捜査官から追及されたという死体の客観的状況との食い違い箇所のうち、大山の頭部の位置に関しては、羽賀は、原一審第一〇、一一回各公判において、死体を運搬する経路としては、沢の最上端から沢に至る方法と穴付近の山径から穴の下手の沢に至る方法の二方法があり、後者のように一旦死体を穴の下手に降ろし、そこから足を引張って穴の中に入れるのが最も手順がよく、その場合頭部は沢の下手側に位置することになるが、被告人にもそのように話したというのであり、具体的に死体運搬の経路との関係を挙げて発掘現場で頭部の方向を指示したという供述をするものであるところ、第四回検面においては、死体発掘にかかる際刑事から頭部の方向を聞かれ、犯行の二日位前に被告人に対し死体を穴の渕まで持って来て足から持って引張ればうまく死体が穴の中に入るという話をした記憶があったので、この時もその付近の地形から判断して被告人が穴の沢の下側の方から入れたものと考えたので、沢の下側を手で示し、こっちの方ですと言った旨供述している部分、また第七回検面においては、大山の死体を沢の穴に引張り降ろす道順はその日の具体的状況によって被告人が決めることにした旨供述している部分(なお、第一一回公判でも、死体運搬経路については、その時の状況により適当に判断するという付則があった旨述べている。)があるほか、そもそも殺害後の興奮した精神状態下において暗所で崖を引きずり降ろし穴に埋没する際、頭部をどちらに向けたのか必ずしも明確な記憶を保持するとも限らないのであるから、羽賀が当初死体発掘に際し捜査官に対し頭部が沢の下手にある旨断定的に述べていたのか、すなわち、死体状況と食い違う供述といえるほどのものがあったのか若干の疑いを容れる余地なしとしない。また、頭部の傷様のものに関しては、羽賀は、原一審公判では、被告人との間で予めやりそこなった時の用意のために刃物を持ってきて使うという話が出ていたこと(第九、一一回各公判)、警察官に頭部刺傷に使用した刃物と刺傷箇所について追及を受けたが、刃物の種類が分からず、警察官の質問に対し答えることができなかったこと(第一一、二三、二四回各公判)を供述するのであるが、羽賀は、捜査段階では被告人の名前を挙げる際に刑事に突込まれた事項として頭部の刺傷のことを何ら供述しておらず(第四回検面)、そもそも検面においては、予め被告人との間で刃物使用の話が出ていたとの供述もなく、わずかに一〇月四日付員面末尾において「万一やりそこなった時に使うように何か刃物を用意して行くように梅田に言ったような記憶もある。」旨供述しているにすぎないのであって、頭部の傷に関し、羽賀がその供述するような食い違いの追及を受けたものかどうか必ずしも明確なものではない。

しかし、いずれにしても、頸部緊縛に使用した縄の長さ、結び目の数、絞頸の状況に関し、当初の羽賀供述と死体の客観的状況との間に食い違いのあったことは明白であり、このような食い違いは、羽賀が犯行現場に臨場しておらず、自ら頸部緊縛等の実行行為に手を出していないことに基因すると考えることも当然可能であり、これに、羽賀は実行行為を担当する方が担当しない者より罪が重いと考えており(一〇月二日付員面、第五回検面、第七、二三回各公判)、小林事件においても実行行為を清水に担当させたことを合わせ考えれば、羽賀が犯行現場に臨場しておらず、自ら実行行為を担当していない可能性は相当強く窺われるものであり、単独で実行したとの嘘が通らなくなり、やむなく実行行為を担当した共犯者として被告人の名前を出した旨の羽賀供述は、一応、自然で合理的なものといえなくもない。

検察官は、羽賀は、下り坂で後方からバットで殴打した場合、大山は前のめりにうつ伏せに倒れるとの想定のもとに、大山の首をうしろから縄で絞め真うしろで縛ったと供述したものであり、この点の食い違いは、羽賀が実行行為の現場に臨場しておらず、したがって自らは頭部打撲及び頸部緊縛に手を下していないことの明白な証左である旨主張するけれども、右食い違いに至った原因については、それ以外でも、例えば、羽賀自らの単独犯行としても、羽賀の供述に何らかの記憶違い、勘違いがあったか、あるいは明確な記憶がないのに適当に供述したため結果的に虚偽となった場合、羽賀が犯行現場に臨場し、一部実行行為も分担したけれども、別に共犯者もおり、その共犯者が主として絞頸行為を担当したため、死体の絞頸状況について明確な記憶がなく、やむなく適当に答えたような場合等も想定できないではなく、したがって、本件においては検察官の主張のような可能性は高いとはいえるけれども、右のような種々の想定を否定し得ない限り、前記食い違いをもって検察官主張のように断定することはできないと思われる。

なお、以上について、羽賀が、真の共犯者をかばい無関係の者を犯行に引張り込むために当初から計画的にことさら死体状況につき虚偽を述べ、警察官の追及をまってもっともらしく共犯者名を挙げ、その供述に真実味を持たせたとの推測もあり、後記のように羽賀が狡猾で奸智にたけ驚くほどの行動力を示す人物であることに徴すると、その可能性が全くないものとも断じがたいけれども、死体発掘に先立ち、羽賀が死体頭部の位置を述べる際に予めそこまで計算していたとは通常考え難いであろう。

(三)  虚偽供述の理由、必要性

そこで進んで、羽賀が、実行行為者は被告人であると供述するにつき虚偽を述べなければならない理由、必要性が存在したのかどうかについて検討する。

前示のように、被告人と羽賀は、軍隊当時同年兵として知り合ったもので、復員後両名が年賀状等で時候の挨拶を交わした程度の仲であったが、復員後両名が何度会ったかについては、両者の言い分は食い違っている。被告人は、昭和二三年六、七月ころたまたま北見市桜町の羽賀の家に立ち寄ったことが一度あり、他には同年一一月ころ北見市街で行き会っただけであると言うのに対し、羽賀は、一度目は昭和二二年四、五月ころ(原一審第七回公判)あるいは六、七月ころ(同第二二回公判)もしくは昭和二三年春ころ(第一回検面)、被告人が自宅に寄ったことがあり、二度目は、昭和二五年八月下旬か九月上、中旬ころ被告人が再び自宅に立ち寄ったので二人で辰巳食堂に出かけて本件を持ちかけたものであり、以後本件に関連して後記のように何度か会った旨供述している。

しかし、羽賀供述中の本件と関連した右最初の会合日以前において、羽賀の自宅であったのが一回であったことについては両者の供述は一致しており、被告人、羽賀の各供述を含む本件関係証拠によれば、その際被告人は北見市街に買物に出たついでに特段の用事もなく初めて羽賀宅を訪ねたにすぎず、被告人の供述でもその後北見市街でたまたま行き会った時も特段のことはなく、その後両名の交際が特に深まったような事情は全く認められないから、本件当時(昭和二五年八月ないし一〇月ころ)被告人と羽賀が何らかの利害関係が生ずるほど親密な交際状況になかったことが明らかであり、本件当時羽賀が被告人に対し事実に反しことさら虚偽を述べて被告人を罪に陥れなければならないような恨み、悪感情等を有していたことを窺わせるような事情も全く存しないところである。また、羽賀が、被告人を実行行為者であると指名する供述をした当時、羽賀は小林事件について自供していただけでなく、大山事件についても死体埋没場所を供述して同事件の犯人であることは間違いないという状況下に置かれ、小林事件だけでも重刑が予想されていたから、一般論としていうと、大山事件についてことさら虚偽供述をしなければならない事情も存在しないかに思われる。

しかし、前記のように、羽賀は、共犯者として被告人の名前を出した当時必ずしも小林事件について全面的に罪に服するという潔い態度を示していたものではなかったこと、羽賀が大山事件当時姉信田ウメ方の留守番をしていたことは前記のとおりであるが、後記認定のとおり大山事件の強取金のうち一〇万円を義兄信田孝三に貸し付けていたうえ、その後も判示冒頭認定のように一二万五〇〇〇円を信田ウメに預けていたのであり(羽賀は、この金員は大山事件の強取金の一部であると供述している。)、また関係証拠によると小林事件の犯行の前後にわたりその共犯者清水一郎も頻繁に右信田方に出入りしていた事情もあって(清水の第一ないし第三回各検面等)、羽賀は、当時信田孝三夫婦とは単なる親戚関係以上の密接な関係にあったこと、判示冒頭認定のように信田孝三は現実に小林事件の容疑者の一人として逮捕された経緯もあること、後記のように、羽賀は、昭和三一年から三三年にかけて収容されていた札幌刑務所大通拘置支所において、未決囚として拘禁されていた奥野蔀に対し、大山事件の真の共犯者を述べると自分の近親者にも触れなければならない旨打ち明ける言動をしていること等の事情に徴すると、羽賀の近親者が大山事件の共犯者であるか、あるいは小林事件を含め羽賀の犯行に何らかの関与をしているのであれば、羽賀が、その近親者をかばうために他の関係のない第三者の名前を出す可能性を一概に否定し去ることはできないように思われる。

(四)  羽賀の指示内容と客観的状況との整合性

羽賀供述によると、本件犯行の二日前の一〇月八日ころ、被告人と共に本件犯行現場へ下見に行った際、羽賀は、被告人に対し、前記のように犯行の手段、方法の細部にわたり指示を与えているところ(なお、一〇月四日付員面だけは、一〇月三日の図書館での会合の時に右の指示を与えたことになっている。)、関係証拠によれば、大山の頭部複雑陥没骨折は鈍器による後方からの打撃により生じたもので、凶器としてバットがこれに適合し、絞頸に使用された細引の両端と中間に結び目があり、死体が全裸で、しかも予め決めたという場所に存在する穴の中に埋められていたこと等が認められるところから、羽賀の指示内容の相当部分が客観的に裏付けられているといい得よう(もっとも、第七回検面では、「大山の左側に並んで歩き、隙をみて一歩下がりざま殴打せよ。」との殴打行為の指示については、後記検討からすると、そのままでは、大山の頭蓋骨の陥没骨折状況と整合するものとは必ずしもいい難い面がある。)。そして、この点は一般的には羽賀供述の信用性を肯定するに積極的な事由の一つといえよう。

しかし、右の程度の客観的状況は、既に羽賀あるいは捜査官が知っていたかもしくは容易に推認し得る事実であって(羽賀が捜査官の誘導により供述した可能性もないではない。)、そう高くは評価できないと思われる。また、羽賀が、真の共犯者の替わりに被告人の名前を出したと仮定するならば、羽賀の指示内容がこれら客観的状況と符合するのも当然のことというべきである。

(五)  被告人の行為との密着性等

検察官は、羽賀供述によると、羽賀は、犯行当日予め被告人と会い、種々説得して一人で犯行を行うよう承諾させ、大山殺害の直近まで被告人と大山の様子を窺いつつ尾行し、その後これに近接した時間、場所で被告人から殺害された大山の着衣、バット、強取金を受け取り、被告人に約五万円を分配したのであって、羽賀供述は、被告人の本件実行行為に密着した体験に基づくものであり、その供述内容は臨場感に富み具体的で、被告人との関係では直接的であって十分な信用性が認められると主張する。

しかし、羽賀が、被告人の本件実行行為に密着した内容を供述するものであるとはいっても、それはあくまでも被告人の実行行為の存在(それは、まさに羽賀供述により存在するとされているものである。)を前提とするものであって、これをもって羽賀供述の信用性を肯定するに特に有意義なものということはできない。

また、被告人の実行行為の前後に関する羽賀供述が臨場感に富み具体的であるかについては、確かに、羽賀が被告人に対し、「のっぴきならない用事のため大山との約束の時間までに来れるかどうか分からない。なんとかして時間に間に合うよう努めるが、間に合わないかもしれない。その時には一人でやってくれないか。」等といって説得した(第八回検面、原一審第九回公判等)というのは一応具体的であるし、その後柴川木工場の土場から様子を窺ったり、尾行して二人が本件現場の山径へ入るのを見届けたり、被告人らしい人物の輪郭を認めてすばやく柴川木工場まで戻り、さらに引き返して被告人と出会ったりした経緯やその際「遅くなってすまなかった。」、「うまくいったか。」などと話しかけたのに対し、被告人はうなずく程度で極端に口数が少なかった等と供述(第八回検面、原一審第九回公判等)するのも一応具体的であり、臨場感のないものとはいえない。しかし、右説得した時の状況については、後記(六)、(17)のように、犯行後の待ち合わせ場所についてやや不自然な点があるし、尾行と待機した場所等については、後記(六)、(18)のように、不自然、不合理な点があり、また犯行後再会した時の言葉のやりとりにしてもさほど臨場感にあふれたものともいえず、頭の中で考えられないことはないものであろう。なお、仮に、羽賀が、被告人ではない真の共犯者との体験に基づいて供述したのであれば、その内容に臨場感、具体性が伴うのも当然であろう。いずれにしても、被告人が共犯者であるという羽賀供述部分の信用性を判断するにあたり、右の程度の具体性、臨場感があることを過大に評価するのは相当ではない。

(六)  供述の変遷及び供述内容自体の合理性

弁護人は、羽賀供述のうち、羽賀と被告人との犯行に関する打ち合わせその他の共通体験事項の部分は、羽賀の作りごとであり、羽賀供述中には右創作を窺わせる数多くの不合理な変遷があると主張するのに対し、検察官は、弁護人の指摘事項は羽賀供述を形式的、表面的に観察したにすぎないもので、本件発生後の時間的経過、供述者の心理、供述事項が事案全体の中に占める意味等について実質的な吟味、検討を欠いたために生じた誤りであり、羽賀供述は、自己が単独で本件を敢行したとの供述を撤回して被告人との共謀による犯行であることを自白した後は、枝葉末節の部分はともかく、その骨子においては終始一貫しており、信用性に影響を与えるような動揺は認められないと主張する。

確かに、羽賀供述を総覧すると、羽賀が単独犯行供述を撤回した後においては、羽賀は、死刑執行時の遺言に至るまで、終始、本件は、被告人との共謀に基づく犯行で、実行行為者は被告人であるとの本件の基本的構造部分についての供述を変えていないことはもとより、辰巳食堂で被告人を本件に誘い、辰巳食堂や図書館で被告人、大山との三者会合を持ったこと、犯行の二日前ころ犯行現場を下見し、その際殴打用のバットを短くしたものを被告人に手渡したこと、犯行当日予め被告人と会って一人で犯行を行うよう指示し、その後大山と被告人が犯行現場へ行くのを尾行したこと、犯行を終えた被告人から強取金、大山の衣類、凶器のバットを受け取り、被告人に強取金の一部を分け与えたこと、大山の衣類、凶器のバットは信田の家で焼却したこと等の大筋においても供述を変えていない。しかし、細部においては、相当の供述の変遷があることは明らかであり、これらが検察官主張のように、果たして枝葉末節部分の変遷といえるものであろうか。以下、双方の指摘する諸点を含め羽賀供述に信用性に影響を及ぼすような不合理な変遷があるか、また、供述内容自体に実体験者の供述として不自然、不合理な点があるかについて、検討する。

(1) 被告人を共犯者に選定した契機

羽賀は、被告人を共犯者に選んだきっかけについて、最初に共犯者が被告人であると述べた一〇月二日付員面において、「昭和二五年八月末頃……殺した上金を取る計画を立てたのであります。然し私が自分で殺すという事は、親友の間柄であり情に於て忍びなかったので適当な者を使って殺させる事にしたのであります。此の場合人を使って殺させるという事は、若し事件が発覚した場合、私の罪が軽くなる様にとも考えたのであります。それで先程申し上げました梅田を使おうと決心したのであります。その後同年の九月二五日頃梅田が私のうちへ遊びに来た時梅田を辰巳食堂へ連れ出し、大山を殺して金を取ると云う事を打明け片棒かずいでくれ(注、「かついでくれと」の意と思われる)頼んだ……」と供述していたところ、その後の捜査官に対する供述調書(一〇月四日付員面、第五、六回各検面)及び公判(原一審第七、二二回、原二審第六回各公判)においては、大山殺害の協力者として適当な者がいないか思案していたところ、被告人がたまたま自宅に訪ねて来たので、その時、すなわち、本件に関する被告人との第一回目会合の時に共犯者として被告人を選び、話を持ちかけた旨供述を変えている。

この供述の変遷については、一〇月二日付員面は、羽賀が初めて被告人の名前を出した当日に作成されたものであり、取り急ぎ事案の概要を録取したと思われることやその後の供述が捜査、公判を通じ一貫していること等に徴し、些細なものであって取るに足らないとの見方もあり得よう。しかし、羽賀にしてみれば、大山殺害について誰を共犯者として選定し、その者をいかに犯行に誘い、犯行に向けどのような準備をするのかは、犯行の成否、発覚の恐れとも直結する重大事であり、相当考慮を要した事項であったと思われるのであり、被告人の選定のきっかけとしても、たまたま二度目に家を訪ねて来た被告人の顔を見て、「おお、そうだ、梅田に話をしてみよう。」と思ったというのであれば(第六回検面)、その印象は強く残ったと思われ、この間の経緯を忘却するとは考えにくいものと思われる。しかるに、羽賀は、当初、前記のように共犯者として被告人を使おうと決心していたところへ被告人が家に遊びに来たので話を持ち出した旨、その後の供述と食い違うばかりか、内容的にも、犯行を計画し心中共犯者として被告人を思い定めながら、それまでただの一度しか来たことのない被告人に対し特段の働きかけもせず、漫然一か月近い月日を徒過していたという極めて不合理なものになっているのである。自供当初の慌しい状況下での供述ではあるものの、それだからこそかえって、北見市の在に居住していて容易に連絡をとり難い被告人を共犯者として選定した契機について、羽賀が周到に思考をめぐらして創作する余裕がなかったとも考える余地がないではない。したがって、右の変遷の点は、容易には看過し得ないものといわなければならない。

(2) 第一回目会合の日時

本件に関連して羽賀が被告人と最初に会い犯行への協力約束を得た日(羽賀方及び辰巳食堂における第一回目会合)について、羽賀は、一〇月二日付員面では、前記のように、「昭和二五年九月二五日頃」、一〇月四日付及び同月七日付(二枚綴り)各員面では、営林局の送別会の開催の日を九月二日としたうえで「九月一〇日頃」、第一回検面では、「八月末ころか九月初め頃」、第五、六回各検面では、送別会の日を九月九日としたうえで、その四、五日後に大山に会い、さらにその二、三日後、すなわち計算上九月一三ないし一五日ころ、原一審第七回公判では、八月二四、五日に友楽座で大山と出会った一〇日位後に行われた送別会の二、三日後、すなわち計算上九月五ないし七日ころ、原一審第二二ないし二四回各公判では、いずれも「九月一〇日前後頃」(但し、第二二回公判では、「おそらくその頃だろうという記憶」、第二三回公判では、「日時の点は事件に最も近い警察官に供述したのが正確と思う。」とも述べている。)と供述を変転させている。

確かに約二年以上も前のことであるから、当時その日時が何らかの事情で記銘されていない限り、第一回目会合日の正確な記憶を求める方が無理であるかもしれず、せいぜい他の出来事との関連で大体の日時を推定して供述する場合が多いであろう。羽賀も、前記のように正確性について留保しながらも、自らの退職に際し営林局の同僚らが開催してくれた送別会を主な基準としてその日時を割り出したものである。しかし、そのような事情を考慮に入れるにしても、なお、羽賀供述には、前記のように、送別会の日を九月上旬とした上でその後二、三日ないし八日の範囲で変動するのであり、なぜこのように変わるのか理解に苦しまざるを得ない。明確な記憶がないのであれば、その旨述べればよいのにもかかわらず、かなり断定的にその都度異なる日時を述べるのは、果たして記憶にあるがままを誠実に述べようとしているのであろうか。疑問をさしはさまざるを得ないであろう。

また、佐々岡茂、諸岡二郎、水野ふみ子の検察事務官に対する各供述調書によれば、右の送別会が開かれたのが八月一四日であることは明白であるから(これを九月上旬ころという羽賀供述は何ら訂正されないままになっている。)、送別会の日から二ないし八日後という基準からすると、第一回目会合日は八月一六日ないし二二日ころとなるところ、これでは、羽賀供述中、第一回目会合日として最も遅い九月二五日ころ(一〇月二日付員面)、すなわち、犯行日の一〇月一〇日の約二週間前とは一か月以上も食い違うことになる。いかに二年以上も前の薄い記憶であるにしても、第一回目会合日は、かねて計画中の犯行につき協力者を得て犯行に向けて本格的に活動を始めた時であり、その日から犯行までの間には、羽賀供述によれば、被告人と羽賀、大山と羽賀及び三名の各会合が犯行に向けて有機的に関連して設定、準備されていることに徴すると、この変遷は、現実に体験した者の供述としてはやや不自然の感を免れ難いといわなければならない。

(3) 犯行勧誘の話

第一回目会合における話の内容については、羽賀供述によると、たまたま訪ねて来た被告人に対し、金欲しさのために手段を選ばないかどうか確かめたのち、営林局の人間を殺害して金を強奪する犯行計画を打ち明けて参画を要請し、その賛意を得たというものである。羽賀によると、右話を持ちかけた時は、被告人に断られる場合に備えて冗談の余地も持たせて打診したとはいうものの、前示のように、被告人とは軍隊で知り合い、その後年賀状を交わし、二、三年前に一度来宅しただけの間柄であって特別親しく交際していたわけでもなく、後記のように被告人は、その生活振りは決して豊かではないものの、着実で勤労意欲も高く、近隣からは模範青年と呼ばれ、同年兵仲間からも蔭日向がなく真面目であると評されていたような人物であったから、このような人間に対し、金儲けのため手段を選ばれないとの返答を得た上でのこととはいえ、果していきなり何の準備もなく大衆食堂の店内において強盗殺人の話まで持ちかけるものであろうか。全くあり得ない話ではないとしても、いささか不自然の感を免れ難い。この点清水の第一回検面、原一審第一八回公判供述、羽賀の同第二〇回公判供述によると、羽賀と清水は日ごろ付き合いがあり、羽賀は二度にわたり林友会の一室で酒食を振る舞い、肝腎の話を切り出す時は一時酒をとめたりなどしたうえ巧妙、慎重に話を持ち出していること、金田正三の九月一三日付員面、一〇月九日付検面によると、羽賀は、小林事件の前に林友会職員金田正三の義兄から五〇〇万円を引き出そうと考えていた形跡があるが、右金田に対しても何度か料理屋で御馳走し、酒席で大事な話をする時には人払いをする等の慎重な態度をとっていたことが認められるのであり、これらの周到な準備、計画状況と比較し、本件の場合は著しく相違していることに注意を要する。

(4) 第二回目会合の時刻と状況

羽賀の一〇月四日付員面では、羽賀が被告人と二回目に会ったのは、九月二五日ころで、正午ころ北見駅前に行き、一時間位後に被告人が来たということになっているが、第六回検面では、午後二時ころ約束通り北見駅へ行ったら、被告人は駅に向かって右側の右端にある北見市縮図板の駅寄りの付近に立っていたと変わり、その後の供述でも、「昼に近い頃」(原一審第八回公判)、「午後一時頃」(同第二二回公判)となっている。

この点につき、弁護人は、第二回目会合は、大山と会う際の心構え、せりふ等について被告人と打ち合わせをした時であり、真実「被告人が北見駅の案内板のところに先に来ていた。」とするほど鮮明な記憶が残っているならば、一〇月四日付員面においてこれと異なる供述をする合理的理由を見出すことができないと主張する。

しかし、時刻の点は既に約二年も前のことであって正確な記憶がなくても当然と考えられるし、被告人が先に来ていたかどうかについても、二人が会ったのは他に何回もあり、記憶の喚起により前回の供述を訂正したと考える余地もあるから、右の点の供述の変遷を重視するのは相当ではない。

(5) 大山の名前、職業を告げた日時

羽賀が被告人に対しどこの誰を殺害するかを告げた時期について、羽賀は、一〇月二日付員面では、第一回目会合の時「大山を殺して金を取るということを打明け」と述べて、大山の名前が出ていたかのように供述し、一〇月四日付員面では、第一回目に会った時「北見営林局の会計課の旅費支払の係をしている大山という男」と告げた旨供述していたのに、第六回検面では、第一回目会合の時は「営林局の人間で自分の知っているある人」と告げただけで、第二回目会合の時駅から辰巳食堂へ行く途中で「営林局の大山正雄に会わせる。彼は旅費係をしている。」と告げた旨変更し、さらに原一審第七回公判では、第一回目会合の時「梅田君は私に対してどこの誰だと質問したので名前だけは言った様に記憶しています。」と再度変え、また同第八回公判では、第二回目会合の時「営林局に勤めている人だとは言いませんでしたが、大山君の名前は言っていたと思います。」と述べ、さらに「旅費係をしているということは知っていたか。」と質問され、「そのときは知りません。」と答え、同第二二回公判では、第一回目会合の時「営林局の人を殺すと言ったかどうか忘れましたが……細かい点迄は言わなかったと思います。」と供述している。

このような目まぐるしいばかりの供述の変転については、検察官主張のように、羽賀は最初から犯行の対象として大山に狙いをつけ、同人以外を考えておらず、被告人に計画を打ち明けて協力を依頼した最初の時に大山の名前を告げたのか、それが第二回目会合の時であったかは、羽賀にとってあまり重要な意味を持つようには考えていなかった事柄であるから、二年も経過すれば記憶が薄れることは当然あり得ることであり、当初の供述を記憶の喚起によって訂正したにすぎないとも一応考えられなくはない。しかし、右羽賀供述の変遷ぶりをみると、一旦、大山の名前、職務に関してある程度具体性をもった供述をしたかと思うと、次の瞬間新たな別の相当具体性のある供述に変わるという繰り返しが見られるのであって(一〇月四日付員面、第六回検面、第七回公判供述)、記憶がその都度何度も具体的に喚起されたために供述が変転したというのは容易に理解し難い。かえって、右変遷には、供述者の不誠実な供述態度が窺えるのであって、相当に不自然、不合理なものといわざるを得ない。

(6) 偽名使用

羽賀が被告人と大山とを引き合わせるに際し、両名に偽名を使用するように指示したかどうかについて、羽賀は、まず被告人に関しては、一〇月二日付員面で、「旭川(札幌と言ったかも知れない)の井上」というホップの仲立業に仕立てたように述べ、同月四日付員面でも、「札幌の井上」と話すように打ち合わせたと述べていこところ、これが第六回検面では、被告人に「君は某という名前を使え。」と教えたが、某というのがどのような人名であったか現在記憶がなくなった旨、原一審第八回公判では、「梅田は偽名を使ったように思います。」、同第二二回公判では、「梅田を札幌市の人だというようにして偽名を使いましたが、その偽名はなんという名であったか覚えておりません。」と供述を後退させ、同第二三回公判では、「梅田君は本名を使わず偽名を使ったのですが、井上とは言わないと思います。」と述べている。また、大山に関しても、同月四日付員面において、大山に対して「君は営林局の職員で国家公務員なんだからその辺も考えなければならん。例え一時的でも公金を流用することは決していいことではないんだから営林局の大山という名は言わんで、ただ北見の大井という偽名を使う様にしておけ。」と指示した旨具体的根拠まで挙げて供述していたのに、第六回検面では、その時の偽名は現在忘れたとしながらも、偽名を使うことを教えたと述べ、次いで原一審第八回公判では、「大山正雄には本名で名乗るか偽名を使うかの点はどうか。」と質問されて「記憶ありません。」と供述している。

検察官は、このような偽名の指示は、羽賀がその場の話の流れで臨機応変に行ったものにすぎないから、正確に記憶することが困難な事柄であると主張するけれども、一旦被告人と大山を偽名で紹介して引き合わせた以上、以後の会話等においては両名をその偽名の人物であるという前提で呼ばなければならないのであるから(現に、一〇月四日付員面には、図書館での会話として羽賀が「井上さん」、「大井さん」と呼んでいる具体的状況の記載がある。)、その使用偽名が一時的、場当たり的なもので正確に記憶することが困難な事柄であるとはいい難いと思われる。もっとも、時の経過に従い使用偽名の記憶が薄くなることは十分にあり得ることと思われるけれども、その場合であっても、忘却したに留まらず第二三回公判のように「井上とは言わない。」と積極的に前言の否定までするのは、いささか不自然の感を免れない。

(7) ブローカー料

羽賀供述によると、被告人がブローカーとして取引に介入するものであるところ、そのブローカー料については、一〇月四日付員面によると、羽賀と被告人との間で「一万円」とする打ち合わせであったというのであり、第六回検面では、ブローカー料も定額を教えたが、いくらと話をしたか現在記憶がない旨述べたのち、大山に対し「ブローカー料等についても話が出ました。これも私と打ち合せてあるとおりの額を梅田が話しておりました。一万円位の金額を話した様に思うのです。」と供述するのであるが、原一審第八回公判では、一転して「私の考えていた大山君は経済家で金の出ししぶりをする方であったから、梅田と逢わせるとき、礼金の程度を質問するだろうから、そのときは『私はもうけづくで世話をしているのではなく、羽賀を知っているからであるから利益の分配もお礼金もしないでくれ。』と言ってくれといいました。」と変化し、さらにこれが同第二二回公判では、大山との間で礼金の話もあったが、額は忘れた旨、一定額の話が出たような供述に戻っている。

確かに、ブローカー料の話が出たのかどうか、特にその金額がいくらかについては、比較的細部のことであって年月の経過によりその記憶があいまいになってくるのもやむを得ない面があると思われる。しかし、右第六回検面においてかなり具体的にブローカー料の話が出た旨供述しているにもかかわらず、第八回公判供述においては、前記のように極めて具体的な根拠をあげてそれと全く正反対のことを述べるのであって、どうしてこのように供述できるのか理解に苦しむのである。記憶が蘇ったからであるとするのは、その後の第二二回公判供述に照らし到底採り得ない。右羽賀供述の変遷は、果して羽賀が記憶にあるところをそのまま述べようとしているのか、その供述の真摯性、誠実性について強い疑問を抱かせるものであるといわざるを得ない。

(8) 殺害場所決定の日時及び手帳記載

羽賀と被告人が本件殺害場所を決定した日時について、羽賀は、一〇月四日付員面では、第二回目会合(辰巳食堂での三者会合)で大山が帰ったのち被告人に対しいい場所を見つけてくれるよう頼んだことになっていて、第二回目会合の時に犯行場所が決定したようにはなっていないが、第六回検面においては、第二回目会合で大山が帰ったあと被告人から東陵中学校の東北の山道の話が出て、ここに犯行場所を決定したとなっており、原一審第八、二二回各公判も第六回検面とほぼ同じ内容になっている(もっとも、第二二回公判では、第三回目会合の時にも犯行場所の話をしたという。)。また、羽賀供述によると、被告人が手帳に犯行場所を書いたというのであるが、この点、一〇月四日付員面では、図書館で打ち合わせた時(第三回目会合)に羽賀の手帳に書いた旨、第八回公判では、第二回目会合の時に羽賀の手帳に書いた旨供述していたが、第二二回公判では、第二回目会合の時に被告人自身の手帳に書いた旨供述が変遷している。

確かに、殺害現場の決定は重要な事項ではあるけれども、約二年前のことで、記憶の混乱もあり得ないではなく、その決定の日時やその際被告人が記入したという手帳についての供述に右の程度の変遷があることをもって直ちに不合理であるとまではいい難いとの見方もできないではないであろう。

(9) 取引品名

取引の品物をホップとする点については、羽賀は、一〇月二日付員面では、本件がホップ取引きに藉口して立案した犯行で、大山に対しても当初からホップという品物を告げていたかのように受取れる供述をし、同月四日付員面では、送別会のあった日羽賀が大山に対し「ある人がある品物を持って居る。その品物は少量で高価なものである……その品物の名前やこれを持って居る人の名、それを直ぐ金に替えてくれる人、仲間のブローカー等の名前は色々の面に支障があるから今ここで言う訳にはいかない。」と告げていたところ、一〇月三日図書館で会った際羽賀が大山に対し「実は、その品物というのは、大井さんも知って居るでしょうが『ホップ』なのであります(大山は知らなかった。)」と話した旨供述し、第六回検面第六、八項でもほぼ同旨を述べていたところ(但し、大山にホップであると告げたのは被告人であるとする。)、原一審第八回公判では、「大山に対し取引の品物はホップと言ったと思っていたが、最近になってホップという品物の名前は言わなかったと思います。最初は麻薬と言おうとしましたが、麻薬は特殊の仕事であるから相手が恐怖するだろうと思って言わなかったのです。又、平凡な品物の名前を言うと大山がかげでそれを調べて金額、数量等を看破されてはと思いましたので取引する品物はボカしておいたと思います。」と変化させ、同第九回公判では、図書館での被告人との打ち合わせの際「大山はどちらかというと詮索的な質問が多かったので品物の品名……等について前にも聞かれたが今後も聞かれるかもしれないので、その点については品名は統制品なるが故にもし発覚した場合大山の様に素人が介入した場合まずいことがおきるから言わないことになっている。それをどうしても聞き度いのなら言っても良いと高飛車に出れと言いました。」、大山に対し「前に梅田と……打合せをしておいた品物と金の問題について梅田が返事をしたと思います。」とも供述していながら、同第二二回公判では、辰巳食堂で被告人と大山を引き合わせた際の話として、「大山君にはすでに取引の内容は言ってありましたが、その時も品名、金額のことは出たと思います。しかし、そのようなことの話が出たかどうか記憶ありません。」、図書館での話として、前記第六回検面第八項中の供述内容を読み聞かされて「その取引品のホップの金額は忘れましたが、その他は大体その通りの話をしたと記憶しております。」と述べ、再び品名がホップであることを告げた旨の供述に戻っている。

右の一〇月四日付員面、第六回検面、第八、九回各公判供述にみられるように、一旦極めて具体的な供述をしながら、次の機会にはなぜ内容が反対の別の具体的供述をすることができるのであろうか。二年の時の経過やこれに伴う記憶の混乱としては容易に理解し難く、また自己の主張を印象付けようとして誇張しがちになる供述者の心理状態を勘案しても、右はその程度をこえており、ここでも羽賀供述の真摯性が問題とならざるを得ない。

(10) 第三回目会合の日時及び大山が羽賀に対し一〇月一〇日に現金が用意できる旨伝えた日時

羽賀、大山及び被告人の三名が、図書館で会合(第三回目会合)した日時については、羽賀は、一〇月二日付員面では「十月三日頃」、一〇四日付、同月六日付各員面ではいずれも「十月三日」、第六回検面では「十月三日頃」で「第一日曜か第一土曜日の午後一時を予定」、また原一審第八回公判では「十月初め頃」、「十月に入って間もなく」で、「図書館で会ったのは昼間で一二時以後であったと思います。それは大山が勤めている関係で平日ならば勤務中に来ることは役所をさぼって来れないことはないが、それではまずいので平日以外の曜日であったと思います。」となっているから、これによると九月三〇日(土曜日)か一〇月一日(日曜日)ということになろう(一〇月七日となると現場下見の前日であるから、あり得ない。なお、土川武雄の検面によると図書館は月曜休館)。また同第二二回公判では「十月に入って二、三日目頃」、同第二三回公判では「十月初め頃」となっている。これらの供述自体若干の変遷はあるものの、一〇月三日ころあるいは一〇月初めころという点ではほぼ一貫しているものであり、特に異とするに足りないといえる。

次に、大山が羽賀らに対し、現金が一〇月一〇日に用意できる旨を伝えた日時については、一〇月二日付員面では、羽賀が大山に最後に会ったのは一〇月五、六日ころで場所は仁頃通りの柴川木工場前の道路(一〇月七日付員面二枚綴りでは「北見駅の玄関に向かって右の方の小路」と訂正)で一〇日に金を持って来るよう言ったが、この時には「大山君はこの取引には金を二十万円程都合して持って来る事に話は決まっておりました。」と供述し、一〇月六日付員面では、一〇月五日大山と会った際、一〇日に間違いなく金はできると分かったと述べ、第六回検面では、辰巳食堂で大山と被告人を引き合わせた日の三日前位に大山に会った際、大山は「これまで九月末ころ金が出来ると言っていたが、予定がくるって十月中旬でなければ金が出来ない。金額は二十五万円前後になる。」と言っており、一〇月三日ころ図書館では大山は「金は十日に出来る。」と言っていた旨供述し、原一審第八回公判では、大山は、辰巳食堂で被告人に引き合わせた日に前同様金の融資時期は一〇月半ばになるかもしれないと告げたと述べ、同第九回公判では、一〇月三日図書館で「金は二十万円位で十月十日に出来るという話であった。」と供述し、同第二二回公判では、辰巳食堂で大山に被告人を紹介した少しあとの九月末ころ、大山が二五万円の出る日を一〇月一〇日と指定した旨供述している。これらによると、供述に相当の変遷はあるものの、概ね一〇月三日ころの図書館での会合時までには大山が金を持って来る日が一〇月一〇日と既に決定していたことになろう(なお、前記一〇月二日付、同月六日付各員面の内容は、最終確認とみる余地もないではない。)。

ところで、大山が現金を持参する日は、すなわち本件犯行決行の日でもあるから、これがいつころ定まったかについて、羽賀は当然関心を有し相当の記憶を有していたと思われるから、この点の羽賀供述の変遷は安易に看過し難いものを含むといわなければならないが、この点を別としても、右羽賀供述には他の証拠との関係で若干の問題点が存在する。

すなわち、前記冒頭認定のとおり、本件被害当時大山は、保管中の営林局の旅費分一二万円余と長尾心一から一〇月一〇日夕方富山旅館で借用した八万円を携行していたのであり、大山が羽賀に対し用意できると予め告げた現金のうちには右長尾貸与分も当然計算に入れられていたものと推認され、したがって、長尾が大山に対し貸与する日を一〇月一〇日と指定したことから、大山が羽賀に対し金の用意できるのが一〇月一〇日であると告げたという関係になることが明らかであるところ、原一審第五回公判における証人長尾心一の供述によると、長尾は、かねて四、五回にわたり大山から金員の貸与方を要請され、手許に金が入ったら貸す旨言っていたが、行方不明になった一〇月一〇日の四、五日前ころになって大山が公務で置戸営林署に旅費打ち合わせのため出張して来たついでに二日程連続して自宅(置戸町)に訪ねて来たことがあり、最後に訪ねて来た日から二、三日後の一〇月一〇日に北見市で現金八万円を貸与することを約束したというものであるから(長尾の昭和二六年七月七日付員面によると、一〇月八日に貸与方を承諾し、翌九日にも大山が来宅したという。)、この長尾供述が正しいものとすると、大山が羽賀に対し現金を用意できる日として一〇月一〇日を指定できるのは、一〇月五、六日ないし八日ころとなり、明らかに前記羽賀供述と食い違うことになる。もっとも、北見営林局総務部人事課長柳原栄治は、その一〇月一二日付検面において、同局の昭和二五年度退転出者出勤簿、昭和二五年十月分旅行命令書綴中には、大山は一〇月、二、五、九、一〇日は出勤、三、四日は置戸営林署に新しい日額旅費規定の説明と旅費に関する打ち合わせのため同町に一泊で出張、六、七日は留辺蘂営林署に一泊で出張の各記載があると供述するのであり、この供述を前提とし、大山の置戸への出張用件にも徴すると、大山が長尾方に出向いて一〇月一〇日貸与の約束を取り付けたのは一〇月三、四日になる。しかし、前記羽賀供述では、一〇月三日ころ羽賀が図書館で大山と会ったのは昼間の時間帯(午後一時ころ)であったとされるから、一〇月三、四日の昼間置戸町に出張中の大山が北見市の図書館で羽賀と会ったというのは不可能であると認められる。まして、図書館での会合日が前記のように一〇月の第一土、日曜日とすると、その時に大山が現金の持参日を一〇月一〇日と指定することはあり得ないであろう。

以上、羽賀供述には、図書館の会合について他の証拠により認められる事実と食い違っている疑いの強い内容が含まれている。

(11) 犯行態様、凶器についての相談日時

羽賀は、一〇月四日付員面において、一〇月三日図書館で三人が会う前に予め被告人と会った際、羽賀が被告人に対し、三人で並んで現場に行き、羽賀が鈍器で大山の後頭部を叩いて倒し、被告人が紐で首を絞め、裸にして金を取り、穴に埋めること、羽賀が鈍器を作り、被告人が瘤を四個つけた紐を用意すること等犯行態様や使用凶器についての指示をした旨供述するところ、他の供述調書、公判供述では、図書館での会合の際に犯行態様、使用凶器に関し相談、指示したことについては全く述べておらず、一〇月七日もしくは八日ころ本犯行現場を下見した際被告人に対し相談、指示した旨供述しており、供述に変遷があるといえよう。

しかし、右一〇月四日付員面の次に作成された一〇月六日付員面においては、一〇月三日の図書館で会った時の状況に引き続き、一〇月七日現場下見の際の打ち合わせの時にも殺害方法や凶器のバットの話も若干出ていることにも徴すると、前記一〇月四日付員面にいう一〇月三日図書館での犯行方法、凶器に関する供述は、一〇月七、八日ころの下見の際のものと記憶が混同して供述された可能性もあり、二年の歳月の経過等を考慮すると、この食い違いをもって直ちに不自然なものであるとはいい難い。

(12) 刃物の使用

殺害方法に関連し、刃物を使用するかについては、羽賀は、捜査段階では、わずかに一〇月四日付員面末尾において、「万一やりそこなった時に使う様にその時の準備として何か刃物を用意して行く様に言った様な記憶もあります。」と供述するだけで、他の員面、検面においては刃物に触れる供述をしていなかったところ、原一審第九回公判では、殺害する凶器として削ったバットと縄のほか、やり損なって大山が逃げた時は鈍器では追いつかないので刃物を持って来る程度の話が出ていた、その時梅田君は適当なものがあると言っており、二人とも刃物を用意してくることになっていた旨、同第一一回公判では、一〇月八日の下見の際刃物の話が出ており、もし鈍器殴打、縄による絞頸でやり損なえば刃物を使うが、できるだけ刃物は使わないとの話し合いであった旨、さらに同第二二回公判では、刃物を持って来いと言ったところ、被告人は「よし」と返事した、一応刃物は用意するが、できるだけ使用しない、つまり刃物を使用すると血跡を遺すばかりか加害者に血が付くので発覚するおそれがある上、加害者自身も血を見て逆上するから、というような話をした旨各供述するのであり、羽賀供述には変遷があるといえよう。

右変遷については、一見、時の経過とともに羽賀の記憶が次第に蘇ったとの見方もできなくもない。しかし、前記のように被害者の頭部に刺し傷様のものが存在したことについては捜査官は十分に承知しており、また既に被告人も被害者の頭部をナイフで刺した旨供述していた状況であったから、捜査官が羽賀に対し刃物に関して相当突っ込んで取調べ、記憶喚起に努めたであろうとことは推認するに難くないのであり(現に羽賀は、原一審第二三回公判において、捜査官にその点を相当鋭くきかれた旨供述しているし、同第二四回公判では、死体解剖後捜査官の話に合わせてナイフで刺した旨も述べたと供述している部分もある。)、もし羽賀が原一審公判供述、特に第二二回公判供述のように、できるだけ刃物を使用しない理由まで被告人に話したというような具体的経緯があったのであれば、捜査段階で当然この点の記憶を蘇生させたはずであると思われるのに、羽賀はわずかに司法警察員に対し前記程度の供述をするだけで、検察官に対しては刃物に関し何ら供述していないのである。この食い違いをもって不自然でないということはできない。

(13) 殴打者の予定と予行演習

羽賀と被告人の共謀過程において当初誰が大山を殴打する予定であったのか、また、一〇月八日犯行現場を下見した際殴打行為について予行演習したことがあったのかについて、羽賀供述の変遷を検討する。

羽賀は、一〇月二日付員面において、「梅田に対し野球のバッタ(注、バットのことと思われる)の短く切ったのを、之で大山の後頭部をナグレと言って渡しました。」(三項)、「同月七日頃に柴川木工場前で梅田に会いまして……十日の午後八時頃に此処へ来て大山に会い、それから東陵中学付近の林の中の細道へ連れ出して殺せと指示しました。」(五項)と述べる一方、「申し遅れましたが、梅田には大山を殺す時には二人で殺すということに話してありましたが、前にも申した様に私は直接手を下すつもりはなかったので、十月十日の午後五時頃柴川木工場附近であった時、俺は今日のっぴきならない用事が出来たので若し時間迄(午後八時迄)に来れなかったら御前一人で殺してくれないか。」(七項)とも述べており、この調書では、当初犯行現場に羽賀も同行する予定であったものか必ずしも明確でなく、また犯行現場での殴打行為の予行演習については全く触れられていない。一〇月四日付員面では、一〇月三日の打ち合わせとして、三人で並んで現場に行き、羽賀が鈍器で大山の後頭部を叩くとされ、この供述に続く一〇月六日付員面では、殴打行為の予行演習について何も述べられていない。第七回検面においては、一〇月八日の犯行現場下見の際、羽賀が被告人に対し、犯行の時は羽賀が大山の右側、被告人が大山の左側を歩き、被告人が一歩うしろに下がってバットで大山の頭を殴りつける様話した旨供述し、殴打行為の予行演習については特に触れていない。

しかし、原一審第九回公判においては、一〇月八日犯行現場を下検分した際、二、三回「兇行の模擬練習」をしたこと、「大山君を間にはさんで私が左に、梅田君が右側を横に並んで歩き、前述した時点に来たら梅田君が大山に話をしかけ、大山君の注意をその方に引きつけてそのすきに私が一歩後りざま前述のバットを削ったもので一撃を加えるという手順になってい」たことを供述し、予行演習を行ったことを初めて述べたほか、左右の並び方、殴打者について前記第七回検面と異なる供述をした。ところが、同第一一回公判においては、予行演習の実施及び殴打者が羽賀とする点では変わりないものの、左右の並び方については、「記憶がないが、現在その点を推理して見ると大山君をたたくのは私の役目だし、私は右ききだから当然大山君の右側を歩くと相談したと思います。」と第九回公判と異なる内容を述べ、前回も右と同様推理によって述べたことも付言している。しかし、さらに、同第二二回公判においては、一〇月八日の予行演習の際、「大山を私と梅田君の中に狭んで横隊になって穴の方に進んで行き、私は進行方向に大山君の左、梅田君は右……私は右利きで大山君を殴る役だったから大山君の左だと思う……に並んで歩き……というような練習をしました。」と述べ、並び方が再び逆転している。

犯行の際、被告人と羽賀のどちらが大山に対し第一撃を加えるかは謀議の内容として重要な点であると思われるが、羽賀供述はこの点について変転しているだけでなく、左右の並び方についても前記第九回公判供述のように具体的根拠を挙げて述べていたものを、次の第一一回公判においては別の根拠を挙げて異なる供述をし、さらにそれを第二二回公判で元に戻しているのである。また、予行演習については、捜査段階では何ら述べていないのである。羽賀が被告人と一緒に犯行現場を下見し、殴打行為の担当者を定め、その予行演習をしたのであれば、その点は当然相当明確に記憶に残ると思われるのであり、もし真実その記憶があってそれを誠実に記憶に従って供述しているもの、あるいは、左右の並び方について明確な記憶がないとしても殴打者が自分であることを根拠として推定で供述したものが、なぜ右のように大きく揺れ動くのであろうか。羽賀供述には、年月の経過による記憶の喪失や混乱、供述者の心理等によっては容易に説明し難い強い疑問点があることを指摘せざるを得ない。

(14) 脱衣場所及び死体運搬経路

大山の衣類を脱がす場所及び死体を沢床の穴にまで運搬する経路に関する羽賀と被告人の打ち合わせ内容について検討する。

羽賀の一〇月六日付員面及び第七回検面では、大山の死体の着衣を山径わきの傾斜地で脱がすことになっており、死体運搬経路については、右検面では、本文中では「その道順は、その日の具体的な状況によって梅田が決める事にしました。」と供述するだけで具体的な経路の説明はないが、同調書添付第一図においては、「衣類をぬがした死体を赤点線の順路にて運ぶ」と説明書を付して山径わきの崖(傾斜地)から死体を再び路上に上げ、穴の手前付近の山径から再び崖に斜めに入り、穴の上付近から真直ぐ沢に降ろす経路を図示している。原一審第九回公判では、必ずしも明確ではないけれども、「昏倒すると梅田君が頸部を絞めて殺害し、同所で大山の着衣を脱し同地点に着衣をおいて……」と大山の転倒場所で脱衣させるかのような内容を述べている。また死体運搬経路について、翌日の同第一〇回公判では、「沢へ降りて行くには、小路の路上から直ぐ降りるのと畠を通って沢の最端から降りるのと二つありますが、地形に応じてどちらが良いか調べて見たところ路上から直ぐ降りた方が入り易いので、同所から死体を降ろす様に決めました。」と述べ、次いで同第一一回公判でも、「死体を運ぶコースを打合わせたとき、路上で大山を殺害し、同所から穴へ真直ぐ降るのが最適と考えて……死体は一旦穴の下手の方におろし、そこから足を引張って穴へ入れるのが最も手順が良いのであります。」、「一旦穴を通り越して穴の下手の方から沢へ降りて穴のところへ運ぶという打ち合わせをしました。」と述べている。これらによると死体運搬経路は、殺害場所の山径から穴の下手に真直ぐ降りることとされ(その場合、山径上を運搬することを含むものとは考えにくい。)、脱衣場所についての前記第九回公判供述には特に変更のあったことが窺われない。

ところが、原一審の行った検証の際の羽賀の指示説明部分によると、羽賀は、運搬経路の第一として、別紙見取図第二図(犯行現場図)の路上点で殴打して殺害し、傾斜地点に死体を降ろして着衣を脱がし、点(沢の最上端付近)から真直ぐ穴まで死体を降ろす方法、第二として、前記殺害地点の点から路上を約二八メートルも移動して点付近まで運び、点付近から穴の下手に降ろして同所で着衣を脱がす方法を模擬練習した旨供述している。これによると、脱衣場所については、右第二の穴の下手から死体を入れる場合は、殴打殺害現場付近から穴付近へと供述に変更が生じたことになるし、その穴の下手から死体を入れる経路自体についても、従前の第一〇、一一回各公判供述では殺害場所から真直ぐ沢に降りると表現されていたものが、殺害場所から約二八メートルも路上を移動したのちに沢に降ろすこと(これは、第七回検面第一図の経路と類似する。)に実質上変更されたものとみざるを得ない。

次に、同第二二回公判では、「倒れた大山君を少し底地(注。低地と思われる)に下し、梅田君が紐で首を絞め、着衣を剥ぎ」、「死体を穴迄運ぶ方法としては二つの道を選びました。一つは首を絞めてから一旦小径に上り、沢なりに前述の目標にしていた木の附近から穴に下りるのと、もう一つは小径に上らず沢の下方に下ってから沢床を逆に穴迄登ってくるという二つの方法であります。」と供述している。右供述によると、絞頸場所が従来殴打、転倒場所と同じと考えられていたものが、少し山径わきの傾斜地に降ろした地点と変わり、また脱衣場所については、前記検証の指示説明の第二の経路の場合は穴付近であったのが、絞頸場所と変更された趣旨と思われるし、死体運搬経路については、従来の沢の最上端部から沢に降ろすという経路が消失して、新たに山径わきの傾斜地を穴の下手まで下ったのち、沢に降りる経路が出現したことになる。右につき検察官は、「死体をそのまま沢床の低い所(下方)に下ろし、穴の上手から穴に運ぶ方法」と理解すべきであると主張するけれども、「沢床を逆に登る」という表現からすると、穴の下手から穴に至ると解するのが相当である。また、第二二回公判では、絞頸場所について、「梅田君は倒れた大山君を小道の右側の畠に引づりおろして首を絞めるという役割で練習しました。」とも供述している。

脱衣場所についての供述の変遷はともかくとしても、死体運搬経路については、羽賀の供述するように、真実現場を下見し、その状況にふさわしい一つまたは二つの経路を選定したのであれば、その記憶は相当明確なはずであり、特に原一審における検証の際、羽賀は本件犯行現場に臨み記憶を蘇らせつつ具体的な指示説明をしたと思われるのであって、それが検証以後においても前記のように大きく供述が揺れ動くのは到底理解し難いものである。羽賀が果たして自己の体験した事実を記憶のまま誠実に供述しようとしているのか、疑問が生じるのを禁じ得ない。

(15) 被告人に対する脅迫的言動

被告人が犯行敢行につき怖じ気ついた発言をしたことがあったか、また、それに対し羽賀が脅迫的言動で牽制したことがあったかについて、羽賀は、第七回検面において、「梅田は、この八日の日死体を埋める穴の予定地点等を見て歩いた間、私に『何んだか恐ろしくなった。何か他に穏便な方法は無いのか、こんなことをするのはやめ度くなったな。』と言った事もありました。しかし私は『悪い事だが、こうするのが一番安全なのだ。大山の方では既に金の準備をしているのに今になって君がいやだと言って辞めたらどういう事になるのだ。後一歩というところでそんな気になっては困る。君がいやだと言うなら、俺も他に手を考えなければならない。』と話した事があります。彼は私のこの言葉をどの様に解釈したか知りません。私のこの計画を手伝わなければ命が危ないと考えたかも知りません。私としても梅田にどうしても協力して貰おうと思っていたのですから、私の言葉も相手を脅す様な調子になって居りました。梅田は結局そうは言って居りましたが、私の計画を手伝ってくれることになったのです。」とその間の会話について具体的に、被告人の心理状態についての推測をも交えて供述している。

ところが、羽賀は、原一審第九回公判において、被告人が怖じ気ついた言動をしたことはなく、検察官の取調べの際「梅田君をかばうつもりで梅田が良心的な呵責に尻込みしていたのでそれを私が脅したり、なだめたりして引張って行ったと述べましたが、それは撤回します。」と供述するのである。

もし、羽賀の右公判供述が真実であるとするなら、羽賀の前記検察官に対する供述は一体何であろうか。一見具体的でいかにももっともらしい供述が実はすべて羽賀の創作によるものであることになるのである。当然のことながら、羽賀供述の誠実性、真摯性に疑問が生ずる。

(16) 犯行直前の待ち合わせ時刻

羽賀供述によると、犯行当日の一〇月一〇日柴川木工場付近で、大山との待ち合わせ時刻の前に、羽賀が予め被告人と待ち合わせたことになっているところ、その時刻については、一〇月二日付員面、第七回検面では、大山とは午後八時ころ、被告人とは午後五時ころと供述しているのに対し、原一審第九回公判では、大山とは午後七時半ころ、被告人とはそれよりも一時間位早い時刻であると供述し、同第二二回公判では、被告人とは午後七時ころ、大山とはそれよりも三〇分ないし一時間位後と供述している。

大山との待ち合わせ時刻は、本件犯行のための行動開始の時刻であるから、通常脳裏に刻まれているものと思われるのであるが、二年の歳月の経過によりその記憶が曖昧になることもないではないであろう。しかし、大山との待ち合わせ時刻に先立ち、何時間前に被告人と会う約束をしていたのかについては、予め会う目的等にも徴しおよその記憶は残っていると思われるのであり、羽賀供述が、前記のように三〇分から三時間の幅で変化するのは、やや理解に苦しむところである。

(17) 犯行後の待ち合わせ場所

一〇月一〇日犯行直前に羽賀が被告人と会った際、羽賀は被告人に対し単独で犯行に及ぶよう指示し、被告人もこれを了承したことになっている。前記のように、一〇月二日付員面では、「俺は今日のっぴきならない用事が出来たので、若し時間迄(午後八時迄)に来れなかったら御前一人で殺してくれないか。俺も時間迄にはなるべく来る様にするから。」と言って別れた旨、第八回検面、原一審第九、二二回各公判でもほぼ同旨供述している。右第二二回公判では、羽賀の右申し出に対し、被告人が「極力間に合うように戻ってくれ。」という趣旨のことを言った旨も具体的に供述している。

しかし、このような指示を受けた被告人の立場から見た場合、羽賀が犯行終了時までに犯行現場に来なかった時は、被告人は一体どのように行動するのであろうか。犯行場所あるいは山径と仁頃街道との分岐点付近で羽賀を待つのか、仁頃街道を市街地方向に戻るのか、自宅に引き揚げるのか。指示されるまま実行を担当したとする被告人にすれば当然生じる疑問ではなかろうか。この点に関し、捜査、公判を通じ羽賀供述中に両者の打ち合わせが何ら出てこないのは、やや不自然であり、右羽賀供述が頭の中で作出されたのではないかとの若干の疑念が生ずるのを払拭できない。

(18) 被告人が帰還するまでの羽賀の待機時間、場所等

羽賀は、仁頃街道を行く大山と被告人を尾行し、被告人が単独で犯行を実行して帰って来るのを待っていたというのであるが、その待機時間、場所について、羽賀は、一〇月二日付員面では、柴川木工場付近まで戻ってきて約一時間後被告人が歩いてきた旨述べ、第八回検面では仁頃に近い方の「二本檜」から先の方までは二人の後をつけずに、被告人がやり損なって大山が逃げてきた時は自分が「大山君を殺ろう。」という気持も抱いて、その付近を三〇分位もブラブラしていると、仁頃街道をやって来る被告人らしい姿がみえたので、すぐ北見市街の方へ引き返した旨供述し、原一審第九回公判では、二人の輪郭が分かる程度の五、六〇メートル距離でその後をついて行き、二本木を通り越して二人が本件山径に曲がるのを見届け(原一審が昭和二八年六月一八日実施した同年八月三日付検証調書によると、仁頃に近い方の二本木と山径入口との距離は約六三〇メートルであることからすると、二本木をこえて山径の分岐点付近まで尾行した趣旨と解される。)、大山が逃げて来たら自分が殺害することを思いつつ二本木の蔭に隠れて待っていると、二〇分過ぎてから被告人らしい輪郭が見えたので、被告人に気付かれないように街に向かって引き返したと述べ、右検証の際には、両名を尾行し、見取図第四図(ホ)地点付近(検尺されていないものの、図面上の位置から判断する限り、山径との分岐点から二〇〇~三〇〇メートルの距離は優にあるように思われる。)で山径との分岐点から二人が山径に入るのを見届け、五分間位見ていたが別に変ったこともない様だったので、うまくいったと思って安心して引き返し、二本木と青年会館前付近との間(約一八五メートル)を往復して二、三〇分位待っていると、暗やみに人が動いたという感じがしたので引き返した旨指示説明し、同第二二回公判では、二人が小径に入るのを見届けてから仁頃寄りにある二本木のところに戻り、さらに待っている間にブラブラ歩いて分岐点の方に「夜間人の輪郭で誰であるか分かる程度の距離」まで大分近づき、大山が出てきたら逃げるのを阻止し、被告人が出てきたら先に柴川木工場付近まで引き返すつもりで分岐点から出てくる人影があるかどうか見ていたところ、一時間位して被告人らしいのが小径から分岐点のところに出てきた旨供述している。以上の供述中には、「二人の輪郭が分かる程度の五、六〇メートルの距離をとって尾行し、二人が山径に入るのを見届けた。」、「被告人らしい輪郭が見えたので気付かれないように引き返した。」、「暗闇に人が動いたという感じがした。」等、一応臨場感の伴った具体的な部分もあるといえよう。

そこで、先ず、右の待機時間について検討すると、検察官は、前記第九回公判供述の「二〇分」というのは、二本木に戻ってからの時間であり、それ以前に数分間犯行現場の方の様子を窺ったりしているから優に三〇分をこえると主張するけれども、そうであるとしても、羽賀供述にいう一時間と三〇分とでは、やはり若干の変遷があるといわざるを得ない。しかし、右は、羽賀が不安と緊張の中で待っていた時間であって、時計を見ていたような形跡もなく、二年も前の記憶を呼び起こして感覚的に供述したものと考えられるから、右のように変遷が出るのが不自然であるとは必ずしも断じ難いところであり、また、右の「一時間位」にも、当然相当の誤差も伴うものと思われる。したがって、被告人の捜査自白における犯行過程(殺害、脱衣、死体運搬、穴捜し、死体運搬、衣類品・所持金の収集等)、犯行場所の状況、現場の明暗状況に徴すると、被告人が右「一時間位」で本件犯行を終えて戻ってくるのはやや困難であるとはいえても、弁護人主張のようにそれが物理的にあり得ないから右羽賀供述が不可解であるとまでは必ずしもいい難いと思われる。

次に、二人を見届けた位置については、前記のように、「二本檜」付近(第八回検面)、二本木を通り越して分岐点近く(第九回公判)、検証見取図(ホ)点付近(検証)と供述に変遷がある。羽賀が、真実、大山と被告人の後方約五、六〇メートルの距離をとって尾行し、両名が山径に入るのを見届けたというのであれば、その点の印象は強かったものと思われるから、この点に変遷があるのはやや不自然であろう。

また、被告人が戻るのを待っていた場所についても、前記のように、「二本檜」付近(第八回検面)、二本木の蔭(第九回公判)、二本木と青年会館前付近との間(検証)、分岐点に夜間人の輪郭で誰であるか分かる程度近づいた地点(第二二回公判)と変遷がある。しかし、これについても、羽賀が第二二回公判供述のように、分岐点に近づいて山径から誰が出て来るか注視して待っていたという経験を有しているのであれば、前同様、その供述が前記のように変遷するのは、やはり不自然であろう。

次に、右羽賀供述によると、二人の輪郭が分かる距離として、五、六〇メートルを挙げているのであるが、月も出ていない星明かりの夜、果たして五、六〇メートル先の人間の輪郭が分かるものであろうか。後記認定の本件犯行当時の現場付近の明暗状況に徴し、相当の疑問を禁じ得ない。

また、羽賀は、第二二回公判で、人の輪郭で誰であるか判別できる程度の距離まで分岐点に近づいたとも供述するが、被告人の身長が約五尺三寸(約一・六〇六メートル)(被告人の第一回検面)、大山のそれが約一・六二(渡辺鑑定書)ないし一・六三(三宅鑑定書)メートルでさほどの相違もなかったから、分岐点から出て来たのが被告人であると分かるほどの距離は、右五、六〇メートルより相当短縮されると思われるのであり、そのような近距離から被告人に知られずに急ぎ柴川木工場の方へ引き返すというのは、相当困難なことではないかと思われる(羽賀の方で相手を判別できるのであれば、相手方もそこに人がいる程度は気付く可能性が強いと思われる。)。仮に、それがなお相当の距離があったとするのであれば、羽賀は市街地方向に返すことなく、その際直ちにあたかも取り急ぎ駆け付けたように装えばこと足りるのではなかろうか。もっとも、羽賀は、前記検証の際は、うまくいったと思って安心し、単に「人が動いたという感じ」だけで、被告人であるかどうかも確かめず引き返した旨述べるけれども、そうであれば、羽賀が前記第八回検面、第九、二二回各公判で、大山の逃走阻止・殺害目的で待機した旨供述する部分と食い違うことになる。

また、前記のように、羽賀は、大山が逃げてきたら自分が殺害行為を行うつもりであったとも述べるところ、その目的を有していたとするなら、羽賀が何ら凶器を携行していないのも理解に苦しむ点である。羽賀は、原一審第二二回公判において凶器携行の点を質問され、携行していなかった理由として、「梅田君がやり損じたときは、私が大山君を殺そうというような意識を私自身そのとき判然感じていたわけではないので」と供述するけれども、前記第八回検面、第二二回公判供述の内容等にも徴し、直ちにそのまま首肯し難い。

以上、被告人の単独犯行の前後に接着する羽賀供述には、一応の具体性、臨場感が存在する一方において、やや不自然な供述の変遷だけでなく、供述内容自体にもかなりの不自然、不合理な部分が存在するといわざるを得ないのであり、これが右のように被告人の単独犯行の前後に接着するものであるだけに、これらの点を軽視するのは相当ではない。

(19) 現金、衣類等の受領場所

羽賀が被告人から大山の現金、衣類及び犯行に使用したバットを受領した場所について、羽賀は、「柴川木工場から少し東陵中学校の方へ行った仁頃街道上」(一〇月二日付員面)、「柴川木工場の土場の材木と材木の間」(第八回検面)、「柴川木工場の土場と山との間の空地のところ」(原一審第九回公判)、「柴川木工場の土場」(同第一〇回公判)、「柴川木工場の原木土場内の木材と木材の間の見取図第四図の点」(昭和二八年八月三日付検証調書)、「柴川木工場の土場の丸太と丸太の一米半位の隙間」(同第二二回公判)と各供述している。

弁護人は、重要事項についてこのように供述が変遷するのは、羽賀の実体験供述としては考えられないと主張する。しかし、羽賀は、右第九回公判供述について、同公判において「土場と山との間の空地」とは「木材の山と山との間にある空地」のことであると直ちに言い直している上、同第一〇回公判では、「昨日申し上げたとおり……柴川木工場の土場で」とも述べているのであって、羽賀供述は、最初の一〇月二日付員面を除き右授受場所を柴川木工場土場内とすることでは一貫しており(もっとも前記検証時の立会人佐野一三の指示説明によると、昭和二五年当時は前記点は、土場内であるが、原木が積まれていた範囲内にはない。)、また柴川木工場付近の仁頃街道上では犯行を終えて戻ってきた被告人と羽賀とが出会ったことは、羽賀の全供述を通じて変化はないことにも徴すると、当初仁頃街道上で授受したとの記憶であったのが、その後記憶が蘇って前記のように変更したとみる余地も十分にあるから、右変遷をもって不自然であるとまではいえない。

(20) 強取金額

大山から強取した金額については、羽賀は、一〇月一日付員面では、「当時大山は現金を一九万五千円より持って居りませんでした。」、一〇月二日付員面では、バラの千円札を数えずに被告人に五万円位やり、残りを家で数えたら一四万五〇〇〇円あった旨、一〇月三日付員面(図面添付のもの)では、取った現金およそ一九万五〇〇〇円の中から目分量で約五万円を被告人に渡した旨、第八回検面では、四分の一の厚さ見当分の千円札を取って被告人に渡し、残金は一四万五〇〇〇円あった旨、原一審第九回公判では、目分量で四万五〇〇〇円位を被告人に渡し、残金は一四万五〇〇〇円あったが、大山が二〇万円といっていたので被告人に渡したのは五万五〇〇〇円と思うとも、同第二二回公判では、被告人に約四分の一を手触りで取って渡した残りが一四万四、五〇〇〇円あった旨、原二審第五回公判では、大山から二〇万円前後奪い、自分は一四万五〇〇〇円位入手した旨いずれも供述している。その供述には変遷といえるほどのものはない。

しかし、羽賀は、当初自己の単独犯行説を述べたのであるが、その一〇月一日付員面では、なぜ強取金について「一九万五千円より持って居りませんでした。」と具体的に供述し得たのであろうか。羽賀の単独犯行であれば、羽賀は当然強取金の正確な額を知っているはずであるから、捜査官にそれを供述しなければならなかったものであるが、真実被告人に対し目分量で四分の一見当を交付し、残金一四万五〇〇〇円あったのであれば、現実に大山が持参していた額については羽賀は把握できなかったから(被告人の取得額を後日被告人から聞いたとの供述もない。)、金額を挙げるとすれば、当時大山が少なくとも用意できると述べていた二〇万円の金額(一〇月二日付員面、原一審第二二回公判)を挙げるのが普通ではないであろうか。それを一九万五〇〇〇円という半端な金額を出し、それしかなかったというのは、羽賀にそれを特定し得る何か特別の経験があるのではないか、との考えが生じないでもない(前記一〇月三日付員面についても同様である。)。この点について、当初羽賀が、二〇万円の四分の一見当ということで五万円という金額をまず設定し、これと残余分を合わせて一九万五〇〇〇円と述べたとの推測もあり得ようが、やや不自然であろう。羽賀の前記一〇月一日付員面の内容は、同人の最初の供述調書であるだけに気になるところである。

(21) 強取金の分配

強取金の分配について、羽賀は、一〇月三日付員面(図面添付のもの)、第八回検面においては、犯行直後に渡した時は取り敢えずの分であるとするだけで、当初から分配の約束があったとは何ら供述していなかったところ、原一審第九回公判においては、犯行後の一一月初めころ被告人から金を要求された際のこととして、事件を起こす前の約束では、殺害して得た金を半々に分けるということになっていた旨供述するのであり、その後の同第二二回公判では、自分は半分に分ける考えであったが、被告人に金を分ける打ち合わせをしたかどうかは記憶していないとも述べている。

羽賀供述によると、被告人は金目当てで犯行に加担したというのであって、犯行により得られる金がいくらか、分配をどうするかは、羽賀のみならず被告人にとっても当然重大な関心事であると思われるのであり、また捜査官も当然その点の関心を有していたと思われるのに、分配約束につき、唯一前記第九回公判供述中に取って付けたように現われ、しかも、それがいつ、どのような機会に約束されたのかも全く不明であるのは、理解に苦しむ点である。

(22) 強取金の行方

冒頭認定のように、羽賀は、昭和二六年六月二三日の第一回目の逮捕直前ころ実姉信田ウメに対し自己の所持金一二万五〇〇〇円を預けたものであるところ、右金員について、羽賀は、当時捜査官に対し、姉、母、弟から借りたものと自分の所持金を合わせたものであると言い張っていたが、その後これは大山事件で取得したものであると供述を変え、以後これを維持している(一〇月七日付員面三枚綴りのもの、第一二回検面、原一審第一〇、二〇回各公判、原二審第五回公判供述)。そこで、右供述の真実性について検討する。

(Ⅰ) 羽賀の右供述の詳細は、「大山事件で一四万五〇〇〇円を取得したところ、昭和二五年一〇月下旬ころ、信田ウメから夫孝三が一〇万円の金を作るのに苦労しているとの話を聞き、同年一一月初めころ姉ウメを介して孝三に大山事件の金のうち一〇万円を貸し渡し、翌二六年二月中旬ころまでの間に三、四回に分けて返済を受けた。その後これを一時自宅の衣類箱の底に隠しておいたが、同年五月末ころ、これを全部北見林友会の自分の机に移した。同年六月一一日小林事件を敢行し、その後五、六日して小林の衣類を取りに埋めてきた山に取りに行ったことがあったが、そのころ北見林友会の留辺蘂出張所か丸瀬布出張所から林友会へ三〇万円余の現金が持ち込まれ、理事の加藤信吉に命ぜられて北海道拓殖銀行北見支店に預金をするため持参する際、宿直室で帯封されていた一〇万円の束と大山事件の当時の残金一二万五〇〇〇円のうちの一〇万円を取り替えた。その後姉ウメから自分に逮捕状が出ていて近く逮捕されるという清水情報を聞かされ、一二万五〇〇〇円を姉ウメに預けた。」というものである。

(Ⅱ) 右供述のうち、昭和二五年一一月に羽賀が信田孝三に対し現金一〇万円を貸し渡し、これが翌年三、四月ころまでの間に何回かに分けて返済されたことは、信田孝三の第三回検面、信田ウメの第五回検面により裏付けられており、後記羽賀の収入状況等にも照らすと、右貸付金一〇万円は大山事件の強取金の一部であると認められ、また加藤信吉の第一回検面、和田豊一の巡面によると、昭和二六年六月一六日に北見林友会丸瀬布出張所から現金三七万円が林友会本部に送金されたことがあり、加藤信吉が羽賀に対し預金のためこれを銀行に持参するよう命じたこと、和田豊一の巡面、松川春蔵、森谷今朝吉の各検面によると、その現金の束には帯封が施されていたこと、信田ウメの原一審第七回公判供述によると、同人が羽賀から預かった現金のうち一〇万円には帯封が施されていたことが認められるから、羽賀が手持ちの現金一〇万円と林友会の現金とを取り替えたことも一応裏付けられていると考える。

しかし、大山事件の金が一二万五〇〇〇円残っていたとする点は真実であろうか。

(Ⅲ) 大山事件後の羽賀の金銭支出状況については、料理店「松月」女中伊藤好子(巡査横道春雄、同菅原哲夫作成の一一月四日付捜査報告書によると、同女の店名は「のり子」)作成の一一月一日付「申上初」と題する書面によると、羽賀が「函館の近藤」という名で「松月」に昭和二五年一一月末ころから二六年五月一杯までの間一〇回位客として通い、全部で七万円位費消したが、店に来る客の中でも羽賀は、金払いといい、金使いといい上客であって、一回の支払は五〇〇〇~六〇〇〇円から八〇〇〇円であったこと、料理店「寿」の泉栄松作成の一一月一日付答申書によると、羽賀は、昭和二六年四月末ころから六月初めにかけて、函館から来た近藤という名前で六、七回「寿」で遊興し、金使いが荒く一回五〇〇〇円以上を使い、合計四万円近く支払っており、林友会の金田とも三回程来たことがあり、その時の支払は全部羽賀がしたこと、大丸食堂カウンター係兜森榮子作成の一一月一一日付答申書によると、羽賀は、昭和二六年の初めころから同年末ころまでの間に数十回にわたり大丸食堂で飲食し、合計約一万円位を費消したこと(なお、右答申書によると、羽賀は同年六月一〇日、すなわち小林事件の前日に客を連れて来て約二〇〇〇円位飲食したという。)、次郎長寿司経営者西久保正義作成の一一月一一日付答申書によると、羽賀と思う人物が昭和二五年暮過ぎころから昭和二六年五、六月ころまで二、三回合計三〇〇〇ないし四〇〇〇円飲食したこと、羽前屋菓子店経営者土井公平作成の一一月一〇日付答申書によると、羽賀は、昭和二五年一二月ころから昭和二六年三月ころまでの間に菓子を数回にわたり合計四〇〇〇ないし五〇〇〇円位買ったこと、飲食店辰巳経営者辰巳政清作成の一一月一〇日付答申書によると、羽賀は、昭和二五年一二月ごろから昭和二六年三月ごろの間にそば等を七、八回にわたり合計七〇〇ないし八〇〇円飲食したことがそれぞれ認められる。

これらの上申書、答申書につき、検察官は、領収証、会計帳簿等の客観的物証により裏付けられたものではなく、供述者の中には羽賀らしい人物が遊興した旨述べる者もあるにもかかわらず、これら供述者に対し羽賀の面通しも実施しておらず、その証明力は十分なものでないうえ、羽賀は原二審第五回公判においてこれを否定しているから、羽賀の金銭消費状況については十分立証が尽くされていないと主張している。

しかし、前記西久保正儀については羽賀であることの特定が十分でないとはいえるにしても、他の者の場合は、数回ないしそれ以上の回数客として出入りして名前を知っているか、顔を覚えるなりしていたものであって、捜査官が羽賀の写真を示すことにより羽賀を特定し得たものと考えられるのであり、また、供述者らは、正確な消費金額までは明確ではないものの、答申書等にあるような経緯もあって羽賀の金使い等について印象が強かったから、およその額については、十分にその記憶を有していたものと窺われる。これら書証の信用性を安易に否定することはできない。だからこそ検察官は、原一審公判に捜査官作成の捜査報告書とともにこれら答申書等を提出したものと考えられる。そして、これに反する証拠は、羽賀の原二審供述以外には提出されていない。

ところで、羽賀は、原二審第五回公判、昭和三一年一一月一四日付上申書において、当時の収入・支出状況について供述するところ、料理店「松月」、「寿」については、林友会の金田理事の奢りで前後三、四回遊びに行ったが、五、六万円を消費する程の回数、豪遊はしておらず、近藤という偽名で遊んだ覚えもない(上申書)、林友会に勤めていた当時「松月」に金田と一、二回遊びに行ったことはあるが、昭和二六年には行ったことがない、「のり子」という女中の記憶はない、「寿」へは二、三回行ったが、一人で行ったのは一度で、他は金田と行った、同店でも近藤と名乗ったことはない(右第五回公判)旨供述している。

しかし、前記伊藤好子作成の書面によると、同女は、いつも来る客であったので何回も名前を教えてもらいたいと言うと、相手は、「函館の近藤」で、電気関係のブローカーをしていると言ったというのであって、その書面の内容は具体的なものであること、林友会主事金田正三は、九月一三日付員面において、旭川の義兄から五〇〇万円の融資を受けるよう羽賀から依頼されていた昭和二六年四月末前後ころ、羽賀に誘われて一緒に北見市内の「寿」、「松月」、「大丸食堂」で飲酒したことがあり、いずれも羽賀に御馳走になったが、特に四月末ころ「寿」で飲食して宿泊した際は、羽賀は、その店の二三歳位の女と大変な馴染みのようであり、自分の相手をした女の話では、羽賀は前々から遊びに来ていてその馴染みの女と非常に仲が良く、羽賀は金離れが良くて上客であると言っており、羽賀自身も、そのころ、「寿に俺は函館の近藤だと言って飲んでいるので、女達は全部そう思い、特に俺の女は、すっかり信用してどうしても一緒になりたいから函館へ連れて行ってくれと言って寿を辞めてたらしい、困ったことになった。」と言っていた旨、前記伊藤、泉作成の各答申書等の内容を裏付ける供述をしていることが明らかであって、これらによれば、「松月」、「寿」での飲食遊興状況についての前記羽賀供述は到底信用することができない(なお、羽賀は、金田に対し多額の金員の借用方の話をしたことはない旨原一審第二〇回公判で供述するけれども、これも前記金田供述に徴し信用できない。)。以上、前記答申書等の信用性を肯認することができ、これらによれば、羽賀は、月額約二〇〇〇円の煙草代を別として、大山事件後小林事件敢行の前に一一万五〇〇〇円をこえる現金を費消していたことが認められる。

(Ⅳ) 羽賀の収入状況について、羽賀は、第二回検面において、林友会勤務時代の給与は手取りで約八五〇〇円位(営林局時代は七〇〇〇円位)で、毎月これを全部親に渡し、その内から毎月二〇〇〇円位の小遣いを親から貰っており、必要があれば親に話をして一万円位までなら貰うことができた旨供述していたところ、原二審第五回公判においては、右検面で述べた手取り額について問われて記憶がないとした上、給与は、営林局を辞める当時は管内出張もあって月手取り一万四、五〇〇〇円位、その後一時勤めた北見産業開発株式会社では出張旅費を入れて一万四、五〇〇〇円、林友会勤務時代は宿直が再三あって月平均二万円前後あり、半分位を家に入れていた旨供述するに至り、また前記上申書においても、林友会では宿直手当が少なくとも月五、六〇〇〇円あり、これが年末と年度末に支給される各一万円の臨時賞与分と同じく給与とは別の封筒の扱いであって、これについては家計に入れてなかった、北見産業開発では一か月半位勤務していた旨記載している。

しかし、母である羽賀ふじよは、昭和二六年六月二五日付員面、同年七月二日付検面、昭和二七年一一月二日付検面において、羽賀から毎月給料全部を受け取り、その中から必要に応じ小遣いを与えていたが、営林局当時は月六〇〇〇円足らず、林友会でも五〇〇〇から七〇〇〇円位(六〇〇〇円位)を家に入れていた旨供述していること、当時の林友会理事加藤信吉は、第一回検面において、昭和二五年一二月一一日林友会に就職当時の羽賀の月給は四五〇〇円位、翌二六年七月退職当時のそれは五五〇〇円位であった旨供述していること、柳原栄治作成の答申書では、営林局での昭和二五年当時の羽賀の給与は多い月で手取り三九五六円、出張旅費は多い月で三三八〇円程度であること、村上庄一は、検察事務官に対する一〇月二四日付供述調書において、昭和二五年一〇月初めころ羽賀が北見産業開発株式会社に求職に来た際同人に対し現場の方で検尺でもできるのなら勤めてくれと言ったところ、羽賀が翌日置戸の現場に一度顔を出したもののすぐ帰ってしまったことがあるだけで、その後は同社に顔を出しておらず、同社では羽賀を正式に雇ったことはない旨供述していること、右に関し羽賀自身第一回検面において二、三日で同社を辞めた旨供述していたこと、その他前記のように羽賀は飲食店での費消につき真実を述べていないこと等に徴すると、前記羽賀供述の信用性は低く、林友会勤務当時宿直料も含め月約二万円の収入があったとの羽賀供述部分は到底信用することができない。右各証拠によると、林友会勤務当時の羽賀の収入は、宿直料も含めせいぜい第二回検面で述べる月約八五〇〇円程度の手取り額であり、これを家に入れて親から通常二〇〇〇円位を小遣いとして貰っていたものと認めるのが相当であろう。

そして、前記羽賀ふじよの昭和二六年六月一五日付員面、同年七月二日付検面によると、母ふじよは昭和二五年七月末営林局退職時に一万円を与えたほかには、羽賀に対し昭和二六年六月ころまでの間一度も一万円以上の現金を与えたことがなかったから、このような羽賀の収入では、前記のような一一万円以上に及ぶ金銭費消状況を到底説明することはできない(一一万円のうち約二万円について大山事件の強取金が使用されたとしても、同様である。)。

(Ⅴ) さらに、前記一二万五〇〇〇円が大山事件の強取金でないとした場合、その出所はどこかについて検討する。

判示冒頭認定のように、昭和二六年六月一一日、小林は現金四七二万円余を所持していたところを清水の手により殺害されたものであるところ、その強奪金について、清水は、第二回検面、原一審第一九回公判において、犯行後の同年六月一七日小林の鞄の方に入っていた千円札の一〇万円束二つのうちから四、五万円を抜取り、残りを羽賀に渡した旨供述するのに対し、羽賀はこれを否定している(原一審第一九回公判)。両者の供述には、右以外にも、例えば、小林事件の謀議、準備の過程において、羽賀が清水に対し大山事件の内容についてどの程度説明したか等、種々食い違いがある。しかし、羽賀は、極めて智略にたけているうえ、小林事件に関してだけでも、警察へのレジスタンスとして強取金を大阪の人に預けてあるとの供述をした後に、相田賢治主犯説を展開するなど、その供述態度には相当の問題点が含まれると判断せざるを得ないのに対し、清水は、その自白に至る経緯から一審判決に服した点までみても、極めて真摯な反省、悔悟の念に終始しており、その供述内容も具体的で一貫し、取り立てて指摘するほどの不自然、不合理な点も窺えないこと等に徴すると、右食い違い部分については清水供述の方をより信用すべきものと考えられる。したがって、前記清水供述により六月一七日ころに羽賀が清水から十数万円を受取ったとほぼ認められ、翌一八日に羽賀が前記加藤から銀行に預金するよう依頼された際に札を取り替える機会もあったものと考えられる。

(Ⅵ) 以上を総合すると、羽賀が信田ウメに対し預けた一二万五〇〇〇円の現金は、羽賀のいうように大山事件の強取金の一部ではなく、小林事件の強取金の一部である可能性が極めて強いといわなければならず、この点に関する羽賀供述は関係証拠により認められる事実と食い違っている疑いが強いものである(なお、右羽賀供述が虚偽であるとして、なぜ羽賀が強固にこれを維持したかについては、全証拠によるも明らかではないけれども、推理の一つとして、小林事件の強取金の一部が信田ウメに渡っていることが判明すると、これを契機として四〇〇万円余の大金の所在に関し捜査機関の厳しい追及の手が信田夫婦に及びかねないこと、したがって自己の主張する相田賢治主犯説にも影響しかねないことを羽賀が憂慮した可能性もあり得ないではないと思われる。)。

(23) まとめ

以上で明らかなように、羽賀供述の細部には数多くの変遷があるところ、これらは、被告人との第一回目会合の日時、被告人を共犯者に選定した契機から、謀議の内容、犯行の準備状況、大山に対する欺罔内容を経て犯行直前直後の状況に至るまでの被告人と密接に関連する犯行の全過程に及んでいるものであるうえ、その中には、特に、犯行の予行演習と殴打者((13))、死体運搬経路((14))にみられるように、相当強く記憶に刻み込まれたはずの事項についても供述が大きく変遷している部分があること、変遷の仕方については、一旦ある事項について相当具体的、詳細に供述しながら、次の機会にはこれとは食い違う内容をまたも相当具体的に述べるなど、果たして真の記憶に基づき誠実に供述をしようとしているのか疑問を抱かざるを得ないような不自然、不合理な部分が相当数存在すること((5)、(7)、(9)、(13)、(14)、(15))、その他にも、やや不自然と思われる変遷が相当数存すること((1)、(2)、(6)、(12)、(16)、(18)、(21))が指摘できる。そして、このような変遷ぶりは、羽賀が実体験に基づいて供述しているのかどうかの羽賀供述の信用性について判断するに当り、大きな消極的要素として作用せざるを得ないと思われる。これらの変遷事項をもって羽賀供述の信用性にかかわり合いのない枝葉末節に属するものとして切り捨てるのは相当ではない。

また、羽賀供述中には、その内容自体やや不合理な部分((3)、(17)、(18))や他の証拠により認められる事実と食い違っている疑いの強い部分((10)、(22))が含まれており、これらも羽賀供述の信用性を判断するうえで消極要素となるものである。

(七)  羽賀の性格

弁護人は、羽賀には、自己に不利な状況を想定し、これに対し一見合理的な対応、弁明を予定するという特殊な性向、虚言癖があり、この性向を正当に認識することによって、羽賀供述の虚偽を喝破することが可能になると主張するので、以下、羽賀供述の信用性に関連して羽賀の人格、性向について検討する。

羽賀の性格について、羽賀の両親は、小さい時から勝気、強情で、口数は少ないものとみており(羽賀留吉の第一回検面、羽賀ふじよの第三回検面)、また営林局、林友会の職員の間でも、無口で、おとなしい男であると見られ、拳銃の不法所持事件についても「あのおとなしい男が意外だ。」という受けとめ方が多かったものの、表面的に温従にみえながら反面信念が強く自分の考え違いを指摘されても認めようとしないとか、物おじせず、ふてぶてしい面があるとか、腹を割って話をせず何をするか分からないとの見方もあった(斉藤武志の第二回検面、所喜良の第一、二回各検面、粟野武雄の第一回検面)。また、同年兵仲間の評では、被告人が蔭日向なく真面目であるのに対し、羽賀は、要領が良くすばしこいけれども、上官のいる時といない時では態度が違い、やることに蔭日向があったとされている(江原信重、栗栖福松の各検面)。これらによれば、羽賀の性格は、無口でおとなしいが、内面の心は強く、勝気、強情で剛胆な面があり、その行動には表裏があるといい得よう。また、能力面については、右供述では、わずかに同年兵仲間が要領が良いと述べる程度であるが、本件犯行の全過程を精査して感得できるのは、羽賀の高度の知能に裏付けされた物事の企画計画性の緻密、周到さ、相手の心理を看取する力や行動力の卓抜さである。

小林事件において羽賀が共犯者の清水を巧妙に犯行に誘い、四〇〇万円以上もの大金を持ち出させた小林をおびき出し、清水に実行行為を遂行させた過程の詳細は、清水の検面三通等に明らかであるが、清水自身も、羽賀について「大変に頭の良い人」であり、「事件の大半を私にかぶせて来て居る風」であると受けとめていたし(清水作成の昭和二八年一二月九日付手記)、また、大山事件においても、羽賀の右緻密さは、供述の随所に現われており、例えば、前記(六)、(9)に明らかなように、ホップという品名を大山に告げるかどうかについて種々の配慮を重ね、大山がどうしても品名を問うのであれば、「どうしても聞きたいのであれば言ってもよい。」と高飛車に出るよう被告人に指示した点、(六)、(12)の刃物使用に関し、できるだけ刃物を使わないことにする理由として、刃物を使用すると血痕を残し、加害者に血が付着して発覚のおそれが強くなるばかりか、加害者自身も血を見て逆上するということまで話した点など、枚挙に暇がないし、羽賀の相被告人や証人に対する尋問ぶりも、理路整然として驚くほどである(特に、原一審第六回公判証人梅田美智子供述、同第二九回、原二審第五回各公判被告人供述)。

羽賀は、既に認定のとおり、昭和二五年七月拳銃不法所持事件で営林局を退職したものであるが、その後まもなく自棄的な気持ちに陥り、太く短く人生を渡ろう、まとまった金をつかんで何か仕事をしたい、金をつかむには、一層のこと人を殺して金を奪った方が安全であると考え、本件を計画したというのであって(加賀の第五回検面、原一審第七回公判供述)、前記のような優れた企画力、行動力は、本件犯行の実現に向け傾注されたものである。関係証拠によれば、以下の事項を指摘することができるが、これらは、加賀が、目的実現のために、いかに深慮遠謀をもって事に対処して相手を欺罔するか、いかに虚言を構えて自己目的の実現をはかろうとするかを示す好例といえよう。

(1) 会計課長宛封書すり替え工作

大山が行方不明になった直後に北見営林局会計課長宮島富太郎方に大山の筆跡で書かれたと思われる大山名義の封書が郵送されたこと、そこには、「ミイラ取りがミイラにならないように」などと営林局幹部の不正行為を警告しながら大山の現金拐帯を官憲に届け出ることを牽制するものであったことは、判示冒頭認定のとおりである。

羽賀は、大山が右封書を作成、郵送したかのように偽装して自らが作成、投函したものであることを認めるのであるが、その意図、偽装工作過程について、一〇月六日付員面、第六回検面、原一審第九、二三回各公判において、次のように供述している。すなわち、

一〇月三日ころ、予め右手の親指を除いて右手に包帯を巻き、封筒や便箋を用意して図書館に行き、大山、被告人と取引の話を終えて被告人が帰ったあと、大山に対し、今回の取引はいつも手伝っているブローカーの仕事を横取りする形になるので、その人から苦情、横槍が出ないように一本釘を打つ必要がある旨話し、包帯を巻いた手と反対の手でわざと当て字を使い下手な字で、「私がこのような行動をとりました事をお許し下さい。本件を問題として取り上げた場合は私も相当な覚悟があります。皆様方の不正行為は少なからず知っております。ミイラ取りがミイラにならぬ様御注意の程お願い致します。」などと書いて大山に見せ、同人が書き直してくれるよう仕向け、思惑どおりに大山に便箋に書き直してもらい、封筒の表にはでたらめの住所・宛名を書いて前に置いた。次いで、会計課長に私的な言付けがあるとして便箋にでたらめの内容の手紙を書いた上、大山に頼んでその封書の表に会計課長の宛名を書いてもらい、さらに今度は、鉛筆か万年筆のキャップを大山の方に故意に落とし、大山がそれを拾う隙に、右二つの封書をすり替え、大山の前に会計課長宛封筒と脅迫めいた内容の便箋を置いた。そして、いかにもやりにくそうに自分の方に置かれていた封書に予め用意してきた切手を貼ると、大山は、その前に置かれていた方の封書に唾をつけて封緘し、切手もなめて貼ってくれた。次いで、大山に対し、自分が近ごろ姓名判断をやっているので運勢を見てやる旨申し向け、便箋に大山の名前を自署させ、でたらめの姓名判断を述べた。大山を帰したあと、大山の筆跡を真似て練習し、前記会計課長宛の封書の裏に差出人として大山の名前を書いた。現在の法医学では唾から血液型が検出できると聞いていたので、万一のことまで考えて大山の自筆であることを信じさせるために封をさせ、切手を貼らせたものである。

以上によれば、羽賀は、本件が大山による公金拐帯、逃走事件ということになれば、大山の強殺事件が露見せずにすむものと策謀し、予め前記のような筋道を考え、そのとおりに大山を誘導して会計課長宛の封書の宛名及び文面を大山に書かせることに成功したのである。そして、羽賀の思惑どおり営林局側では、大山の行方不明後に郵送されてきた大山名義の右封書を大山の自筆によるものと判断し、単なる公金拐帯事件として一応処理していたのであり、前記のように小林事件の発覚がなければ大山強殺事件もそのままやみに葬り去られていた可能性が強かったのである。

(2) 羽賀秘密文書

原一審判決に対する控訴、上告が棄却されて右判決が確定した後である昭和三五年三月五、六日ころ、羽賀が、被告人の弁護人であった弁護士中村義夫と拘置所内の面会室で面会した際に看守の目を盗んでひそかに同弁護士に手渡したとされる秘密文書が存在する。当審で取り調べた「中村様」と宛名記載のある書簡一通(昭和六〇年押第二四号の123)がこれである。

その内容は、「御多用のところ遠路お運び頂き恐縮します。問題の性格柄このような不合理な手段にて申上げる非礼を御容赦下さいますよう」に始まり、従前の供述が誤っていたと認めるものでないとした上で、「最近或る俗因より梅田君の心根が不憫になり……事情によっては、すべてを大きく譲歩し、梅田君の為に最善をつくしてみようと翻意し、ここにその妥協点を見つける機会を作って、梅田君は私の虚言によるもので無実であり、私がこの度真相を告白したという形式を捏造し、再審なり……救済手段を強力に推進」してもよい、すなわち、被告人のため無罪証言をしてもよいが、その条件として五〇万円を払ってほしいというものであり、さらにその中には、右申し出に対する諾否の仕方、金員交付の時期・方法等が極めて周到に指示されている。獄中にあり、死刑執行を受けかねない状況下にありながら、このような文書により弁護士を相手に事を画策すること自体、羽賀の物欲、狡猾さとともに、比類なき企画力、行動力を示すものといえるが、特に、追記として、「梅田君の救助案が公式に具体化した際、先生に二度にわたり御来所願った点についての説明を求められた場合、『大山事件の真相を申し上げるべくお運び頂いたが、その時になると負担の大きさに、いつも決意がぐらつき、心にも無いことを申上げてお帰り願っていた』との如く説示致します。」と記載した部分は、いかに羽賀が相手方の心理を読み、用意周到に準備して行動に至るかを物語るものといえよう。

(3) 小林事件の強取金を清水から受領した経緯

小林事件において強取した金員のうち、リュックサックに入っていた四〇〇万円余の大金は、清水の手によって土中に埋められていたものであるところ、これを清水が羽賀に交付した経緯については、両名の言い分は食い違っている(原一審第二〇回公判における羽賀及び清水の各供述)。

羽賀の右公判供述によると、小林事件後、金を埋めた穴へ行ってみると、リュックサックはあったけれども、中味の金は入ってなかったので、清水がこの事件を自分一人にかぶせて金を横取りする考えであり、容易には自分に金を渡さないだろうと思い、それで、清水に対し、血の付着した外被があるからこの事件から絶対に手を切ることはできないように思わせるため、実際は現場から持ってきて焼却してある清水着用の外被(人から借りたもので名前が入っているもの)の話を出し、「捜査は進んで我々が逮捕される寸前にきているが、外被は持ってきたものの焼くことができないまま林友会のむろの中に隠している。今度特別な捜索があるという情報があり、その結果外被が発見されれば、我々の行為が判る。ここ迄来たから俺は自首するから、清水君は金を持って逃げろ。」と、清水に金欲しさの創作であると思われないようにわざと金のことに触れずに言ったところ、清水は「何とか打つ手はないか。」と言うので、打つ手は二つあり、一つは、林友会のむろにある外被を処分すること、もう一つは、清水が自粛して金使いを慎しむことだが、たとえ外被を処分しても清水が自粛する態度に出ない限り、自分は自首すると述べ、その後清水が、「何とか外被を処分してくれ。」と頼み込んできたのに対し、「外被を処分しても、君の自粛がない限り足がつく。」と言い、清水をして、金は山から持ってくる、金が身近かにあるとつい手が出るからあげる旨言わせしめ、同人からリュックサック中の大金を受け取ることになった、というものである。

一方、清水の右公判供述によると、羽賀から、「俺は自首するが、お前はどうする。」と聞かれて、自首するとか、自殺するとか答えた際、同人から、「せっかくここまで来たのだから最後のあがきをしてみようではないか。俺一人で背負って、国庫金の弁償も一人で負担するから金を持ってこい。」と言われ、リュックサック中の大金を渡した、というのである。

清水供述と羽賀供述には、右の点以外にも相当の食い違いがあるのであり、前記認定のように清水供述の方が真摯な改悛の情に裏うちされている点等からその信用性が高いと思われるのであるが、その点は別としても、右羽賀供述は、強取金を何とか入手しようと考えた羽賀が、いかにももっともらしい巧みな虚構を作出して欺罔した結果、強取金の入手に成功したことを自ら述べるものであって、少なくとも羽賀にそのような能力のあることを十分に示すものといえよう。

(4) 羽賀の上告趣意書

羽賀は、自ら昭和三二年五月六日付の上告趣意書を作成したが、その内容は、自ら道義的責任を回避しようとするものではない、本件における自己の責任は充分に痛感しているとする一方、訴訟手続の違法、重大な事実誤認の主張とともに、量刑不当を主張して刑の量定に特段の御考慮を求めるというものであり、しかもその理由として、清水が直接の下手人ながら従犯なるが故に刑を減軽されたところ、自分も相田賢治の腹案の幇助者であって事実上の従犯であるし、自分が良心の呵責に堪えかねて直接凶行に加わらなかった情状を酌量してもらいたい旨挙げた上、自分が司法警察員、検察官に対し、あるいは公判において、凶行に参加しなかった理由として「万一の場合、軽い刑責で済むと考えて」と述べたのは、真意ではなく、右のように述べると裁判官の悪を裁断する正義心が私一人に集中して心情を悪くすることの反動として、他の共犯者に対する見方が同情的になって情状酌量されるだろうとの顧慮から特に意識して自分に不利益な供述を行ったものであると記載している。

羽賀が、何とか死刑を免れたいと思う心情は理解し得ないではないけれども、自分が直接実行行為に参画しなかった理由の説明供述について述べるところは、詭弁以外の何物でもなく到底採用し難く、右は、自己の主張のためにはとにかく巧妙に理屈をつけて強弁するという羽賀の性向を如実に示すものといえよう。また、右は、捜査、公判を通して一貫して供述していた事項でさえ、不都合になればいとも簡単に具体的理由が付されて変更されるという前述来の羽賀供述の特徴をも示している。

(5) その他

弁護人は、羽賀の性向、虚言癖を示すその他の事実として、① 小林殺害後旬日を経ない昭和二六年六月二三日逮捕されながら、巧みに追及をかわして釈放されたこと、② 小林事件の強奪金について「大阪のある人に預けてある」旨警察へのレジスタンスとして虚偽を述べたと自認していること(原一審第二〇回公判)、③ 小林事件の主謀者は相田賢治であって同人に強奪金を預けてある旨の虚言を最後まで維持したこと、④ 姉信田ウメに預けていた一二万五〇〇〇円は大山事件の強奪金の一部である旨虚偽を述べていること、を挙げている。

確かに、②については、羽賀が警察へのレジスタンスというような意図から虚言を述べる人物であることを示すものといえるし、④については、前記のように、羽賀が虚偽を述べている可能性が強く、羽賀供述の信用性判断にあたって消極的要素となるものであって、羽賀の虚言癖を示す一つの根拠となり得るものと思われる。しかし、①については、捜査官の取調べに対し言い逃れてきたというのであって、犯罪者に通常あり得ることであるから、この点を重視するのは相当ではないと思われる。また③については、相田賢治は原一審第二一回公判において明確に前記羽賀供述を否定するのであり、逮捕、勾留もされるなど捜査の手が相田にも及んだけれども、結局、相田については小林事件に関与していたと認むべき証拠がないままに推移していること、羽賀の小林事件についての供述は、清水の供述と多々食い違うところ、前記のように清水供述の方が信用性が高いと認められること等に徴し、相田主犯説をいう羽賀供述部分は容易に信用しがたいけれども、当公判においては小林事件の全証拠が取り調べられたわけではなく、相田が小林事件に関与しているか否かは未解決の問題であるとの検察官の主張もあり、この点をもって羽賀の虚言癖の徴憑であると指摘するのは相当でないように思われる。

(6) まとめ

以上によると、羽賀は、企画力、行動力において非常に優れるが、奸智にたけ、虚言をもって自己の目的実現のため策謀をこらす性向を有するものであり、この点は、本件羽賀供述の信用性を判断するにあたり、軽視しがたいというべきである。

(八)  羽賀の自己矛盾供述

弁護人は、奥野蔀に対する羽賀の告白、鐙貞雄に対する羽賀の告白、清水一郎に対する羽賀の打ち明け話は、羽賀供述と矛盾しており、これらによれば羽賀が真の共犯者をかばっていることが判明すると主張する。

(1) 奥野蔀に対する告白

奥野蔀作成の弁護士中村義夫宛昭和三八年一一月一二日付書簡写、証人奥野蔀の一次再一審、一次再二審における各供述、被告人(請求人)の一次再一審、一次再二審(昭和四二年一月一〇日実施)における各供述によれば、無期徒刑囚である奥野蔀は、上告中であった昭和三一年から三三年にかけて、収容されていた札幌大通拘置支所において、羽賀から、「梅田は犯人ではない、真犯人の名を出せば近親者に触れなければならないので梅田を引きずり込んだ。」と告白され、また、その真犯人の名前も羽賀から聞いたが、その名前は現在述べることができない旨供述するところ、検察官は、右奥野はさしたる理由もないのに羽賀から聞いたという真犯人の名前を明らかにせず、またその真犯人も、羽賀の近親者であるような趣旨のことを言ったかと思えば、そうでないと証言したりしていて、信用できないと主張する。

確かに、右奥野は、真犯人の名前を聞いたとしながらその名前を述べないのは、真犯人の名前を聞いたという供述自体の信用性を低下せしめるものではある。しかし、奥野は、羽賀から羽賀の敢行した二つの事件のことで自分の出所後になすべきことを頼まれており、現在の段階では羽賀の意志を尊重し、真犯人の名前を挙げることができない旨一応その拒否の理由を述べていること、前記奥野作成の書簡、二回に及ぶ証言を子細に検討すると、奥野は、右書簡中で、「羽賀は『なぜ梅田を引きずりこんだような自白をしたかというと、そうしないことには、どうしても俺れの近親者に触れねばならないからだ。』と共犯者の名前を聞せてくれた。」と記載し、一次再一審では、羽賀が右の近親者に触れねばならないとの文言を言っていたことを肯定した上、「そうすると証人は共犯者という中に近親者がいると感じましたか。」との質問に対し、「彼が、そう言っているから僕も初めそうじゃないかなと思っていたのです。」、「梅田を引合いに出したのは、それを出さなければ、自分の近親者の話もしなければならんことになると羽賀が言っていた。」と述べ、「近親者というのは名前を言わなかったのですか。」という質問に対し、「四五〇万円の一部を預けた人に関係してくるのではないですか。」と答えているのであって、当初奥野が、大山事件の真犯人が羽賀の近親者であるようには必ずしも明確には述べていたものではないこと、奥野は、昭和三三年四月ころ羽賀が、「梅田の弁護士に迷惑をかけてやろうかと思っているんだ。」、「梅田の無罪証言と引換えに弁護士から五〇万円か百万円ぐらいせしめてやるのだ。」と述べていたというのであるが、これがその後前記のように現実に羽賀秘密文書によりひそかに実行に移されようとしたから、事柄の性質上、右部分を述べる奥野供述の信用性は高いと考えられること、奥野は、一方では、羽賀は大山事件について当初被告人と相談したことがあったが、その後被告人を共犯に引き入れるのを断念したと述べていた旨、被告人に不利益な供述もしていること等の事情も認められるから、これらを勘案すると、前記奥野供述の信用性を一概に否定することはできないものと思われる。そうするとこのような奥野供述中にみられる羽賀告白は、前記羽賀供述と矛盾するものであるから、自己矛盾供述として前記羽賀供述の信用性を減殺するものである。

(2) 鐙貞雄に対する告白

弁護人は、弁護士竹上英夫作成の昭和五六年八月一〇日付供述書(鐙貞雄供述聴取書添付)、鐙貞雄の弁護士鈴木悦郎に対する同年九月一五日付供述録取書、二次再一審での証人鐙貞雄の供述によって、羽賀が、昭和三三年から三五年ころにかけ札幌刑務所三舎階上の独居房において、当時同舎階上の掃夫として当番作業に従事していた有期懲役囚鐙貞雄に対し、「梅田とは戦後一、二回会ったことがある程度で大山殺害には関係がない。自分が助かりたいため梅田を引きずり込んだが、助からなかった。」旨告白した事実を認めることができると主張する。

右鐙供述は相当具体的詳細であり、同人が二〇数年も前の自己の旧恥をさらけ出すことになるにもかかわらず供述をしている事情もないのではないけれども、右鐙の身分帳の記載に基づく札幌刑務所長作成の昭和五七年一月一九日付捜査関係事項照会回答書謄本、同刑務所看守であった証人斉藤藤次郎の二次再一審での供述、長沼清一の検面謄本によると、右鐙が当時三舎階上の掃夫として当番作業に従事していたことがないとされるのであり、羽賀が鐙に対し前記のような告白をする機会はなかったと一応認めざるを得ないから、現在の証拠関係のもとでは、右鐙供述の信用性を肯定することはできない。

(3) 清水一郎に対する打ち明け話

小林事件の共犯者である清水一郎は、その第一回検面、原一審第一八、一九、二四回各公判、一次再二審における証人としての供述において、羽賀が昭和二六年六月三、四日ころ、自分に大山殺害の事実を打ち明け、「札幌から来た二人と羽賀とが現場に行き、時刻が夜であって拳銃がうてなかったからバットに鉛を詰めたものとサイダー瓶に砂を詰めたものを使って頭を一撃し、ひっくり返ったところをヒモで首をしめた。」旨言われたことがあったと供述するのに対し、羽賀は、清水に対しては大山事件に関しては一言一句もらしていない、何一つヒントも与えていない等と供述している(原一審第二四回公判)。既に述べたように、羽賀と清水の供述は各所で食い違っているところ、右の点においても清水の供述は極めて具体的であって客観的状況とも合致し、同人が創作で述べたものとは考え難いから、同人の供述の方が羽賀供述よりも信用し得ると認められるけれども、羽賀の清水に対する右打ち明け話は、羽賀が清水を共犯に巻き込む過程においてその手段として持ち出した話であるから、羽賀が必ずしも真実を述べているとは限らないと考えられる。したがって、右打ち明け話の内容が羽賀供述と矛盾していることをもって未だ羽賀供述の信用性を減殺するに十分なものとはいえない。

(九)  羽賀供述と梅田自白との食い違い

後記のように、羽賀供述と梅田自白との間には多数の食い違いが存在する。両者が食い違う理由としては、どちらか一方が真実を供述しているのに他方が虚偽を供述しているためか、あるいは両方が虚偽を供述しているためであると考えられる。本件では、後記のように梅田自白の信用性の観点から羽賀供述との食い違い状況について検討しているのであるが、余りにも食い違うものであれば、両名が共通して述べている事項、すなわち、両名共謀のうえ被告人が実行行為を担当したとの部分について、両名には真に共通の体験がないのではないかとの疑問を生ずることにもなる。そして、後記検討の結果によると、その疑いを否定することはできない。

(一〇)  羽賀供述の信用性についての結論

以上の検討によると、羽賀供述には、死体埋没場所の指示という大山事件の核心部分についていわゆる秘密の暴露があって、羽賀が大山事件の犯人であることは疑いがなく、したがって、一般論としていえばこのような秘密の暴露を含む羽賀供述の信用性は高いといい得よう。また、小林事件に引き続き別の重大事件をも自供する羽賀が心中相当の覚悟をもって臨んだことも推測するに難くなく、共犯者として被告人の名前を出すに至った経緯、動機も一応自然で合理的であり、羽賀が被告人に対し個人的な恨みを抱いていたような事情もないし、羽賀供述中の被告人に対する指示内容の相当部分は死体に関する客観的状況と整合し、その供述も一応具体的で、一部には臨場感の伴う部分も存在するといえよう。これらの観点からみても、被告人を共犯者であるとする羽賀供述全般の信用性は相当高いといえなくもない。

しかし、既に述べたように、共犯者の供述(自白)は、自己の刑事責任の軽減をはかるため、あるいは、真の共犯者らをかばうために全く無関係の者を犯行に引張り込む等の危険性を有するものであるから、被告人が共犯者であるという右羽賀供述部分の信用性については慎重な吟味を要するところ、大山事件の供述を開始した当時の羽賀の供述態度については、羽賀は、当時捜査の先行していた小林事件について警察へのレジスタンスとして強取金の所在についてことさら虚偽を述べる等、取調べ警察官をてこずらせており、全面的に素直に悔悟して潔く罪に服するという状況にはなかったし、大山事件に関しても不用意に大山の死亡を口に出したのがきっかけとなって死体埋没場所を供述する羽目に陥ったものであり、羽賀が真摯な反省の結果、極刑をも覚悟の上事実のすべてを正直に供述するという状況にあったものとまでは必ずしも認め難いこと、犯行当時の羽賀の行動状況や拘置中の奥野蔀に対する告白等に徴し、羽賀には、真の共犯者の替わりに被告人を共犯者に仕立てることにより真の共犯者あるいは小林事件を含めて本件一連の犯行に関連を有する者をかばう必要性があったという見方も全く根拠のないものとはいい難く、羽賀が共犯者について虚偽を述べているのではないかとの疑いは、単に一般論として指摘される共犯者供述(自白)の危険性以上のものがあること、羽賀の供述内容自体については、被告人に対する羽賀の指示内容の相当部分が死体の客観的状況と整合するとはいっても、この点が羽賀供述の信用性判断に特に有益なものともいえないし、なによりも羽賀供述中には、被告人と関連する部分の全過程において多数の不自然、不合理と思われる供述の変遷があり、羽賀が果たして真実の体験を記憶に基づき真摯、誠実に再現しようとしているのか甚だ疑わしい状況、例えば、一見いかにももっともらしく、具体的で、時には臨場感の伴うような供述をしておきながら、次の機会にはこれが全く別の具体的供述に変化してしまうようなことが指摘できるのであり、これは、奸智にたけ虚言をもって目的実現のため策謀をこらす性向が顕著であって、安易に信頼がおけないという羽賀の人物像にまさに相応するものと考えられ、この点は羽賀供述の信用性判断のうえで大きな消極要素といわなければならないこと、また、羽賀供述には、内容自体やや不自然、不合理なものや他の証拠により認められる事実と食い違っていて虚偽を述べている疑いの強い部分が存在すること、被告人が共犯者であるとの羽賀供述に矛盾する羽賀自身の供述もあること等の事情も指摘することができる。そして、これら消極要素を考慮すれば、羽賀供述中、被告人を共犯者とする部分の信用性が高度なものであるとは到底いえないのであり、羽賀供述が、被告人につき本件の実行を分担した共犯者であると認定し得るほどの証拠価値を有するものとは認められないというべきである。

第四被告人の自白の証拠能力について

弁護人は、被告人の警察官に対する自白は強制、拷問、脅迫、誘導によるものであるところ、検察官に対する自白は警察における右拷問等による影響のもとで警察に対すると同様の供述が繰り返されたに過ぎず、右拷問等と強い因果関係があるから任意性がなく、また、被告人の自白は、違法な緊急逮捕手続、黙秘権の不告知、弁護人選任権の不告知、弁護人との接見妨害という状態において作成されたものであり、これらの違法と被告人の検察官に対する自白との間には因果関係があるから、証拠能力がないと主張する。

一 序

判示冒頭で指摘したように、被告人は、捜査段階で本件犯行を自白したのであるが、被告人の捜査段階での供述としては、以下のものが存在し、これらを当審で取り調べた。すなわち、

① 司法警察員伊藤力夫に対する一〇月二日付弁解録取書(否認)

② 同人に対する同月三日付第一回供述調書(自白)

③ 同人に対する同月四日付第二回供述調書(経歴、家族関係が主たる内容であるが、簡単に犯行を自認する部分も含む。)

④ 司法警察員遠藤富治作成の同日付(同日実施)実況見分調書中の被告人の指示説明部分(犯行状況等の指示説明)

⑤ 検察官(副検事)坂本好に対する同月五日付(同月四日の誤記と思われる。)弁解録取書(否認)

⑥ 司法警察員遠藤富治に対する同月四日付第三回供述調書(自白)

⑦ 北見簡易裁判所裁判官に対する同月五日付陳述録取調書(共謀の点を除き自白)

⑧ 検察官(副検事)岡部良秀に対する同月八日付供述調書(検察官の検証に先立つ簡単なもので、犯行を自白)

⑨ 同人及び検察事務官村田重治作成の同日付(同日実施)検証調書中の被告人の指示説明部分(犯行状況等の指示説明)

⑩ 検察官(検事)橋本友明に対する同月一六日付第一回供述調書(身上、経歴を述べるもの)

⑪ 同人に対する同月一七日付第二回供述調書(事前謀議関係を述べるもの)

⑫ 同人に対する同月一九日付第三回供述調書(犯行状況の自白)

⑬ 被告人作成の同月二一日付上申書(梅田手記)(否認)

⑭ 検察官(検事)穴澤定志に対する同月二四日付第四回供述調書(被告人の昭和二五、六年当時の収支状況について述べるもの)

右のうち、立証趣旨を犯行状況、自白として取り調べたものは、③、⑧、⑪、⑫である(なお、⑨は、犯行現場等の状況を立証趣旨としている。)。以下、警察官に対する自白の任意性、検察官に対する自白の任意性、違法な手続下での検察官に対する自白調書の証拠能力の順に検討する。

二 警察官に対する自白の任意性

1  当事者の主張

被告人の警察官に対する自白は拷問等により得られたものであるとの弁護人の主張に対し、検察官は、逮捕当夜の被告人の取調べは、羽賀との対質が主で、本格的なものではなかったこと、翌三日は、午前中は取り調べず、午後から大館警部補らが人の情に訴える説得による取調べを行った結果、わずか一時間程度を経過した午後二時ころ被告人は犯行を認める供述を始めたもので、暴力による強制、誘導は全くなかったこと、羽賀の取調べはまだ緒についたばかりで、細部にわたって事実関係が明白にされていたわけではなく、羽賀の供述を前提に誘導的取調べをすることはできない状況にあったこと、そのことは、被告人の最初の自白調書(一〇月三日付第一回)と羽賀の一〇月二日付員面の内容を対比すると、被告人の自白の方が先行している部分、被告人の自白によって初めて明らかになった部分があって、被告人の自白の内容自体からその供述が任意によるものであることが明らかであること、逮捕当夜及び翌日の最初の自白に至る被告人の取調べ状況等に関する供述には、虚偽と認められるもの、著しい変遷があるものなどがあって信用できないこと等を総合すると、被告人の警察官に対する自白に任意性のあることは明白であると主張する。

2  当裁判所の判断

(一)  対立する証拠関係

被告人が逮捕されたのち、警察官、検察官に対する自白調書が作成され、さらにその後被告人の犯行を否認する梅田手記が提出されるまでの経緯について、双方間に争いがなく、証拠上も疑いがないと認められる事実は、判示冒頭第二、一、5ないし7に記載したとおりであるが、被告人が当初警察官に対し自白した理由、拷問の有無についての証拠は、次のように二つに分かれ、対立している。

前記弁護人の主張にそうものとして、被告人の供述があり、被告人は、原一審の公判以来、当審公判に至るまで、被告人作成の控訴趣意書、上告趣意書及びその他の上申書等を含め、大要次のとおり述べている。すなわち、

昭和二七年一〇月二日夜自宅から北見市警察署に連行され、刑事室と呼ばれていた畳敷の部屋に正座させられた上、十数人の警察官に取り囲まれ、犯行を否認するたびに大館富男、阿部正一等の警察官から、(イ) 平手や手拳で顔や頭を殴る、(ロ) 頭髪や耳を引っ張る、(ハ) 警棒のひもを馬のくつわのように背後から口にかけた上、背筋に足をあてて後ろに引っ張る、(ニ) 両手を背後にまわさせ、警棒のひもを両手首に巻きつけ、背筋に足をあてて後ろに引っ張る、(ホ) 正座している臀部を上げさせ、両足のふくらはぎの上に警棒を橋渡しに載せておいて、その両端の上に足をかけて踏みつける、(ヘ) 身体を逆さにしておいて両臀部を警棒で殴りつける、(ト) 腹や腰などを足蹴にする、(チ) 頭や首をつかんで顔を畳にこすりつける、(リ) 両手の指の間に鉛筆を挟んで締めつけるなどの暴行を受け、また、「死刑にしてやる。」などと言われて脅迫された。夜一二時ころになって火事のサイレンが鳴り、数人の警察官が部屋から出ていったが、残った三、四人の警察官から、一〇分間位前同様の暴行を受けたのち、留置場に入れられた。翌三日も、前記大館、阿部、菅原哲夫の三人に午前中から取調べを受け、前日と同様の暴行を加えられ、午後二時ころになって苦痛に耐えきれず犯行を認めた。犯行状況やそれに至る経緯については、全く身に覚えがなかったが、警察官の誘導により、あるいは自分の想像も交えて適当に供述した。

これに対し、検察官の主張にそうものとして、被告人の取調べにあたった前記警察官阿部正一、菅原哲夫、遠藤富治の原一審公判における各証言、当審における刑事課長警部伊藤力夫の証言が存在する。右警察官阿部、菅原、遠藤の各証言内容は、

昭和二七年一〇月二日被告人を刑事室で取り調べた時、同室には十数人の警察官がいた。取調べの主任は決まっておらず、適宜同室にいた者が被告人に質問していたと思う。大館が「早く自白した方が身のためだ。」というような人情的な話をして自供を勧めていたことはあったが、取調べにあたった警察官が、被告人に暴行を加えた事実はない。その日は、午後一一時過ぎころ北見市内で火災が発生したので、否認のまま被告人の取調べを中止して火災の現場に行った。翌三日も午前中は火災現場に行っていたので、被告人の取調べは大館、阿部、菅原の三人が午後から再開した。そして、午後三時ころになって、被告人は、泣きながら畳の上を転がったり、畳をむしったりして「羽賀のバカヤロ」、「羽賀にだまされたり脅かされたりしてとんでもないことをしてしまった。」などと言いながら犯行を認めた。

というものであり、また伊藤力夫の証言内容は、

大館、阿部、菅原らがかなり無理なきつい取調べをしたと思われるようなことはなかったし、一〇月二日午後一一時ころ火災が発生したので、当直勤務以外の者は火災現場に赴いたから、それ以後被告人を取り調べたことはなかった。また、翌三日午前中も、前日の火災の現場において、ほぼ全員が捜索や実況見分等をしていたようだ。三日午後三時ころ刑事から被告人が自白したと報告を受け、取調べを交替して自分が供述調書を作成したが、被告人はすらすらと犯行状況等について自白した。

というものである。

(二)  検察官主張根拠の検討

そこで、まず、検察官が被告人の警察官に対する自白が任意性を有すると主張する根拠について検討する。

逮捕当夜の取調べ状況については、被告人が自宅で逮捕されたのは、前記のように午後八時三〇分ころであり、緊急逮捕手続書によると被告人が北見市警察署に引致されたのが午後九時三〇分とされ、弁解録取書によると警部伊藤力夫が被告人の弁解を録取したのが午後一〇時零分ころとされるところ、前記のように警察官阿部らの供述によると北見市内で火災事件の発生した同日午後一一時ころまで取り調べたというのであり、その間羽賀と対質させたこともあったから、当日は被告人に対する本格的な取調べはなかったようにも窺える。しかし、同日の取調べ終了時刻については、右阿部、菅原らの証言にもかかわらず、被告人は原一審第二七回公判において同夜は一二時ころまで取り調べられた旨、一〇月二一日に作成した被告人の手記では、その晩一時までも調べを受けた旨、被告人作成の上告趣意書では、夜中にサイレンが鳴り、三、四人の刑事を残して皆出て行ったが、その後も一〇分間位拷問が続いた旨、被告人の上告上申書では、一一時よりもっと遅い時間まで暴行を受けた旨供述していたものであるところ、当審で取り調べた昭和二七年一〇月四日付北見新聞記事によれば、同月三日午前零時一〇分ころ北見市内で火災が発生し、消防サイレンが吹鳴されたことが認められ、また、北見市警察署長作成の昭和二八年一〇月二日付「梅田義光の調査回答について」と題する書面によれば、被告人が同月二日の取調べを終えて留置場に入房したのは、翌三日午前零時四五分であることが認められ、これらの事実は、前記被告人の供述を一部裏付けるものといえるのであり、同夜の取調べ時間が阿部、菅原らの供述にある程度のものであったと認めることはできない。また、同夜、刑事室に十名以上の警察官がいたことは、阿部、菅原、遠藤らも認めるところであり、また菅原は当日はまだ取調べ主任官は決まっておらず、その部屋にいた者が適宜被告人に質問したと供述するのであるが、取調べ主任官がいない取調べは散漫なものであったかもしれないけれども、逆に、取調べにあたる責任者もいないまま在室の警察官らが勝手に被告人に対し質問したという状況は、被告人を取り囲んで相当威圧的な取調べが行われたことを窺わせないでもないのである。

逮捕翌日の取調べ開始時刻については、阿部らは、午前中は前夜の火事の現場に行っていたため調べておらず、午後から調べたというのに対し、被告人は午前中から調べられたように供述しているのであるが、この点につき被告人が原一審第二七回公判において、「翌三日ですが時間は記憶しておりません。」、「午前中から取調べられたのではないかと思います。」という程度を述べていたのに、当審第四回公判において、「朝食時間を終って、何時ごろだったかな、八時半か九時近かったと思いますけど。」と時刻について相当明確に述べるのは、やや不自然でないでもなく、また、梅田手記によると被告人が当日自白したのは午後二時ころとされるから、右阿部ら証言により午前中の取調べがなかったものとすると、被告人は、わずか一時間余りという短時間で自白したことになる。しかしながら、重要犯人を前夜緊急逮捕してきて後記認定のとおり未だ逮捕状の請求もしていないのに、翌日午前中全く取調べをしなかったというのは直ちには首肯し難い面があり、前夜の取調べ終了時刻についての阿部らの供述状況にも徴すると、午前中から調べられたとの被告人の供述も直ちには排斥し難いところである。また、検察官の前記主張、すなわち、午後からの人の情に訴える説得的な取調べの結果被告人が自白を始めたもので、暴力による強制、誘導は全くなかったとの出張は、主として前記警察官阿部、菅原らの供述に依拠するものであるが、被告人は前記のようにこれを争っており、ここでは、正にその警察官証言の信用性を検討しているのであるから、右証言があるからといって直ちにこれをもって検察官主張の事実を認定し得るものでもない。

検察官は、羽賀の一〇月二日付員面と被告人の一〇月三日付第一回員面を種々比較し、犯行場所の下見については被告人供述が先行している点、バットを隠した青年会館については羽賀供述に出てこない点、ナイフ使用についての羽賀の指示内容は羽賀供述と全く食い違う点等、被告人の供述調書の内容自体からその任意性が明らかであると主張するけれども、そもそも検察官の指揮する三点は、主として供述の信用性に関連する問題であって、供述の任意性に強く関わる事項とは考え難いものである。すなわち、これらの事項が羽賀供述を前提として被告人を誘導したものではないとしても、暴行を加えられて自白を余儀なくされ、さらに詳細な供述を迫られていたという被告人が、自らの経験(青年会館については被告人は自宅から北見市街へ出る道の途中にあり、その所在を知っていた。)をもとにするなどして適当に創作して述べたり、あるいは警察官の認識していた事実(大山の死体頭部に刃物で刺されたものと思われる傷のあったことは前示のとおりであり、当然警察官はこれを知っている。)に基づき警察官に誘導されて述べる可能性も否定できないからである。なお、犯行現場での下見の際の打ち合わせについては、羽賀はその時点では明確に下見の点を述べておらず、被告人の供述の方が先行する形となっているけれども、羽賀の前記員面中には、羽賀が一〇月九日に死体を埋める穴を掘ったとの供述部分があり、被告人が羽賀の指示通りにこの穴に大山の死体を埋めてきた状況が窺われるところ、被告人に対し予め穴の位置を教えていたとの説明はないけれども、現場の状況からみて被告人が羽賀の言葉だけの説明で穴の所在位置を知っていたとは到底考えにくいことにも徴し、羽賀は、右供述当時、既に、その穴の所在場所を予め現場において被告人に教えていたこと、すなわち、犯行前に両名が穴の存在する犯行現場付近に立ち至っていたことを述べていたとの推測が成り立たないでもない。

次に検察官が、被告人の取調べ状況等に関する供述には虚偽、変遷が含まれると主張する点については、一部は既に説示するとおりであるが、検察官が指摘する羽賀との対質前の警察官とのやりとりの状況、警察官が被告人に写真を示したこと、自白直前の被告人の態度、人情論についての供述部分については、いずれも任意性の判断に影響を及ぼすような特に意味のある事項であるとは思われないものである。ただ、検察官の主張を離れて被告人の供述の変遷を考えるのであれば、原一審第二七回公判において、羽賀と対質するまでの間の取調べでは、警察官から殴られたことを述べるも、前記のような警棒を使用しての拷問等については全く触れていなかったのに、当審第四、五回各公判では、羽賀との対質の前にも前記のような種々の拷問を受けたとする点、梅田手記では、警察官から殴る、蹴るの大変な私的制裁を受けたと記載するだけで、前記のような警棒を使用した拷問等については具体的に記載しておらず、また、それを記載しなかった理由について一次再二審で尋ねられて「どうして書かなかったのか、当時の心境はちょっとわからない。」旨述べていたのに、当審第五回公判では、検察官に対する気兼ねから記載しなかった旨述べている点、原一審第二六回公判では、検察官に対しては任意に述べた旨供述していたのに、被告人の控訴趣意書では、市警、検事の強制、拷問、脅迫、誘導により述べた旨、被告人の上告趣意書においても、検察官の取調べでは拷問こそなかったが、徹底的に脅迫、誘導された旨供述している点等を指摘することができよう。

なお、検察官は、被告人が一〇月七日夜父母宛、妻宛に犯行を認める手紙を書いたことに関し、被告人が実際犯行を行っていないのであれば年とった父母や妊娠している妻宛に右のような手紙を書けないのではないかと問われて、被告人が「当時は、そこ迄深く考えませんでした。」と答えた(原一審第二八回公判)のは不合理であり、被告人がもし真犯人でなければ右のような手紙は書けないはずで、警察から憎まれないようにするため警察官から書け、書けと言われて書く気になったという被告人の供述の虚構性は明らかであると主張する。

この点については、まず、原一審公判における被告人(第二七、二八回各公判)及び証人阿部の各供述、阿部(第二回)、横道春雄(第一回)及び斉藤次夫(第一回)の検察官に対する各供述調書、阿部、横道共同作成の一〇月八日付「大山事件の参考報告」と題する書面及び斉藤作成の一〇月九日付領置調書二通によれば、被告人は、同月七日ころ阿部から渡された西洋紙と鉛筆で父母宛と妻宛の手紙各一通を作成し、これを翌八日阿部に渡したところ、阿部は北見市警察署仁頃巡査部長派出所勤務の巡査部長であった斉藤に対し、右手紙は被告人の事件に関係があるから名宛人に届けたあとその承認を得て領置するよう依頼したので、斉藤は、翌九日右手紙を被告人の父房吉と妻八重子に届け、両名に見せてからその承諾を得てこれを領置し、領置調書を作成して北見市警察署に送付したことが認められる。この点に関し、阿部は、被告人の方から手紙を出したいと言ってきたと供述する(原一審公判及び同人の検察官に対する前記供述調書)が、被告人は阿部から手紙を書くように言われたと供述している(原一審公判)ばかりでなく、手紙の内容が犯行を認めたことを前提にしていたのも、「手紙は北見市警の刑事の手を通じて家へいくと思った。」、「当分の間家へ帰れないと思った。」、「警察官から憎まれないようにと考えた。」、「刑事のいうことを全く信じていた。」(原一審公判)、「真実を書いて助けに来てくれと書いたら激しい拷問を加えられたと思う。」(被告人作成の「上審書」と題する書面)、「自白どおり書かないとまたやられるのではないかという畏怖心から書いた。」(被告人作成の上告趣意書)などと一応の理由を述べていること、被告人が真犯人でないとしても、当時被告人が服役を覚悟していたのであれば、真相を訴えたい身内の者に対しても犯行を認める内容の手紙を出さないとも限らないのであり、その場合、被告人が年老いた父母や妊娠中の妻の心中まで深く考えなかったというのが必ずしも不合理であるともいえないと思われること、郵便に投函することなく、警察官が自ら手紙を届けこれを直ちに領置するというのは、いかにも証拠を作出している感があって不自然さを免れないこと等を考えれば、被告人の手紙に関する供述が不自然で虚偽であるとも認め難く、被告人が右のような本件犯行を認めたことを前提にする内容の手紙を作成したからといって、直ちに当時の被告人が反省悔悟の極めて安定した心情のもとにあったことを示しているということはできない。

(三)  任意性肯定に消極的事由

そこで、次に、被告人の警察官に対する自白の任意性を肯定するに妨げとなる事由について検討する。

まず、第一には、梅田手記を挙げなければならない。拷問を受けたという前記被告人の供述と同根のものではあるけれども、右手記は、未だ起訴前の捜査段階において、しかも検察官の面前で詳細な自白をした二日後に、被告人自らが、検察官に対し、警察官の暴行によりやむなく身に覚えのない事実を自白したことを訴えるとともに調べ直しを懇請するものであり、その存在意義は小さくはないといわなければならない。

第二には、被告人が一〇月四日の検察官の弁解録取において自白を撤回している点である。阿部、菅原供述のように被告人が真に悔恨の情から自白し、同日朝の伊藤刑事課長の取調べにおいても同様に悔悟の情を有していたのなら(右伊藤力夫に対する同日付員面)、なぜ検察官の弁解録取の際に否認したのであろうか。検察官は、逆に、被告人が原一審第二八回公判供述のように「検察庁へ行く前も、警察で検事に否認してはいけないと言われました。しかし、私は、何を言っているんだ、俺は何もやっていない、と思っておりました。」という心境にあったのであれば、なぜ、裁判官の勾留質問の際やその後の検察官の取調べの際にも否認の態度を維持しなかったのかが問われなければならないと主張するけれども、被告人は、右否認のあと警察署に戻ってから遠藤富治巡査部長ら刑事達に取り囲まれて一時間余りもこんこんと、「否認すれば損だ、いかに逃れようとしても逃れられるものではない、検事に憎まれては損だ。」等と聞かされ、一度認めたら後で否認してはうまくないのかなあ等と考え、その日の遠藤作成の調書でも翌日の勾留質問でも認める供述をした旨供述しており(原一審第二七、二八回各公判)、現に被告人の右遠藤に対する同日付員面では、「本日検事局に行き調べを受けたが、その際何んだか、頭がボーとして大山を殺さない様な事を申し上げましたが、検事さんの前で『うそ』を言ってきた事は誠に申訳がないと考えております。」という供述部分もあることに徴すると、検察官に対する弁解録取で否認し、その後これを維持しなかったことが直ちに不合理であるともいえない。

第三には、小林事件で取り調べられた際警察官から拷問を受けたという相田賢治証言である。小林事件発生当時、留辺蘂営林署会計係長であった相田賢治(昭和二七年二月一日付で札幌営林局に転出)は、羽賀の供述により小林事件の共犯者として同年一〇月一二日ころ北見市警察署の警察官に逮捕され、被告人と同様に同署留置場に収容されていた者であるが、同人は原一審第二一回公判において、「逮捕後、一日目と二日目の取調べにおいて、七、八人の警察官に取り囲まれ、同人らから、嘘を言っていると責められ、(イ) 碁盤を持たせる、(ロ) 膝の間に警棒のような棒を入れてふくらはぎの部分を上下する、(ハ) 手拳で頭を殴る、(ニ) 平手で頬を殴る、(ホ) 鉛筆を指の間に挟み指先を締めるなどの暴行を受け、苦しさに耐えきれず嘘の自白をした。また、暴行により服のボタンがとれたり、ワイシャツのボタン穴が鉤裂になったり、ズボンのボタンがとれてしまった。検察庁では、否認し、警察の取調べが辛らつで苦しかったので述べた旨供述した。一二月三日に釈放された。拷問を受けたことで腹が立ったが、釈放後拷問を受けたことを問題にしなかったし、しようとは思わなかった。しかし、また私が問題にされたら困るから自分のために裂けたシャツやボタンのとれたズボンはそのままとってある。」などと供述しているところ、その供述内容が極めて具体的であり、特に不自然、不合理な点は窺えないこと、相田の橋本検察官に対する同年一一月一二日付供述調書では、相田は自分が警察官に述べた部分の多くは刑事にいろいろ追及され、質問攻めにあってでたらめを述べたものである旨供述していることにも照らし、右相田の警察で拷問を受けた旨の証言部分は信用することができると考えられるが、右供述内容と被告人のそれとを比較すると、暴行を受けたとされる時期が逮捕直後の二日間であること、大勢の刑事に取り囲まれて調べを受けたこと、警棒様のものを膝の間に入れて動かしたり、鉛筆を指の間に挟んで指を締めたり、頭や顔を手拳や平手で殴ったりするなどの暴行の態様が符合していることが認められる。この相田供述は、本件と一連の関連にある小林事件における同一警察署での被疑者の取扱い、取調べ方法に関するものであるだけに、これを無視することはできない。

第四には、同房者であった高金光珠の証言である。昭和二七年八月一六日から同年一〇月二八日までの間、北見市警察署の留置場に詐欺罪により勾留されていたことのある高金光珠は、原二審の公判において、「当時自分は雑役係として、入房者に食事を入れたり、房外の掃除を担当していた。夜遅く第五房で寝ているところを起こされ、別の房に移ったが、そのあと被告人が第五房に入った。同人は入房後、『助けてくれ。帰してくれ。俺は知らない。』と泣き叫んでおり、その前ころに調べ室から聞こえてきた悲鳴と同じ声であった。被告人か相田賢治かどちらか記憶にないが、警棒を両足の間に挟まれその上から踏みつけられたとか碁盤を持たされたとか言っていた。また、被告人は、指に鉛筆を挟まれたとも言っていた。調べ室から物のぶつかるような音、バタバタという音が聞こえたことがあった。被告人や相田のシャツや上衣のボタンがちぎれ、ボタンホールが裂けていたのを見た。被告人が入ってくるまでそのような騒ぎはなかった。また、被告人の顔が少しはれていたり、唇がむくれ上がっていたり、泣いていたように思う。それも被告人が入ってから二、三日位でその後静かになった。」と供述しているところ、同人の供述は、「羽賀が第一房に入っていたと思う。」、「自分は房の外に出て掃除や風呂当番等の雑役をしていたのでよく見ていた。」などと述べている点でにわかに措信できない部分もある(前記北見市警察署長作成の「梅田義光の調査回答について」と題する書面によれば、当時第一房に入っていたのは羽賀ではなく清水であること、房外で雑役に従事した者はいないことが窺われる。)が、しかし、その供述内容は具体的であるうえ、暴行の態様や相田のシャツや上衣のボタンがちぎれボタンホールが裂けたりしていたことなど、比較的細かい点で相田の前記各供述と符合しており、その供述全部の信用性を否定することはできないと思われる。

(四)  まとめ

以上の検討で明らかなように、被告人の警察官に対する自白の任意性については、主として拷問が加えられたかどうかの点をめぐって、警察官証言と被告人供述とが全く対立しているところ、警察官らの取調べ状況等についての被告人の供述には一部変遷があり、やや不自然な点もあるけれども、さほど重大なものではなく、警察官証言を採用すべき決定的な事由も存在しないこと、一方、被告人は捜査の初期の段階で自白を一旦撤回し、その最後の段階で検察官宛に手記を提出して拷問の存在を訴え、その後も一貫してこれを主張するなど、その供述は大きく揺れ動いており、この経過は、拷問により自白し、検察官の弁解録取に対し否認したが、その後再び自白を余儀なくされたという被告人の供述にそうものであること、被告人とほぼ同時期に同じ警察署で取調べを受けていた者が、警察官に暴行を受けており、当時被告人を取り調べていた警察官らが被疑者に対し暴行を加えるという事態が全くあり得ないものでもないと思われること、被告人の同房者が被告人の供述を裏付ける供述をしていること等の事情を総合勘案すれば、被告人が逮捕後間もない取調べにおいて、数人の警察官から暴行を加えられて自白を強要されたことが強く窺われるのであって、被告人の警察官に対する自白の任意性には疑いがあるというべきである。

三 検察官に対する自白の任意性

弁護人は、拷問、強制、脅迫、誘導によりなされた警察での自白後、一〇月一二日に網走刑務所に移監されるまで、被告人は、絶えず警察官から否認しないよう強要され続けていたのであり、検察官の取調べの際も、否認することにより再び拷問されるかもしれないとの恐怖心と一旦認めた以上それが全くの虚偽であってもどうしようもないとの絶望的な精神状態にあって、警察に対する自白と同様の内容を自白したものであるから、警察における自白の強要と検察官に対する自白との間には強い因果関係があり、検察官に対する自白もまた任意性を欠くと主張する。

そこで、検討すると、被告人は、橋本検察官の取調べにおいて自白した理由について、当審及び原一、二審公判並びに被告人作成の上告趣意書及び上申書等の中で大要次のように説明している。

すなわち、「一〇月四日坂本副検事に対し犯行を否認して北見市警察署にもどってくると遠藤ら数人の警察官に取り囲まれて、『とにかく否認せず検事さんに憎まれないようにすれば二年か三年で終わるんだ。決して悪いことは言わないから否認をするべきでない。二年や三年位軍隊に召集でもされたと思えば何でもないことだ。ところがお前のように否認して憎まれると五年だ六年だと長くなるぞ。このようなことになったら悪いことは言わないから絶対に否認するな。羽賀という生証人がいる以上お前が逆立ちして頑張っても逃げることはできない。法律は人間が作って人間が裁くものだから同情心を得られなければ損だ。』などと繰り返し言われたため、翌日の裁判官の勾留質問において犯行を認め、その後の橋本検事の取調べにおいても、警察で聞かれたことを思い出したり、検証等の際に見たことを述べたり、自分で適当に考えたり、あるいは検察官の誘導に従って警察に述べたのと同様の自白をした。」旨(原一審第二五、二七、二八回各公判)、「明けても暮れても警察で否認するなといった脅しの言葉を受けていた。」旨(原二審第五回公判)、「検察官作成の自白調書は、警察での拷問、強制、脅迫、誘導によってできた虚偽の自白調書に対し、再び検事の強制、脅迫、誘導という強要訊問を受けて辻褄の合う様に色々な事を付け加えて自供した。」、「副検事の訊問に対し否認したところ、警察では、再び多勢の刑事に取り巻かれ、荒々しい言葉使い及び態度を以って否認を拒否され、肉体に苦痛を感じる様な強制はなかったが、再び認めることを誘導、脅迫を以って強要された。またその後十日余り警察にいた間も全く同様であった。網走刑務所に移監される時にも、直接取調べを受けた阿部、横道の両刑事に送られて行ったが、途中前同様に否認するなと言われた。刑事の言うこと総てを真に受けるとともに、否認するのが恐くなり、嘘でも否認さえしなければいいんだと思い込んでいた。検察官作成の私の自供調書にしても、只々恐さの余りで述べた自供である。検事にも重ねて何かと威嚇されると同時に甚しい誘導があった。」旨(被告人作成の上告趣意書)、「四日の晩、ちょうど拷問されるような態様のもとに刑事に取り囲まれ、否認するなの一点張りで、相当強硬に、どの刑事が言うにしても、非常にもっともらしく言われるので、私自身も再度、それを認めるような心境になってしまい、何も知らない私は、あまりにももっともらしいことを言われたものですからまた遠藤刑事部長にその嘘の供述をする気になった。」、「一〇月四日の後も留置されている間、毎日のように刑事から生き証人の羽賀がいる以上、おまえがなんぼ頑張っても逃れることはできないから検事に否認して憎まれては損だ等と合間合間にいろいろ聞かされたり、教えられたりした。」旨(当審第三回公判)供述している。

しかし、被告人の右供述のうち、検察官の取調べ状況について、上告趣意書中で「再び検事の強制、脅迫という強要訊問を受けた。」、「検察官に対する自供調書は、只々恐さの余りで述べたもの。」、「検事にも何かと威嚇された。」という部分については、原一、二審及び当審公判において何ら供述していない事項であるうえ、被告人が原一審第二六回公判で検察官に対しては大体任意で述べたと供述していることにも徴すると、検察官からも直接、強制、脅迫を受け、恐ろしかったという右供述部分は到底信用することができないのであり、右上告趣意書の内容には誇張ないし虚偽が含まれていると考えられる。

次に、被告人の前記供述のうち、検察官の弁解録取のあとの警察官の取調べ状況について、「明けても暮れても警察では否認するなと脅しの言葉を受けた。」(原二審公判)、「否認して警察に戻ると、再び多勢の刑事に取り巻かれ、荒々しい言葉使い及び態度をもって否認を拒否され」、「否認するのが恐くなり」(上告趣意書)と述べる部分については、① 前記原一審供述中の警察官が述べたという文言自体は必ずしも脅迫、強要に当たるようなものではないと思われること、② 被告人は、原一審第二八回公判において、遠藤部長からこんこんと否認すれば損だと聞かされた旨、当審公判では、前記のように「もっともらしく言われるので」再び警察官に認めた旨供述するのであり、これらは、脅迫、強要されたがためやむなく再び自白したというよりも、説得されて自分でも否認するのは損だと考えたため再び自白したという状況により相応すると思われること、③ また、被告人は、前記のようなことを警察官から言われて、「検察官の前で否認して憎まれるのはうまくないと思った。」、「一度認めたら否認してはいけないのかなあと考えた。」、「強盗殺人は罪が重いとは思わなかった。警察できいて二、三年だというのでそうかなあと思った。」(原一審公判供述)、「強盗殺人でも死刑になるとかは考えなかった。安易な気持ちだった。」(原二審公判供述)、「法律的には勿論その他すべてについて全く知識のなかった当時の私は、刑事の言うことを嘘とも知らず全てを真に受けてしまった。」(被告人作成の上告趣意書)、「とにかく軍隊にでも行ったと思えばわずか位なんとかなると思った。」(被告人作成の昭和三二年一〇月二四日付上告上申書)、「二、三年だったら服役もやむを得ないという気持ちにまでなっていた。」(当審公判供述)などとも述べているのであって、これらの供述内容も、前記のように脅迫、強要されたというよりは説得されたという状況にそうものであること、④ 被告人が、否認の手記にも、また原一、二審以来当審においても、検察官に対し自白しなければ再び警察官に暴行される心配があったとは述べていないこと(被告人が、もしそのような心配を抱いていたため検察官に対し真実を述べることができなかったというのなら、その思いは捜査段階の手記や確定審公判供述の中に当然現われるはずであると思われる。)等に徴すると、検察官の弁解録取に対し否認したあと被告人に対し警察官から脅迫が加えられたとは認め難く、むしろ被告人は、警察官から否認すると損であると相当強く説得されたため、検察官に対し否認しては損であると自ら判断した結果、自白を維持し、検察官に迎合的な供述をしたことが強く窺われるのである。

また、関係証拠によると、前記のように被告人が一〇月二日の夜と翌三日警察官から暴行を受けたことが強く窺われるところ、同月四日以降被告人が捜査官から暴行を受けたことはないから、結局被告人が警察官から暴行を受けたことが強く窺われる期間は逮捕当初の一日半位の間で、検察官に対する自白とは約二週間の間隔があり、また、網走刑務所長作成の昭和六〇年八月一九日付「捜査関係事項の照会について(回答)」と題する書面によれば、被告人は、同月一二日北見市警察署から網走刑務所へ移監されたが、その際被告人は「ホットした感じ」を抱いており(当審第五回公判)、検察官の取調べの際は、警察の直接の影響下から抜け出ていること、被告人は、前記のように一〇月二一日に否認の手記を作成、提出しているところ、被告人は、同月一九日の橋本検察官の取調べの終了時に同検察官から「法廷では嘘はとおらないぞ。」と言われたのでその晩考え、本当のことを述べて否認しようと思った旨述べている(原一審公判供述、被告人作成の上告趣意書)が、そもそも右のような発言は、被告人の言う警察での強要に起因する心理的な強制力、影響力を解消させる性質のものとは考え難いから、被告人が右発言を契機に否認に転じた時まで警察における自白強要の強制力、影響力が被告人に及んでいたとも考えにくいこと、当時網走刑務所看守部長であった桐山種三郎は、一〇月一九日の橋本検察官の取調べにあたり被告人を釧路地方検察庁網走支部まで押送した者であるが、同人の同月二二日付検面によると、被告人は、橋本検察官の取調べ後、右桐山に対し、「自分が検事さんに申し上げた通りやった事は間違いないのだ。失敗してしまった。」等と述べるだけで、検察官の取調べの際自己の自由意思が何らかの制約を受けていたことを窺わせるような特段の言動を示していないこと、前記相田賢治の原一審公判供述及び同人の検察官に対する供述調書によれば、同人は、前記のとおり、小林事件の共犯者として被告人とほぼ同じころ北見市警察署の警察官に逮捕された者であるが、被告人のいう態様とほぼ同じ暴行を警察官から加えられたことが認められるにもかかわらず、同じ橋本検察官の取調べにおいて、自白を翻し得たのであり、同検察官の相田に対する取調べでは、警察の暴行による影響力が排除されていたと考えられること、被告人の橋本検察官に対する自白の内容には、後記のように、被告人の警察官に対する自白の内容とも、また羽賀の供述内容とも異なる部分がみられるのであって、しかも、被告人自身、殴打の方法やバットの隠し場所等は自己の想像で述べた旨(原一審公判供述、被告人作成の昭和三一年一〇月二五日付上申書)を認めている点を合わせ考えると、被告人の橋本検察官に対する自白の全てが同検察官の誘導によるものとは認められないし、また、誘導した部分があったとしても、そのことをもって直ちに自白の任意性に疑いがあるとすることはできないこと等の事情を認めることができる。

以上を総合、勘案すると、前記のように被告人に対して一〇月二、三日に警察官が暴行を加えて自白を強要した疑いが強いところ、弁護人主張のように、右強要と被告人の検察官に対する自白との間には因果関係があるとは認められないから、右検察官に対する自白についてはこれが任意にされたものではない疑いは存在しないと認められる(なお、検察官の検証に先立って作成された被告人の一〇月八日付の検面があるけれども、これは、被告人が北見市警察署に留置されていて、警察官の影響下にあった状態で作成されたと考えられるから、その任意性には疑いがあるというべきである。)。

四 違法な手続と被告人の検察官に対する供述調書の証拠能力

1  緊急逮捕の違法性

弁護人は、被告人の緊急逮捕は、(一) 裁判官の逮捕状を求めることができないほどの緊急性はなかった点、(二) 被告人方での逮捕の際、被疑事実はもち論逮捕することさえも被告人に告げなかった点、(三) 逮捕後直ちに逮捕状の請求手続をしなかった点で違法であり、違法拘禁中の被告人の検察官に対する自白には証拠能力がないと主張するので、順次検討する。

(一)  逮捕の緊急性

刑事訴訟法二一〇条一項にいう「急速を要し、裁判官の逮捕状を求めることができないとき」とは、通常の手続(同法一九九条一項、二項)に従って逮捕状の発布を受ける時間的余裕がない場合、すなわち、その場で逮捕状なしででも逮捕しなければ被疑者が逃走してその後の身柄確保が著しく困難になるか、あるいは、罪証隠滅のおそれが顕著である場合をいうと解される。ところで、本件の捜査経過をみると、前述のとおり、一〇月一日羽賀の自供から大山の死体が発見されたことにより、本件も小林事件と同様強盗殺人、死体遺棄事件であることが判明したが、羽賀は、本件について当初自己の単独犯行であると供述していたものの、翌二日になって自分は直接手を下していないと右供述を翻し、同日午後七時三〇分ころになって、共犯者は被告人で、被告人が大山殺害の実行行為者であると供述するに至った。一方、この時既に大山殺害から二年が経過し、羽賀の逮捕からは二週間が経過して新聞報道等により羽賀の逮捕が周知の事実となってはいたが、一日に大山の死体が発見された事実が翌二日の北海日日新聞に掲載され(弁護人作成の同新聞写)、本件が強盗殺人、死体遺棄事件であることが公然たる事実となり、大山の死体発見により本件の捜査が飛躍的な進展をみることは本件の共犯者でなくとも容易に予想できることであるから、本件の共犯者とされる被告人が大山の死体発見の事実を報ずる新聞報道等に接して逃走するおそれがあると捜査官が判断した(被告人の緊急逮捕手続書中の「急速を要し裁判官の逮捕状を求めることができなかった理由」欄には逃走のおそれがあるため」との記載がある。)ことは、一応理解できるところであり、被告人の緊急逮捕が緊急性の要件を次くものということはできない。

(二)  逮捕すること及び被疑事実の告知

次に、逮捕すること及び被疑事実を告知したかどうかについては、被告人の緊急逮捕手続書中の「逮捕時の状況」欄に、「被疑者は就寝中であり、被疑事実は全く認めなかった。」と記載されていることや被告人の原一審第二八回公判供述では、手錠をはめられた際被告人が抗議すると、刑事が「規則だから仕方がない。」と言ったとされていること等から合理的に判断すると、被告人方での逮捕の際、逮捕する旨告げられたことはもち論、被疑事実の要旨が被告人に告知されたことも推認することができる。仮に、これらの告知等が若干遅延したことがあったとしても、その違法がその後の勾留中に得られた被告人の検察官に対する自白調書の証拠能力に影響を及ぼすものとは考えられない。

(三)  逮捕状請求の遅延

前記認定のとおり、被告人は、一〇月二日午後八時三〇分ころ自宅で北見市警察署警察官に逮捕され、同月五日同署に勾留されたが、勾留中の一〇月一七、一九日に被告人の検察官に対する自白調書が作成されたものであるところ、関係証拠によると、被告人の緊急逮捕の逮捕状が北見簡易裁判所裁判官宛に請求されたのは逮捕翌日の三日午後一時三〇分であったこと、同日同裁判所裁判官から逮捕状が発布されたこと、翌四日午前一一時に事件が釧路地方検察庁北見支部検察官に送致となり、翌五日午前九時に検察官から北見簡易裁判所裁判官に勾留請求がなされ、同日同裁判所裁判官が勾留状を発布し、勾留状は同日執行されたことが明らかである。

ところで、刑事訴訟法二一〇条一項によれば、緊急逮捕をした場合の逮捕状の請求は逮捕後「直ちに」なされなければならないが、被告人の場合、被告人が逮捕されてから逮捕状の請求手続がなされるまでにほぼ一七時間が経過しているのである。右逮捕状の請求者である前記伊藤力夫は、当審において証人として尋問された際、逮捕状の請求手続が通常の場合よりも遅れた理由として、被告人を逮捕した一〇月二日の真夜中近くに北見市内で火災が発生したため、被告人の取調べを中止して当直員以外は全員が火災現場に急行し、翌三日の午前中も同火災現場で原因調査や実況見分等の捜査活動に従事せざるを得なかったこと、また右火災は連続的な放火事件で北見市警察署としては、本件と同様に極めて重大な事件として対応を迫られていたものであることを挙げている。確かに、前述のように、被告人が逮捕された日の真夜中近くに北見市内で火災が発生し、これが連続的な放火事件の疑いがもたれていたことから、北見市警察署の署員がこの捜査に忙殺されていたであろうことは想像に難くない。

もとより、直ちに逮捕状の請求手続がなされたかどうかは、単に逮捕したときから逮捕状の請求が裁判官になされるまでの所要時間の長短のみによって判断すべきではなく、被疑者の警察署への引致、逮捕手続書等の書類の作成、疎明資料の調整、書類の決裁等の警察内部の手続に要する時間及び事案の複雑性、被疑者の数、警察署から裁判所までの距離、交通機関の事情等をも考慮して合理的に判断されるべきである。これを本件についてみると、逮捕から逮捕状請求手続までに一七時間を要したというのは、いかに他に重大事件が発生して北見市警察署の署員がこれに忙殺されていたからといっても、それは、逮捕状請求手続のために必要とされる客観的に妥当な範囲の時間内における請求とは到底認められず、検察官の主張するような逮捕状請求までに要する時間について比較的緩やかに解釈、運用されていた本件当時の時代背景を考慮に入れてもなお、本件逮捕状の請求が被告人の逮捕後「直ちに」なされたとはいえないと考えられる。したがって、この点において本件緊急逮捕は違法たるを免れない。そして、緊急逮捕手続は、事後的に直ちに逮捕状の発布があることを要件として、かろうじてその合憲性を肯定し得るものであると考えられることに徴すると、本件の違法は甚だ重大なものであって、これを前提とする勾留請求は許されず、本件勾留請求は却下されるべきものであったと考えられる。したがって被告人に対する本件逮捕、勾留は、現時点で事後的に判断すると本来違法なものであったといわざるを得ない。

しかしながら、被疑者の勾留は、司法的抑制の見地から、捜査官憲とは別の立場にある裁判官が、逮捕手続における違法の有無を審査するとともに、被疑者の身柄拘束を継続する要件の有無を審査する新たな別個の司法的判断であり、たとえその判断が誤りであったとしても、準抗告で是正されないかぎり勾留状自体は有効とされるものであること、本件においては、前記のように、それ自体有効な勾留状が発布され、それに基づき執行もなされているところ、勾留請求を受けた裁判官が本件勾留請求を却下しなかった理由としては、前記のような逮捕状請求の遅延という事態に気付かなかったこと、これに気付いていたが違法とまではいえないと考えたこと、逮捕手続に違法があると考えたが、これが勾留請求が許されないほどのものではない、あるいは勾留請求を却下したとしても再逮捕が可能であるから被疑者の全体の身柄拘束期間を考慮すれば勾留請求却下がかえって被疑者に不利益になると考えたこと等が想定できるのであるが、検察官としては、逮捕の違法を理由に勾留請求が却下された場合には再逮捕等の方法を採ることも考えられるところ、裁判官の司法的判断である勾留の裁判がなされた以上、これに従い以後の手続をすすめたものであるから、これが事後的に違法なものとなり、その勾留中の自白調書であるとしてその証拠能力が否定される事態に至るとすれば、著しく手続の安定性が害されるものであること、本件においては、逮捕状の請求にあたって、請求者たる警察官が、被告人の逮捕時刻を殊更遅らせて請求までの時間を短くするなどの不当な手段を用いて捕捕状の発布を得たものではなく、また、勾留の請求者たる検察官が、被告人の緊急逮捕の違法性の判断を誤らせるような虚偽の資料を提出したり、あるいは、右判断に資するべき資料を隠秘するなどして勾留裁判官の判断を誤らせて本件勾留状の発布を得たものでもないこと、被疑者の勾留は、被疑者の逃亡及び罪証隠滅の防止の目的のための制度であり、被疑者の取調べを直接の目的とするものではないこと等の事情を考慮すれば、本件のような違法な逮捕手続を将来において抑制するためには勾留請求を却下することにより臨むのが相当であり、また原則としてそれでこと足りると考えられるうえ、本件における右捜査の違法と被告人の検察官に対する自白との間には司法的判断である勾留の裁判が介在していて両者は直接結び付いておらず、被告人の検察官に対する自白が獲得されるまでの一連の手続を全体としてみると、その過程に令状主義、ひいては適正手続の保障の精神を没却するほどの重大な違法があるとも認め難いから、本件において、違法な逮逮、勾留中に獲得された自白であることを理由に、その証拠能力を否定するのは正当ではないと考える。

2  黙秘権の不告知

弁護人は、被告人は逮捕後取調べが開始される前に警察官から黙秘権の告知をされなかったから、その自白に証拠能力がないと主張するけれども、当審における伊藤力夫の証言及び一〇月二日付弁解録取書によれば、取調べに際し被告人に黙秘権を告げていることが認められるから(その当日は被告人は否認を通している。)、警察官の取調べの際に黙秘権の告知がなされなかったことを理由に被告人の検察官に対する自白に証拠能力がないということはできない。

3  弁護人選任権の侵害

弁護人は、被告人に対しては取調べの前に弁護人選任権の告知がされていない上、被告人は、一旦自白した後に北見市警察署の刑事室にたまたま立ち寄った中村義夫弁護士の姿を認めて警察官に同弁護士との面会を申し出たところ、これを拒否されたものであり、これらと被告人の自白との間には重大な因果関係があるから、弁護人選任権を侵害された状態における被告人の自白には証拠能力がないと主張するので検討する。

まず、被告人の緊急逮捕手続書及び逮捕後の弁解録取書によれば、被告人が引致されたのは逮捕当日の同月二日午後九時三〇分であり、その約三〇分後の午後一〇時ころ弁解の機会を与えられ、その際、前記伊藤力夫に対し犯行を否認した上、「弁護人は頼んでもよいと思います。」と供述して署名指印したことが認められ、また、検察官送致後の弁解録取書によれば、被告人は、同月四日午後零時四〇分、釧路地方検察庁北見支部において、坂本検察官に対し右同様犯行を否認した上、「弁護人はいりません。」と供述して署名指印したことが認められ、加えて、坂本検察官に対しては弁護人をつけるまでもないという気持ちから「弁護士さんなんかいりません。」と述べたことは被告人自身認めているところである(当審第四回公判供述)から、被告人に対し、引致後及び送致後に弁護人選任権が告知されていることは明らかである。引致後には弁護人を頼めることを告げられなかったという被告人の供述部分(原一審第七回公判、当審第四回公判)はそのまま措信し難い。また被告人は、自白後警察で中村弁護士との面会を拒否された旨を供述するけれども(当審第三、五回各公判)、他にこれを裏付ける事実もなく、右弁護人選任権の告知状況に関する被告人の供述内容等に照らし、右供述を直ちにそのまま信用することはできない(仮に、警察において、これに類するような事実があったとしても、本件においては、それが果たしてどの程度の要求であったのか、すなわち、弁護人選任権の侵害といえるような事態があったのかも明確でない上、右の点とその後に採取された被告人の検察官に対する自白調書との間に弁護人主張のような因果関係があるとも認められない。)。したがって、所論の点をもって被告人の検察官に対する自白調書に証拠能力がないということもできない。

五 結論

以上のとおり、被告人が北見市警察署に留置されている間の自白には任意性に疑いがあるが、被告人の橋本検察官に対する自白については、任意性を肯認することができ、かつ、その供述調書に証拠能力を認めることができる。

第五被告人の自白の信用性について

一 当事者の主張

被告人の検察官に対する自白調書(昭和二五年一〇月一七日付、同月一九日付)の信用性について、検察官は、(1) 逮捕翌日に被告人が最初に自白した際の状況等にかんがみると、被告人が自白した経緯は自然であること、(2) 犯行の中枢的事実については自白に一貫性があること、(3) 供述内容が具体的かつ迫真性に富むもので、実体験者でなければ供述し得ない事実が多数含まれていること、(4) 被告人の自白は大山の遺体についての客観的証拠により裏付けられていること等を根拠として、その信用性を肯定することができると主張するのに対し、弁護人は、被告人の自白には、(1) バットによる頭部打撃、ナイフによる頭部刺突等犯行の中枢部分である加害行為について、客観的事実に反する部分があるほか、他にも客観的事実と食い違う部分があること、(2) 他の証拠から明白な事実であって、真犯人なら容易に説明でき、言及するのが当然と思われる事実について、説明・言及がないこと、(3) 内容それ自体が不自然、不合理で常識上到底首肯し難い部分があること、(4) 犯行の全過程において納得し難い供述の変遷があること、(5) 臨場感の伴う供述部分があるとはいえないこと、(6) 異常なほど羽賀供述と食い違っていること等を根拠に、その信用性は全くないと主張する。

二 当裁判所の判断

右のように、被告人の自白の信用性についての当事者双方の主張は多岐にわたり、詳細なものであるが、以下、自白の信用性の判断基準として有益な事項について、判断事項が客観的で明確なものを中心として、本件において重要と考えられる順、すなわち、(1) 秘密の暴露の有無、(2) 客観的事実との整合性、(3) 供述内容の不自然、不合理性の有無、(4) 供述内容の変遷・一貫性、(5) 共犯者(羽賀)供述との食い違いの有無、(6) 実体験者供述としての具体性・迫真性・臨場感等の具有性、(7) 供述経緯の自然性の順序に従い、判断することとする(なお、被告人の自白調書は、前記被告人の一〇月一七日付第二回、一九日付第三回各検面が中心であるが、それ以外にも、前記第四、一に記載したような自白供述がある。以下においては、右第二、三回各検面に同月一六日付第一回検面を加え、これらについて「梅田自白」ということがある。)。

1  秘密の暴露

自白中に、犯人でなければ知り得ないような事実について供述があり、それがその後の捜査で客観的真実であると確認された場合、それはいわゆる秘密の暴露のある自白であり、犯人であることを自認する右自白の信用性は非常に高いといい得る。その意味で被告人の自白に右秘密の暴露があるかどうかは、先ず検討されるべき重要事項であろう。

しかし、本件証拠を検討するも、右のような秘密の暴露はないし、検察官も秘密の暴露があるとは主張していない。したがって、本件被告人の自白の信用性を判断するに際し、秘密の暴露が含まれていない点は、全体として相当消極的に作用する要素となるものである。

2  客観的事実との整合性

(一)  自白を裹付ける客観的証拠

(1) 序論

検察官は、① バットによる殴打、② ナイフによる頭部刺突、③麻縄による絞頸及び、④死体の埋没という本件犯行の実行行為に関する被告人の自白は、大山の死体埋没状況、死体の状況等についての客観的証拠により明白に裏付けられ、これと完全に整合するので、信用することができる旨主張する。これに対し、弁護人は、①ないし④の点に関する梅田自白は、客観的事実と整合しない供述、羽賀の供述や大山の死体の発掘によって既に捜査官の認識していた事実に関する供述、又は特段の意義のない当然の供述から成り立っており、信用性の高いものではない旨主張する。

そこで検討するに、①のバットによる殴打の点は、後記のように、大山の死体の頭部にバットによる一回の殴打によって生成可能な陥没骨折が存在したことは明らかであるから、仮に①の点に関する梅田自白を「バットによる一回の殴打」といったように単純化してとらえるならば、確かに客観的裏付証拠があるといえよう。しかし、大山の死体の頭部に陥没骨折のあること自体は、被告人の逮捕当時から捜査官の十分認識していた事実である上、既に羽賀の一〇月二日付員面において、被告人に対しバットで大山の後頭部を殴るように指示したという供述が現われているのであるから、右のように単純化した被告人の供述にはあまり意味がないというべきである。したがって、より詳細に被告人の供述を検討すべきであるが、次項以下に詳述するように、梅田自白における打撃態様によって大山の頭部にあった複雑陥没骨折を生ぜしめることは極めて困難であると解されるので、結局①の点に関する梅田自白に、客観的裏付証拠があると見るのは、相当ではないというべきである。②のナイフによる頭部刺突の点も、この点に関する梅田自白は、事実と整合しない可能性が高いのであるから、やはり十分な客観的裏付証拠があるということはできない。

よって、本項においては、③及び④の点に関する検討と梅田自白を裏付ける客観的証拠の存在状況全般に関する検討とを行うことにする。

(2) 麻縄による絞頸

検察官は、大山の死体の頸部に巻き付けられていた麻の細引は、絞頸縄の長さやその結び目に関する梅田自白と符合しており、しかも、細引の両端の結び目の作り方には、被告人の手によるものであることが分かる個性が現れている上、羽賀の発想から出発するとはいえ、細引の長さや結び目の数の点においても、被告人の判断に基づいて被告人の手で作られたことが示されているから、被告人が本件絞頸の実行行為者であることは明らかである旨主張する。

そこで検討するに、絞頸縄に関する梅田自白は、「その自転車の荷台には、 長さ四、五尺位で、太さ二、三分位の古い麻縄が巻き付けてありました。……中略……そして、荷台から解いた麻縄を手に持って羽賀から言われたとおりのコブを作りました。両端のコブは、両端を輪にして、その輪の中の末端の根本の方を通し、縄の最末端をその輪から抜け出させないで締めました。ですから、その最末端を引張れば輪が解けるようになっていたのです。麻縄の両端はこの様な方法で結び目をつくりました。そして、その中間に一回宛の結び目を三個造った様に記憶します。」というものであり、被告人は、右のように細工した縄を大山の頸部に巻き付けて、二巻きして締め、縄の巻き付いたままの死体を埋没した旨供述している(第三回検面)。また、被告人の一〇月三日付第一回員面、当審証人小野寺松四郎の供述及び被告人羽賀竹男外一名に対する強盗殺人死体遺棄被告事件に関する写真集(以下「写真集」という)No.15の写真によれば、右のような自白内容は、既に昭和二七年一〇月三日の取調べの段階においても供述されていたものと解される。

他方、司法警察員伊藤力夫作成の一〇月一日付実況見分調書、三宅鑑定書、渡辺鑑定書及び二次再一審三宅供述によれば、発掘された大山の死体の頸部には麻の細引が巻き付けられたままになっており、その細引は、死体解剖時にこれを外した際、四本に切れてしまったが、これを復元すれば、長さは約一四七センチメートル又はそれよりも若干短い程度、太さは新品時における推定値で約〇・三センチメートルであって、その一端には、長さ約八センチメートルの輪を伴う結び目があり、他端には端から約八センチメートル離れたところに輪を伴わない結び目があり、右の二つの結び目の間に、さらに輪を伴わない四個の結び目があった事実が窺われる。

そうすると、絞頸縄に関する梅田自白は、頸部に巻き付けられたままの麻の細引が発見されたことと長さが約五尺弱あって両端及び中間部に結び目が作られていたという点において、客観的事実と合致しており、結び目の数についても概ね合致していると評価してよいであろう。また、その両端の結び方に関する梅田自白は、必ずしも判然としたものではないが、写真集No.15の写真をも参考とした上、渡辺鑑定書中の輪を伴う結び目についての図示及び前記実況見分調書添付の写真第一七に示されている本件細引の両端の結び方と対照すると、梅田自白による縄の両端の結び方は、死体の頸部に巻き付いていた細引の両端の形状と矛盾しない可能性が高いものといえる。したがって、以上の限度では、絞頸縄に関する梅田自白は、客観的証拠によって認められる事実と整合しているといえよう。さらに、羽賀の昭和二七年一〇月三日以前に作成された供述調書に絞頸縄の形状等に関する供述がないことや、羽賀の原一審第九回公判供述によれば、羽賀は、被告人に対し、縄を約二尺五寸位に切って、その両端を結んで玉を作り、縄の中心にも三寸位離して結び玉を二つ作るように指示したことになっていること等と対比すると、絞頸縄に関する梅田自白は、羽賀供述に対して独自性を有し、かつ、梅田自白の方がより客観的事実に近いということができる。このように見てくると、絞頸縄に関する梅田自白と客観的事実とが適合していることには、一応、ある程度の意義が認められ、当該自白部分には、客観的な裏付証拠があるといってよいであろう。

しかし他方、前掲の各証拠のほか遠藤富治、阿部正一、高須雅男の各第一回検面を総合すると、被告人の逮捕当時、捜査官は大山の死体の頸部に結び目のある縄が巻き付けられていたことを認識していたものと認められ、しかも、その長さや結び目の数、結び方等についても概ね了知していたことが窺われる。また、梅田自白に示されている縄の両端の結び方は、必然的にそのような結び方になるとか、あるいは最も一般的な結び方であるというわけではないものの、縄の両端に結び目を作る際に通常考え得る幾つかの結び方の中の一つというに過ぎず、必ずしも特異性のあるものともいえない。そうすると、絞頸縄に関する梅田自白は、警察官の誘導又は示唆に基づく被告人自身の想像によっても作り出され得るものと解される。しかも、後述するように、縄の巻き数に関する梅田自白の内容が、事実ではなく、捜査官の誤った認識の方と一致していることなどからすれば、本項で問題にしているような点についても警察官による誘導ないし示唆のあった可能性がかなり考えられるところである。

以上によれば、絞頸に関する梅田自白には客観的な裏付証拠があり、かつ、この点は自白の信用性を検討する上で積極の考慮要素になるものと解されるが、しかし、検察官の主張するように、当該証拠に被告人の個性が現れているとか、当該証拠をもって直ちに被告人を本件の麻の細引の作成者と断定し得るということはできず、梅田自白全体の信用性を検討する上では、それほど大きく評価することはできないというべきである。

(3) 死体の埋没

検察官は、大山の死体の発掘時の状況等は、梅田自白と完全に一致しており、自白を客観的に裏付けるものである旨主張する。

確かに司法警察員伊藤力夫作成の一〇月一日付実況見分調書により認められる大山の死体発掘場所や死体が全裸であった事実は、梅田自白と一致している。また、死体の姿勢が、頭部を沢の上手(仁頃街道寄り、南側)に向け、足部を沢の下手(北側)に向け、仰向けに寝かせられた状態であった事実も右実況見分調書により認められるところ、これが岡部副検事作成の同月八日付検証調書中の「死体は頭を穴の南側の底につけ、両足を北方に伸して仰臥した」旨の被告人の指示説明及び被告人の同月四日付第三回員面での供述(添付図面)に合致しているといえよう。

しかし、死体の埋没所や死体が全裸であったことは、被告人の逮捕当時既に捜査官の十分了知していた基礎的な事実であり、死体の姿勢も、捜査官が了知というよりも当時注目していた事実のはずであり、かつ、これらの事実は、自白調書を作成する上で当然の言及させざるを得ない事項と解される。しかも、大山の死体をどのようにして前記のような姿勢で穴に横たえたかという点に関する梅田自白は、後にも触れるように具体性を欠き、若干不自然な供述となっている。そうすると、先に検討したとおり、警察官の取調べにおいて強制、誘導のあった疑いが強い本件においては、このような性格の事実と被告人の供述との合致は、自白の信用性を検討する上で、余り意味を有しないものといわざるを得ないであろう。

そうだとすれば、死体の埋没場所、全裸であったこと及び死体の姿勢に関する梅田自白には、客観的裏付証拠があるが、この点は、自白の信用性を特段高からしめるものではないと考えられる。

(4) 自白を客観的に裏付ける証拠の欠如

本件は、極めて重大な犯罪であり、殊に、起訴前から被告人が犯行を否認することが予想される状況であったのであるから、警察官及び検察官としては、被告人と本件犯行との結び付きを裏付ける客観的証拠ないし状況証拠を収集するため最大限の捜査努力を尽くすべきであったことは、いうまでもないところである。そして、実際にも、当審における証拠を見れば、被告人の逮捕後も警察官及び検察官が鋭意裏付証拠の収集に努め、被告人の起訴後もこれが続いていたことが如実に示されている。

しかるに、本件においては、梅田自白を客観的に裏付ける証拠としては、前記(二)及び(三)に挙げた大山の死体に麻の細引が巻き付いていたこと、その細引の形状、死体の発見場所、死体が全裸であったこと及び死体の姿勢のほか、当時被告人方に古い自転車があり、その荷台に細引が付いていたこと、同人方にかつて七徳ナイフがあったこと等の程度しか存在しない。しかも、以上の(二)、(三)の点は、細引の形状に関する点を除けば、いずれも本件犯行の極めて基礎的な部分に関するものばかりである。そして、本件においては、もう一方の共同正犯とされる羽賀の自白の方が被告人の自白に先行しており、被告人の自白前に被害者の死体も発掘されているという特殊事情がある上、警察官の取調べにおいて強制、誘導のあった疑いが強いことからすると、前記(二)及び(三)で述べたとおり、右に挙げた程度の裏付証拠では、自白の信用性を検討する上で、それほど大きな積極的意味を与えることはできない。被告人方の自転車に付いていたという細引と本件犯行に使用された細引とが同一のものであったとの証拠もない。したがって、全体として見て、本件は自白を客観的に裏付ける証拠に乏しい事案であるといわざるを得ない。また被告人方に七徳ナイフや自転車等、梅田自白に現れてくる多数の物品が存在していたことにつき色々な証拠があるが、これらは、被告人と本件犯行とを直接結び付ける意味は有しないので、被告人が犯行を否認している本件においては、自白を裏付ける客観的証拠としては余り意味を持たず、これらを取り上げるのは相当でない。

他方、先に挙げた以外には被告人と本件犯行とを結び付ける裏付証拠が期待できないのかという角度から、本件を見てみると、例えば、① 大山の頭部の刺突に用い、犯行現場ないし埋没現場付近に投棄したとされる七徳ナイフの発見、② 被告人が犯行時に着用していた衣類からの血痕の発見、また、客観的証拠とまでは言えないが、重要な状況証拠として、③ 昭和二五年九月下旬から一〇月上旬にかけて、被告人と羽賀又は大山とが会っていることを目撃した者の発見、④ 同年九月二〇日ころ、同年一〇月六日ころ、同月八日ころ及び同月一〇日ころに被告人が北見市街へ外出したことを目撃した者の発見、⑤ 被告人が同年九月下旬から一〇月上旬にかけて何度も被告人方の農作業から離脱していたことを記憶している者の発見、⑥ 同年一〇月一〇日以降、あるいは昭和二七年六月二三日及び同年九月一七日の羽賀の逮捕が報道されてから以降の被告人の言動、態度等の異常に気付いた者の発見等が考えられよう。

そこで、右のような証拠の発見の可能性について検討してみると、まず、①の七徳ナイフの点は、梅田自白によれば、その刃は長さ二寸五分、幅五分位、柄は長さ三寸、幅一寸位であり、いずれも金属性であるとされており、また、梅田自白に示されている投棄場所は、関係証拠によれば、山径から沢底に至る地形であって流水の流れる河床自体ではないが、人が普段歩き回るような場所でもないものと推測される。このような点からすれば、被告人の自白はナイフの投棄後約二年を経過した後のものであり、付近の崖が若干崩落している状況がないではないものの、ナイフが完全に腐食して滅失してしまったり、雨水等によって流れ去ってしまったり、あるいは通行人等に発見されて持ち去られてしまうおそれはそれほど大きくないものと解されよう。そうすると、ナイフの投棄場所に関する被告人の供述は、後に触れるとおり変遷を重ねているが、いずれにせよ比較的狭い範囲に限られているので、梅田自白が真実であるならば、十分な捜索を行えば、ナイフが発見される可能性も、ある程度あったのではないかと考えられる。

また、②の血痕の点についても、梅田自白を見ると、被告人は、捜査段階において、犯行時に着用していた衣類を処分してしまったとは供述しておらず、むしろ当該衣類の発見と特定につき捜査官に対して協力的であったかのような事情が窺われる。また、司法巡査阿部正一外一名作成の一〇月四日付「証拠品の領置について」と題する書面、梅田房吉作成の同日付提出書、司法巡査阿部正一作成の同日付領置調書、巡査小野寺松四郎作成の一二月六日付「証拠品の鑑定について」と題する書面、司法警察員遠藤富治作成の昭和二八年三月一三日付領置調書、証人梅田房吉の原一審第一七回公判供述、被告人の第三回検面によれば、捜査官は、被告人の逮捕後や起訴後に、被告人が犯行時に着用していた衣類を見付けるために、被告人方を慎重に捜索したり、家人にその提出を求めるなどし、現に複数の衣類やほどき布を押収又は領置し、血痕の検出を試みていた事実が認められる。そうすると、もし、被告人が捜査段階において、真実を述べていたのだとすれば、右の血痕検出の試み等が犯行後約二年を経過してから開始されているにしても、被告人が本件犯行当時に着用していた衣類に血痕が付着していることを証明する証拠を発見できる可能性は相当にあったものといえよう。

また、③ないし⑤の目撃者の点についても、日時の経過のほか、被告人の交友関係がそれほど広くなく(巡査部長斉藤次夫作成の一〇月四日付「事実調査方について」と題する書面)、また、被告人が人口のちゅう密な地域で居住、就労していたわけではないことを勘案したとしても、当時の仁頃や北見の地域性からすれば、現在よりは目撃者の発見は容易なはずであるし、特に④及び⑤の点については、被告人の通常の生活状況からすると、被告人が梅田自白のようにかなり頻繁に農作業から離脱し北見市街へ出かけるというのは、かなり特異な出来事のはずであり、近隣の目を引いたり、家族からも注目された可能性が高いであろうから、やはり何らかの状況証拠の発見が期待されるところであろう(家族らは、被告人から手紙を受け取るなど、被告人が自白していることを知っており、被告人の当時の行動状況につきことさら虚偽を述べるような事情は窺い難い。)。また、関係証拠によれば、当時の警察官、検察員もそのような証拠を得ようと試みていたことは明らかである。

さらに、⑥の態度等の異常についても、被告人が真実本件のような重大犯罪を犯し、かつ梅田自白のように犯行後思い悩み、羽賀の逮捕の記事を見てはビクビクしていた(第三回検面)というのであれば、それが被告人の言動、態度等に影響を及ぼさないはずがないものと考えられる。そうだとすれば、被告人は本件犯行当時から逮捕に至るまで家族と一緒に暮らし、毎日農作業に従事していたのであり、かつ、狭い農村社会の中で生活していたのであるから、そのような被告人の言動、態度等の変化も、家族やあるいは近隣の者によって記憶されている可能性があるといえよう(梅田房吉の一〇月二五日付員面では、羽賀の殺人行為が新聞に出たのを見て、被告人が「俺等関係してないからよいが」等と言っていたという点も、格別不自然なものとはいえないであろう。)。

もち論、以上のような判断は、すべて仮定的な証拠発見の可能性についての議論の域を超えておらず、①ないし⑥のような証拠がいずれも当然にあってしかるべきであるということはできない。したがって、このような証拠のうち、幾つかの提出がなかったとしても、特段梅田自白の信用性が低下するものではないことは明らかである。しかしながら、本件においては、被告人と本件犯行との結び付きに関して梅田自白を裏付ける客観的証拠ないし状況証拠は、前に触れた程度のものを除き、何一つ法廷に顕出されていないのである。そうだとすれば、このように発見可能性のある裏付証拠が相当数想定され、かつ、当時の捜査官においてもそのような証拠を発見すべく捜査を重ねていた事実が窺われるにもかかわらず、そのうちどれ一つとして法廷に顕出されていないというのは、やはりいささか不可解といわざるを得ず、自白の信用性を検討する上で、かなりの消極的考慮要素になるといわなければならない。

(二)  バットによる殴打と頭蓋骨骨折状況

検察官は、被告人が大山の後方からその頭部を所携のバットで一回殴打したとの被告人の自白の内容は、大山の頭部複雑陥没骨折に関する三宅、渡辺、船尾及び高取各医師、鑑定人の所見と一致するから、この点に関する被告人の自白は信用できると主張する。これに対し弁護人は、被告人の自白どおりの打撃態様では大山の頭部に存在するような複雑陥没骨折を生じさせることは不可能であるばかりか、そもそも大山の頭部にバットを命中させること自体不可能であると主張するので検討する。

(1) 被告人の自白の内容

バットによる殴打に関する被告人の自白の内容は、大要次のとおりである。すなわち、

昭和二五年一〇月一〇日午後六時半ころ、青年会館の裏側から、羽賀が隠しておいた、細い握りの部分を短く切り落した長さ二尺位のバットを見つけ、これを作業服上衣の左側の内側に太い方を下に細い方が左肩付近にくるようにして隠し入れ、バットの太い方の部分を左掌で隠すようにして支え持ち、午後七時二〇分ころ、柴川木工場において、大山と会った。自分は大山の左側に並んで仁頃街道を仁頃に向かって歩き、途中から分岐する山道に入り、羽賀から指示されていた地点に差しかかったとき、右足を一歩後方に引き、同時にバットの太い方の部分を右手に握って上衣の中から抜き出し、次に両手でバットの細い方の部分を握って振りかぶりざま、その太い方の部分で大山の頭の後ろの方を殴りつけた。大山は、「ウウン」とうなって道路の右側に倒れた。

(2) 頭蓋骨の骨折及び陥没の状況

まず、頭蓋骨の骨折状況等については、三宅宏一作成の一〇月二四日付鑑定書、渡辺孚作成の一二月二日付鑑定書、右三宅の二次再一審での供述(昭和五六年一一月四日付証人尋問調書)、高取健彦の二次再二審での供述(昭和五九年四月二四日付証人尋問調書)、前記写真集及び押収してある頭蓋骨模型二個(昭和六〇年押第二四号の117、118)によれば、大山の頭部に右側頭頂骨を中心として、前方は前頭骨に後方は頭頂骨後縁(右乳様部)に及ぶ大きな複雑陥没骨折が認められ、これを組成する骨折線の位置や形状等を図示するとほぼ別紙見取図第三図のようになる。すなわち、主要な骨折線は、同図l、x、n、z線及び矢状縫合、冠状縫合の各一部で囲まれたほぼ矩形状の骨折線であり、l、n線の中間にこれらにほぼ平行するm骨折線がある。m線は、頭蓋骨の正中線である矢状縫合に対して後方にいくほど同縫合線から一層右方向に離れていく角度をもつほぼ直線(約七センチメートル)である。x線に接続してb1、b2、b3、b4、b5、b1を結ぶ三角形をなす骨折線があり、そのうち、b2、b3、b4、b5、b2を結んだ部分(B)は菱形状をなし、同部分は、外板、内板ともに欠損し、また、b1、b2、b5、b1を結んだ部分(B')は、外板のみが欠損している。右三角形の骨折線の右方にx線に接続して外板のみが欠損している部分(C)がある。冠状縫合と矢状縫合の接点から前頭骨の右前方に延びる弧状のk骨折線があり、n線とz線の接点から冠状縫合を越えて前頭骨に及ぶn'骨折線がある。また、b1、b2、b3を結ぶ骨折線は後方に延び、人字(三角)縫合付近から前方に湾曲してx線の延長線に達するy骨折線がある。なお、前頭部A部分等に暗赤黒色の紅斑がある。

次に、陥没の箇所及びその具体的状況をみると、三宅医師の弁護士三名に対する昭和五四年一一月五日付供述録取書、同人の二次再一、二審での各供述によると、骨片、がm線の全長を谷底として陥没し、m線の陥没状況は、冠状縫合に接する部分付近が最も深く、m線の全長において外板は接合しているが、内板は分離しており、また前頭骨の冠状縫合寄りの部分もm線に向かって陥没していたことが認められる。これに反する証拠はない。

(3) 考察

右のような頭蓋骨の骨折及び陥没の状況を前提にして、これを生ぜしめた凶器の種類、打撃の回数・方向・態様等について検討する。

(Ⅰ) 関係証拠によると、大山の頭部の複雑陥没骨折が生前創であることは疑いがなく(渡辺鑑定書、三宅二次再一審供述)、三宅鑑定書によれば、頭部打撲に用いられた凶器は「相当幅のある棍棒様の鈍器」とされ、同人のほか渡辺、船尾忠孝、高取各鑑定人の一致する見解によっても、本件の凶器としてバットが適合していること、また、右バットがどのように当たったか、すなわち、A点にバットの先端が当たったのか、m線全体に当たったのか、バットが振り下ろされた角度はどうかの細部については、右各鑑定人の意見は必ずしも一致しないけれども、大山の頭部複雑陥没骨折が、大山の後方からm線に向かって上方より下方へ振り下ろされたバットによる一回の打撃により形成され得るものであること(ただし、頭部に凶器刺入があるかどうかは別とする。)は、右鑑定人らの一致した見解により優に認められること、以上が明らかである(したがって、以上の限りにおいて、大山の後方から大山の頭部をバットで一回殴打したとの被告人の自白が、客観的事実と適合することになる点は、既に述べたとおりである。)。

(Ⅱ) そこで、進んで、バットの方向・角度、打撃の態様について検討する。

三宅医師の所見は、「前記のようなm線の陥没状況、m線と冠状縫合との接合部付近(A付近)の状況等からすると、バットが凶器であるとした場合、バットの先端はA付近に命中したと考えられる。打撃の瞬間においてバットの軸は前下がりの角度で右A付近に命中したものと考えられるから、加害者は、被害者の後方のやや高い位置から被害者に打撃を加えたものと考えられる。また、加害者が被害者の左側を並んで歩いて、突然加害者が右足を一歩後方外側に引いた状態で、後ろから殴りつけたと仮定した場合、首は非常に不安定であるから、被害者が右を向いていれば、本件のような頭部の複雑陥没骨折を生じさせることはできる。」というものである(前記三宅各供述等)。

船尾医師は、三宅鑑定書及び右三宅供述等を踏まえ、二次再二審において、同一番での自己の供述を一部訂正した上で、「骨片の部分に陥没骨折がないこと等から、バットはm線全体に当たり、x線がバットの当たった後端である。m線のうち、冠状縫合寄りの部分が最も深く陥没していることに照らすと、被害者の頭部が普通の状態で正面を向いていた場合には、加害者は、被害者より背が高いか、又は高い位置にいてバットを振りおろし、打撃の瞬間、バットの先端はやや前下がりの状態で頭蓋骨に命中したと考えられる。もっとも、被害者が顔を上に向けていた場合には、バットはやや上向き加減で振りおろされたと考えられる。」旨の所見を述べている。

高取鑑定人は、「(ア)  、がm線をV字型の底辺として陥没していること、A付近が最も深く陥没していることなどの骨折状況に照らすと、バットの先端は、m線とz線ないし冠状縫合との接点付近(A付近)に命中し、同部位に最も強い外力が作用したと同時に、m線の全長を含む面にも強い外力が作用したと考えられる。また、l、m、nの各線がx線で止まりその後方に及んでいないのは外力の最後端がx線であることを示しているから、バットはx線の後方にあるにはほとんど接触しなかったと考えられる。さらに、m線の陥没の程度が冠状縫合寄りに近いほど深いことなどに照らすと、バットの軸は、頭部に対して上方から下方に向かう方向で、かつ打撃の瞬間において、m線の全長に対しやや前下がりか、又はほぼ平行の角度で振りおろされたと考えられる。バットによる打撃の作用方向は、正中矢状面(矢状縫合の線を含む地上に垂直な面)に対し外側上方から内側下方に向かって作用したものと考えられる。(イ) 人が立位の姿勢で真っすぐ前を見ている場合、眼窩の下縁と外耳孔の上縁とを結んだ線はほぼ水平になる(眼耳水平面)のが通常であり、人によって頭部を前屈又は後屈にする癖があってもその角度はせいぜい一〇度位であること、通常人であれば、左右の肘関節を曲げてバットを振りおろすのが自然であること、バットの先端の頭部における命中部位、本件骨折の状況等に照らすと、加害者と被害者がともに立位の姿勢で、かつ加害者が被害者の後方又は左側後方からバットを振りおろした場合、加害者の両手首は自己の頭部又は肩より低い位置にくるから、どうしても被害者の頭頂部から後頭部にかけて陥没骨折を生じさせざるを得ず、本件のような陥没骨折を生ぜしめるためには、  被害者の身長が加害者のそれより約四〇センチメートル以上低いか、あるいは、被害者が打撃の瞬間にかがみ込むなどしてその頭部が加害者のそれより約四〇センチメートル以上低い位置にあるか、又は、② 被害者の頭部が打撃の瞬間において約四五度以上後屈していることが必要である。」とする(同人作成の昭和五九年三月九日付鑑定書、二次再二審での同人の供述)。しかし、同人はさらに「(加害者が加害者の右側後方からバットを振りおろす時に)被害者の頭部が打撃の瞬間において約三〇度程度後屈している場合にもその可能性がある。」ようにも述べている(右高取供述。記録二二冊二二五二丁)から、右角度については、四五度以下では全く不可能であると断じている趣旨ではないと思われる。

右高取鑑定人の所見の内容は、三宅、船尾両医師の各所見の内容ともほぼ符合し、殊に、加害者が被害者より高い位置から打撃を加えたとしている点や、打撃の瞬間においてバットの先端がm線の全長に対してやや前下がりの角度で振りおろされたとしている点で一致していることなどに鑑みると、高取鑑定人の右所見は、(イ)の点も含めほぼ妥当なものと認められる。

これに対し、検察官は、高取鑑定人の右所見中(イ)に示された数値が正確であるか否かを確認する目的で、検察官尾崎幸廣作成の昭和六〇年五月二日付実況見分調書記載のとおりの打撃実験を行った結果、打撃の瞬間における被害者と加害者の高低差については、三六・九ないし三八・二センチメートルであり、これを四〇センチメートルとする高取鑑定人の所見は概ね正しいことが実証されたが、被害者の頭部の後屈角度については、約二〇ないし二二度後屈させるだけで足り、これを四五度以上とする高取鑑定人の所見は誤りであると主張する。なるほど、右打撃実験の結果得られた数値それ自体は信頼できるものではあるが、右打撃実験では、被害者の頭部を直径約二〇センチメートルの完全な円形としていること、バットの先端が命中した部位を右円形の頂点としていること、バットが被害者の頭部に命中した時、加害者の腕とバットの軸がほぼ一直線になるようにしていることなどの条件が設定されており、これらは、高取鑑定人が二次再二審公判の法廷において実験した際の前提条件とは明らかに異なっているのであるから、双方の結論に差異が生じるのはむしろ当然であって、これをもって高取鑑定人の所見が不合理であるとすることはできない。この点検察官は、右のような条件を設定しなければ計数測定は不可能であり、バットが頭頂部に命中する角度とバットを握る腕の曲がり具合いの組合せは多様であって、頭部後屈角度と打撃の可能性はどのような結論も出すことができるというが、双方の実験の前提条件を比較すると、高取鑑定人の場合の方が、実際に頭蓋骨の模型を使用している点、バットの命中部位を別紙見取図のA付近としている点、バットが被害者の頭部に命中した時、バットを握っている腕の肘を曲げている点で頭部を強打する時の現実の打撃態様をより自然に再現していると考えられるから、高取鑑定人のあげる三〇度ないし四五度という数値が誤りであるということはできない。他にその妥当性を否定するに足りる証拠はない。

なお、渡辺医師の原一、二審における公判供述によれば、加害者が被害者の左側後方からバットを振りおろした場合でも本件陥没骨折を生じさせることはできるというのである。同医師は、前記認定の大山の頭蓋骨の複雑陥没骨折の状況とは異なる状況を前提にしてそれとは知らずに右のような所見を述べたものであって、二次再一審での同人の供述によれば、三宅鑑定書に記載されている骨折状況を前提にすると、原一、二審で述べたバットの命中部位及び打撃の作用方向に関する所見についてはこれを変更せざるを得ず、結論的には三宅、船尾両医師の各所見の内容とほぼ同様になるというのであるから、高取鑑定人の所見の内容に反するものではない。

(Ⅲ) 以上、頭蓋骨の陥没骨折状況に右の鑑定所見を総合すると、本件頭蓋骨の複雑陥没骨折は、バットが凶器であるとした場合、バットの先端はm線とz線ないし冠状縫合との接点付近(A付近)に命中し、かつバットの軸はm線の全長を縦断する方向で、しかも、打撃の瞬間において、m線の全長に対しやや前下がりか、又はほぼ平行の角度で、正中矢状面に対し外側上方から内側下方に向かって振りおろされたと考えるのが合理的であり、m線は、頭蓋骨の後方にいくほど正中矢状面から右方向に離れるほぼ直線であって、その後方延長線が正中矢状面と交わることはないから、バットを握っている加害者の両手は、打撃の瞬間において、m線の延長線上、すなわち、正中矢状面に対し右側後方にあったことになる。したがって、加害者は、正面を向く被害者の右側後方に位置して打撃を加えたか、又は、被害者の真後ろあるいは左側後方に位置する場合には、被害者が顔を右に向けている状態において攻撃を加えるかしなければならない。さらに、加害者の頭部は、打撃の瞬間において、被害者のそれより約四〇センチメートル以上高い位置にあるか、又は、被害者が頭部を少なくとも約三〇度以上後屈していなければならないことになる。

(Ⅳ) そこで、本件頭蓋骨の複雑陥没骨折の状況等から合理的に推測できる右のような打撃態様とこの点に関する被告人の自白の内容との整合性について検討する。

前記のとおり、被告人の自白では、「大山の左側に並んで歩き、右足を一歩後方に引き、両手でバットを振りかぶりざまにその太い方で大山の頭の後ろの方を殴りつけた。」となっているから、打撃の瞬間において、被告人は大山の左斜め後方に位置することになる。この点、被告人は、検察官作成の一〇月八日付検証調書の中では「右足を一歩後方外側に引き」と説明しているが、その場合でも被告人が大山の左斜め後方に位置することにかわりはない(右検証調書添付の写真第二参照)。検察官は、被告人が現実にバットを振りおろす際、再び足を踏み込んだり、右に移動するなどの行動を無意識にとったことも十分に考えられると主張するけれども、殴打の際足を踏み込むことは当然あり得ることで、むしろそれが自然とも思われるが、右に移動するという行動は、相手に気付かれないように敏速に殴打行為を遂行している最中の行動としては、その必要性もなく、通常あり得ないものであろう。したがって、両者の右位置関係において、バットがm線の全長を縦断する方向に振りおろされるためには、大山が顔を相当程度右に向けていなければならない。ところが、被告人の自白その他本件全証拠を精査しても、打撃の瞬間に大山が顔を右に向けたことを窺わせる証拠は全くない。もち論、暗い中で、大山が顔を右に向けるという比較的変化の小さい挙動に加害者自身気がつかないことも十分あり得るから、被告人の自白中に大山が顔を右に向けたことを窺わせるものがないからといって、直ちにそのような事実はなかったとすることはできないし、また大山が身の危険を感じて種々の挙動に出ることも予想されないでもない。しかし、その場合でも、大山が顔を右に向ける可能性が特段に高いとはいえない。可能性としては、むしろ、被害に遭う直前まで自己の左側を並んで歩いていた加害者の異常な挙動、気配に気付けば、左に顔を向けるのが自然であり、大山が顔を右に向ける可能性は極めて低いといわざるを得ない。

次に、既に認定したように、被告人の身長は五尺三寸位(一六〇・六センチメートル位)であり、一方、大山の身長は一六三センチメートル位であって、被告人の方がやや身長が低いところ、殺害現場とされている道路の勾配について、司法警察員作成の一〇月一日付実況見分調書では、「山道は一五度位の坂道で、仁頃道路よりダラダラと下っている。」となっているが、検察官作成の同月八日付検証調書及び原一審の検証調書ではいずれも「緩い下り勾配」と、二次再二審の昭和五八年九月三〇日付検証調書によれば「五ないし六度の緩やかな斜面」となっており、右実況見分調書、右各検証調書、原二審の検証調書各添付の写真等を総合すると、殺害現場とされている付近の道路はやや下り勾配となっているものの、加害者が被害者をバットで殴打し得る範囲の間隔において離れていたとしても、双方の頭部の高さに約四〇センチメートル程度もの差ができるほど急勾配であるとは認められない。したがって、検察官が主張するような歩行中の被害者の頭部の若干の上下運動を考慮するにしても、打撃の瞬間に加害者と被害者がともに立位の姿勢であった場合において、双方の頭部に約四〇センチメートルもの高低差が生じていたとは到底考えられない。そして、被告人の自白をみても、前記のとおり、打撃の瞬間において大山がかがみ込むなどしてその頭部の位置が約四〇センチメートル位低くなったことを窺わせるものは全くなく、殺害現場とされる付近が犯行当時相当暗かったとしても、大山が身をかがめるような顕著な姿勢の変化があれば、大山の後頭部をバットで殴打しようとしている加害者によって認識されないということは通常考えられない。さらに、被告人の自白には、打撃の瞬間において大山が頭部を少なくとも約三〇度以上後屈させたことを窺わせるものは全くないが、大山が何らかの事情でたまたま頭部を右の程度後屈させたことに加害者が気付かなかったことがあり得る事態であるとしても、そもそも、足場の必ずしもよくない未舗装の下り勾配の暗い山道(原二審の検証調書によれば「この山道(殺害現場を含む)はわだちのあとが深くきざみ込まれた凹凸のはげしい路幅三米の道路」となっている。なお、前記司法警察員作成の実況見分調書添付の写真第二及び第三を参照)を歩行する場合、重心を後ろにとろうとするため身体全体を後方にそりぎみにすることはあっても、顔は足下を見ようとして下向きになるのが自然であって、足下も視野に入らないほど上向きの状態で大山が歩いていたとは通常考えられないから、大山が頭部を約三〇度以上も後傾していた可能性は相当低いものといわなければならない。

右で考察したところによると、打撃の瞬間において、立位同士の加害者と大山の頭部の高さに約四〇センチメートル以上の差が生じた可能性はほとんどなく、また、立位の大山が少なくとも約三〇度以上頭部を後屈すると同時に顔を右に向けた可能性も著しく低いといわざるを得ないから、本件犯行が被害者、加害者双方が移動している状態で行われたことを前提とし、かつ、被告人の自白を合理的な範囲内で解釈しても、その自白しているとおりの打撃態様、位置関係等によっては本件頭蓋骨の複雑陥没骨折を生じさせることは極めて困難であると認められる。

そして、この点は、実行行為の中心部分に関するものであるだけに、被告人の自白の信用性を判断するに際し、大きな消極要素として作用することを免れ難いといわなければならない。

なお、相場鑑定人のバットによる打撃実験の結果によると、「明るい環境の下で、加害者役の被験者が被告人の自白するとおりの動作で打撃を行った場合、バットの先端が被害者役の被験者の後頭部に当たる位置にくる確率は極めて低く、バットの先端は、被害者役の身体から完全に外かれるか、あるいは当たったとしても背中をかすめる程度である。そして、加害者役の被験者が被告人の自白とは違って、ただ左手でバットをぶらさげた状態から打撃を行った場合には命中する確率はかなり高くなり約五〇パーセントの場合に後頭部を、残りの場合には背中のいずれかの部分を打撃する結果となる。次に、本件犯行当時の暗やみを想定した低照度条件下において、右と同様の実験を実施したところ、加害者役の被験者のバットが被害者役の被験者の後頭部に当たる位置にくることはほとんどなく、またバットの先端が身体から外れる度合は暗やみの方が若干大きいようであった。」というのである(相場鑑定書及び二次再二審での同人の供述)。しかしながら、ともに歩行中、被害者に気付かれずにその後頭部をバットで殴打しようと強い意欲をもって行う加害者の実際の行動は、右実験の加害者役の被験者よりもより敏速で的確であったと考える余地があるし、バットを振りおろす際、足を踏み込んだとも考えられるから(「殴打した」という供述を合理的に解釈すれば、殴打行為の際足を一歩踏み込むことは当然「殴打した」という供述に含まれるともいえよう。)、右実験の結果を本件の場合にそのまま当てはめることはできないと思われるし、また相場鑑定書によれば暗やみの中で移動中の人の形とその位置を特定することは、一ないし二メートルの距離では注意さえ十分向ければそれほど困難ではないようであったというのであるから、右実験の結果をもって、およそ被告人の自白するとおりの打撃態様ではバットの先端を被害者の頭部に命中させることは不可能であると断ずることはできないと考えられる。

(三)  ナイフによる頭部刺突

検察官は、大山の頭部には、頭蓋骨の右側頭頂骨を中心とするバットによる打撃に起因する複雑陥没骨折とは別個独立の菱形状骨欠損とその真下に位置する大脳に凶器の侵襲によって生じた刺創が存在し、その凶器の幅は被告人が自白している七徳ナイフと適合することは明白であって、これらは、被告人が七徳ナイフによって大山の頭部を刺突したとの自白を客観的に裏付けるものであるから被告人の自白は信用できると主張するのに対し、弁護人は、右菱形状骨欠損部は、バットによる頭部打撃により生じた陥没骨折の随伴創であると解するのが、船尾、渡辺、高取、木村各鑑定結果上最も合理的であり、三宅医師が解剖時に見たという脳の創傷は、頭部の陥没骨折と同時に右欠損部にほぼ一致する骨内板片が剥離して脳実質内に刺入されたか、死体の発掘から解剖時までの過程で右骨内板が脳内へ嵌入したため、解剖時まで保持されたと考えざるを得ないし、梅田自白のようなナイフを上から下に真直ぐ突きおろしたとすると、右の骨欠損部の位置からして、右部位を刺突することはできないから、頭部刺突に関する梅田自白もまた、真実性がなく、右創傷がナイフによる刺傷とされたのは、これを刺傷と誤認した警察官が、被告人に対しこれにそう供述を強制したものにほかならないと主張するので、以下、検討する。

(1) 被告人の自白の内容

被告人が大山の後頭部をバットで殴打したのちの被告人の自白の内容は、次のとおりである。すなわち、

大山は、「ウウン」とうなって、歩いている方に向かって右側後ろの道路端に倒れた。足の方は道路に出ていたが、上半身は道路の右側に生えている草むらの方に入っていた。斜め後ろに、仰向けに近い姿勢で倒れた。顔は大山自身から見て右側の方に少し曲げていた。身体を少し動かし「ウウン、ウウン」とうなっていた。大山がこのようにして倒れると、私は、すぐポケットから用意してきたナイフ(被告人が尋常高等小学校の高等科一年生の時に買った七徳ナイフで、刃の長さ二寸五分位、刃の幅五分位、刃の厚さ一分位、柄は茶色鉄板製で、長さ三寸位、幅一寸位のもので、刃のほかに栓抜き等の道具がついているもの)を取り出し、腰を低くして右膝をつき、大山の頭を目がけて突き刺した。ナイフを右逆手に握って「グサッ」と突き刺した。刃の方を内側にしてそのナイフの柄を右逆手に握っていたように思うがはっきりしない。大山の頭を目がけて突き刺したが、そのどこに突き刺さったか夢中だったのではっきりしない。そのナイフの刃の部分は全部大山の頭に突き刺さったのは覚えている。そのナイフを握っている右手の小指側の部分が大山の頭に「ガシッ」とぶつかった。上から下に真っすぐそのナイフを突きおろしたように思う。私がこのようにしてナイフで大山の頭を突き刺した位置は大山の頭の方にいてやった。「グサッ」と一回だけ突き刺してからすぐナイフを引き抜き、その場所から付近の沢の木の生えている方に向かって力一杯ナイフを投げ捨てた。

(2) 解剖、鑑定所見

大山の頭蓋骨及び脳内に七徳ナイフが刺突された形跡があるか否かについて、これまでなされた解剖及び鑑定所見を要約すると、次のとおりである。

(Ⅰ) 三宅医師の所見

(ア) 三宅鑑定書

① 本件頭蓋骨の頭頂骨中央より少し右側後方に二等辺三角形の骨外板の欠損する部分(別紙見取図第三図のBとB'を合わせたもの)があり、そのうちの下方部分は長径約二センチメートル、短径約一・五センチメートルのほぼ菱形状の骨欠損(同図B)となっており、これより約二センチメートル下方に長径約一・五センチメートル、短径約〇・七センチメートルの骨外板欠損部分(同図C)がある。菱形状骨欠損部分(B)は、内板が外板とほぼ直角に離脱して頭蓋内に落下し、大脳右頭頂葉内に挿入されてあった。この菱形状骨欠損が前記複雑陥没骨折の副産物的損傷として生じたものか否かは不明であるが、この骨欠損が他の骨折線と比較的孤立していること及びその内板が遊離して脳内に挿入されたような状態にあったことなどを考慮すると、独立した他の創傷と考えられないことはない。骨欠損部の形から凶器を推定することは困難であるが、少なくとも骨表面における凶器の幅は一・五センチメートル以下である。菱形状骨欠損より二センチメートル下方にある小さな骨外板欠損部分(C)は、他に同じような欠損部分がないこと、またその形から、菱形状骨欠損と同じ凶器により、同じ方法で弱くつけられた痕跡ともみられるが、また陥没骨折の副産物としてできたものと考えられないことはない。② 大脳は沈下萎縮している状態であり、脳膜は希薄な青色を呈して腐敗変色し、右菱形状骨欠損部にほぼ一致する右大脳頭頂葉後ろの部分に深さ約二・五センチメートル、長径一・八センチメートル、短径〇・五センチメートルの刺創があり、この創傷部の脳膜には出血の跡がある。この刺創の付近に菱形状骨欠損部にほぼ一致する前記骨内板骨片がある。この損傷は骨内板の挿入によってできたものか、又は、凶器の直接の侵襲によるものかは不明である。またその傷の深さは、脳が既に脳軟化を起こし、大脳が下方に沈下していることなどから、実際の長さは測定値より長いと推考する。

(イ) 三宅医師の原二審公判供述、二次再一、二審での供述及び三宅供述録取書

① 菱形状骨欠損の成因については、複雑陥没骨折に随伴して生じた可能性も考えられるが、鑑定書に記載した理由から、凶器の侵入によって生じた独立創傷と考えたい。しかし、随伴して一緒に起こった可能性も否定できない。独立創傷とみた場合、凶器は、菱形状骨欠損部の外板がなくなって内板のみが脳内に押し込まれていることからすると鋭く尖ったものではなく、また、少なくともバットと同じ位の重量のあるものでなければならず、例えばピッケル状のものがこれに適合するが、七徳ナイフは到底考えられない。なお、この菱形状骨欠損部への攻撃に伴って生じたと思われる骨折は、x線とy線である。② 大山の脳はぶよぶよという感じではなく、むしろ泥状、粘土状という感じで、ある程度の硬さをもっていた。大脳頭頂葉に鑑定書に記載したとおりの刺創があったことは間違いない。大脳に生じていた傷はこの一か所だけである。この刺創の創口からゾンデ(一船的に外科で刺し傷が身体のどこまで達しているかを測る器械)を挿入してその深さを測定した。これを刺創と判断した根拠は、それがある程度の深さをもっていたことと創傷部の脳膜だけに生前のものと思われる出血の跡が見られたことなどである。脳膜とは脳表面の軟脳膜のことであり、出血の跡であると考えたのはその傷の周辺が黒色ないし暗赤色になっていたからである。もっとも、頭皮や硬脳膜にナイフで開けたような穴は認められなかった。③ この刺創は菱形状骨欠損と同時に生じたものと考えられるが、刺創を生ぜしめたと思われる凶器の作用方向については、頭蓋骨は凶器が垂直に当たらないと容易に壊れないこと、右刺創が大脳表面に対して垂直になっていること、骨内板が菱形状骨欠損部の真下にあったことからすると、凶器は頭蓋骨の表面に対して垂直の方向に作用したものと考えられる(二次再一審供述の添付写真5の1ないし3を参照)。したがって、被害者が仰向けに倒れ、顔を被害者からみて少し右側に曲げている状態で、加害者が被害者の頭部の方に来て腰を低くして右膝をついた格好でナイフを上から下へ真っすぐ頭部に突き刺したと仮定した場合、本件死体にみられる大脳損傷を与えることはできない。なお、創口の中に骨内板がある程度入っていたが、ぐさっと刺さっていたものではなくその上にすぽっと入っていた程度である。また、解剖においては死体は慎重に取り扱ったから、、の骨片を取りはずしたときに骨内板が頭蓋骨内に落ち込んだとは考えられない。

(Ⅱ) 渡辺医師の所見(二次再一、二審での供述)

① 大山の死体の頭蓋骨を見た際、B、Cの骨欠損部には気がつかなかった。そこで、三宅鑑定書に記載されている事実を前提にすると、結論的には、菱形状骨欠損は複雑陥没骨折の副産物とみることも、また、刺器による独立創傷とみることも可能である。仮に独立創傷とした場合、全く傷のない頭蓋骨をナイフで突き刺しても骨欠損を生じさせることは非常に難しい。しかしながら、バットによる殴打等によって頭蓋骨のB部分に骨折線が生じ、その箇所に大脳損傷の幅に相当するような大きなナイフがちょうどよく突き刺されば、ナイフによっても菱形状骨欠損ができる可能性がある。② 死体が二年間土中に埋没されていた場合、大脳は腐敗してしまうから、埋没前に存在した刺創は正確な形状をとどめなくなる。したがって、刺創の有無を確認することはできないし、ましてゾンデを挿入して刺創の深さを測定することはできない。また、頭蓋骨の表面や脳内に出血の跡があったとしても、二年後に腐敗している状態でこれを出血の跡と断定することはできない。

(Ⅲ) 船尾医師の所見(二次再一、二審供述及び昭和五四年二月二七日付船尾鑑定書)

① 菱形状骨欠損が陥没骨折の周辺部に、かつこれを組成する骨折線と全く独立したとはいい難い位置に存在していること、外板と内板が分離している本件欠損部の性状は通常陥没骨折等の骨折に随伴して生じるもので、刺器によって頭蓋骨に穿孔創が生じる場合には、外板と内板が完全に分離することは通常あり得ないこと(刺器よりも鈍器の作用した場合の方が内板と外板が分かれ易い。)、頭蓋骨に既に骨折線が生じている場合でも、刺器によっては外板と内板が完全に分離することは極めて少ないこと、その他、自分がこれまで行った頭部の損傷に関する多数の鑑定経験等に照らすと、菱形状骨欠損は陥没骨折に随伴して生じた可能性が高い。もっとも、独立創傷と考える余地が全くないわけではないが、仮に右骨欠損が独立創傷であるとした場合、凶器はナイフのような刃器ではない。ナイフのような刃器ではもっと幅の狭い穿孔創になり、本件のような菱形状の骨片を脱落させる創傷を生じさせることは無理である。② 死後二年を経過した脳は高度に腐敗が進行しているから、生前の刺創の深さや幅を測定することは不可能である。また、血液は死後二年経過すれば脳とともに腐敗するから、創傷による出血か否か判別できないし、損傷の部位を判定することもできない。なお、バットによる打撃によって頭蓋骨の内板が分離して脳を傷つけることはあり得る。

(Ⅳ) 高取鑑定人の所見

(ア) 昭和五九年三月九日付鑑定書及び二次再二審供述

① 菱形状骨欠損は、複雑陥没骨折を構成している骨折線から孤立してはおらず、その位置関係等からして右複雑陥没骨折に随伴して惹起されたとしても全く不思議はない。すなわち、別紙見取図のb1、b2、b3、b4、b5骨折線は、y線と同時にできたものと考えられる。これだけ大きな陥没骨折が生じた時、これが随伴して惹起されても全く不思議でない。菱形状骨欠損が他の成傷器によってできたと考えなければならない客観的な所見はない。また、頭蓋骨に鋭器が当たると屈曲骨折を作る。つまり、鋭器が骨外板を穿孔し、かつその下の骨内板に骨折を生じさせる場合には骨外板より骨内板の方が大きく欠損するのであるが、本件についてみると、三宅供述添付の図面では、菱形状骨欠損の骨内板と骨外板はほぼ同じような大きさで図示されている。以上から、菱形状骨欠損は独立の成傷器によるものではなく、複雑陥没骨折に随伴的に生じたものと考えるのが妥当である。また、菱形状骨欠損部にb1―b3、b1―b4という二股状の骨折線があり、b3―b4が仮に骨折していなかったとしてそこに刃物が当たったと仮定した場合、b3―b4の部分に骨折線が入ることはあり得るが、その場合でもやはり骨外板より骨内板の方が大きく欠損するのが通常である。② 一般に脳は、死後軟化融解し腐敗を伴って液状化して脳の原形をとどめなくなりドロドロとなってくるが、このプロセスは必ず経過するものと言ってよい。条件によっては、ドロドロとなった後にしだいに水分が失われ、頭蓋内容の容積が縮小しやや硬さを増して粘土状になってくることもある。ところで、三宅医師が最初に本件頭蓋腔内の内容を観察したとき、脳は沈下、萎縮していたということから、その容積は縮小し、しかも、頭蓋内容の水分がある程度喪失していたためやや硬さを増して粘土状になっていたものと考えられる。したがって、右のような脳の死後変化を考え合わせると、頭蓋骨の骨折が惹起されたときに相前後して脳の表面と実質内に損傷が発生したとしても、その後土中に約二年間埋没されていた死体の脳からは、その損傷の有無を確認することは不可能である。ところが、三宅医師は、本件死体の脳に創を認めており、その創の性状をも鮮明に供述している。これは第一解剖者である三宅医師が脳を観察したときは、確かにそこに創があったものと考えざるを得ず、しかもこれは脳に惹起された創を認識できる程度の硬さをもっていた脳であったということになる。したがって、三宅医師が解剖時に観察した脳の刺創は、少なくとも二年前に惹起されたと考えられる刺創ではなく、昭和二七年一〇月一日死体を土中から発掘する過程で、あるいはそれを運搬する過程で、あるいは解剖している過程において、何らかの原因で惹起された刺創を観察したと考えるのが妥当である。そして、脳に存在していたという刺創の付近に頭蓋骨の菱形状骨欠損部にほぼ一致する骨内板を発見していること、この刺創の創口に嵌入する形で骨内板が見い出されていることから、死体発掘後解剖時に三宅医師が脳に刺創を発見するまでの過程において、この骨内板によって右刺創が惹起された可能性があったことを否定することはできない。脳表面における創口の形状がある程度明らかになったとしても、創洞の深さまでも確認できたかどうかは不明である。もっとも、創洞の深さを確認し得る場合もあるかもしれないが、それをゾンデで測定できるかは疑問である。

(イ) 昭和六〇年一一月二八日付鑑定書及び当審供述

① 一般に頭蓋骨に外力が作用し、その部分が陥没した場合は、骨折の種類は屈曲(彎曲)骨折をとるので、外板より内板の方が大きく骨折することになる。しかし、陥没骨折の発生状況によっては、外力の作用部位が陥没し、それに隣接する部位は陥没部の方向(頭腔内への方向、つまり内方)とは反対の方向つまり外方(頭皮側への方向)に向かうことがある。このような場合、陥没部にあたるところでは内板が外板より大きく欠損するようになるし、外方に向かう部分では反対に外板の方が内板より大きく欠損するようになる。ところで、本件写真集の写真を精査すると、y線とy線に続くb3からb5までの骨折線は、ほぼ全長にわたって外板の方が内板より大きく欠けていることが分かり、本件頭蓋骨の骨折の状況から総合的に判断すると、z線部では骨片、は陥没しており、骨片はl線の部分で陥没し、また骨片もn線の部分で陥没していたこと、つまり、骨片、はV字形に変型して全体的に陥没していたことが窺え(このことは、三宅医師がm線をV字形の底辺としてA斑点部とz線の接合部付近で骨片、が最も陥没していたと述べていることと矛盾しない。)、m線が陥没すると同時に、骨片は、y線の全長とn線の延長線に相当するx線の部分で外力に転移し、骨片、と接するx線の部分では逆に陥没したものと考えられる。骨片が打撃のある瞬間において浮き上がったとは考えられない。これらのことから推定すると、菱形状骨欠損部では、b3、b4、b5を結ぶ骨折線部で外方に転移し、b3、b2及びおそらくb1までの骨折線部は陥凹したことが示唆される。また、菱形状骨欠損部に対応する骨内板は、外板より明らかに小さいことがわかる。そうすると、菱形状骨欠損部は、屈曲骨折によって生じたものと考えてよいが、その過程で内板が頭蓋内に落ち込んだとしても一向に差し支えない。仮にこれが現実に存在する場所とは非常に離れた場所にあったならば、この場合は別の外力を想定してもよいが、本件の菱形状骨欠損部は、大きな陥没骨折の一つの部分として存在しているのであるから、その部分にこのような骨欠損が生じたとしても不思議はない。成傷物体が直接当たった部分以外の所でも骨折が起きることはよくあることであり、菱形状骨欠損部に成傷物体が直接当たる必要はない。このように考察してくると、骨片、及びは、一回の打撃によって発生したものと考えてよく、菱形状骨欠損部もその打撃による外力が作用したときに随伴的に惹起されたものと考えても特に不思議なところはない。② 以上のように考えてくると、三宅医師が解剖時に観察したという脳の刺創が惹起される成傷機転としては、前回の鑑定書に記載したもの(死体発掘から解剖時に三宅医師が右刺創を観察するまでの一連の過程の中で、菱形状骨欠損部にほぼ一致する骨内板骨片の脳内への嵌入)に加えて、頭部の陥没骨折が発生したと同時に右骨内板骨片が剥離し、これが脳実質内に嵌入ないし刺入されて刺創が惹起された可能性もあるものと考えられる。すなわち、内板と外板はもともと板間層という組織で付着して一つの頭骨を構成しているが、そこに外力が作用して割れると、片方の骨片が外側の方に飛び出ると同時に、もう片方の骨片が頭蓋腔内に入り、硬膜がいかに硬いといってもこの骨片がいわゆる成傷器となって脳内に刺入ないし嵌入することはあり得ることであり、それ程珍しいことではない。そして創の所に骨片が嵌入していたということは、骨片の長さや厚さから考えても三宅医師が測ったという創ができても不思議ではなく、むしろ、そう考えるのが自然である。したがって、本件七徳ナイフのような成傷器が頭蓋骨を穿通して脳に刺創を惹起させたと考えなければならない頭蓋骨の特有な骨折の所見はないものと考えられる。ただし、既に頭蓋骨に骨折が存在しており、その後七徳ナイフのような成傷器がその骨折部から刺入され、脳に刺創が惹起されることはあり得ることであり、また、既に骨折を生じていた菱形状骨欠損部に七徳ナイフが刺入された場合、その内板が頭蓋内に入ることもあり得ることである。しかし、このような場合、どの骨折部分から刺入されたかは分らないことが多い。③ 死後一般に脳実質は軟化融解し、続いて細菌が増殖して腐敗が進行してくると更に軟化融解が進み、ほぼ均一な液状となってくると考えられる。その後、脳内の水分が失われてくると、次第に硬さを増し、軟泥状からやや硬い泥状あるいは粘土状又はチーズ状になってくる。また脳内の水分が失われれば、脳の容積は縮小してくることになり、このような状態を脳の屍蝋化といっている。そして、屍蝋化した脳においては、生前脳実質内に刺創が形成されていたとしても、その両創面は融合しもはや創面を検することは不可能であると考える。ただし、脳が屍蝋化していく過程において、軟膜、クモ膜が比較的脳の表面の原形をあたかも保つがごとく萎縮していけば、つまり、脳表面に創があったとしても、その創が軟膜、クモ膜によって比較的保護されていれば、脳が右のような変化をした場合でも、脳表面に形成された創の刺入口のある程度の形状を認識することができる可能性を残している場合もあるものと考えられる。ところで、本件死体の脳は、腐敗変色し、沈下萎縮していたというのであるから、脳の容積は縮小していたことになり、したがって、脳の水分が失われ、硬さが増し、屍蝋化していたものと考えられる。とすれば、生前脳に惹起された創の脳表面における創口の形状がある程度明らかになったとしても、創洞の深さなどその他の性状までも確認することは不可能であると考える(これに対し、木村康作成の昭和六〇年六月一八日付及び同年七月一〇日付各捜査照会回答書によれば、屍蝋が形成されるためには腐敗の過程を経ないかのように理解されるが、屍蝋化が起こるためには必ず腐敗が先行しなければならないことは前述のとおりであり、また、右七月一〇日付捜査照会回答書によれば、屍蝋化した脳においては、形成された脳の刺創が半永久的に保存されることがあるとしているが、脳実質の解剖組織学的性状及び生化学的性状は、体表面を構成している軟組織のそれらとは全く異質のものであり、体表面に生前形成された刺創については、屍蝋化の完了した状態でも、創口や創洞の性状が長く保存されることはあるが、脳実質内に生前形成された刺創にあっては、脳が屍蝋化した場合、その刺創が半永久的に保存されることはまず考えられない。)。また、生前脳内に出血があったとしても、それを二年後にその状態で判別できることは極めて稀で信頼性は全くない。

(Ⅴ) 木村鑑定人の所見

(ア) 木村鑑定人作成の昭和六〇年六月一八日付及び同年七月一〇日付各捜査照会回答書

① 本件の鑑定書からは脳の状態は推測できないが、頭蓋腔内を撮影した写真から観察すると、脳の表面は原形を保っているよう判断されるので、恐らく表面が乾燥し、内部が屍蝋化した状態ではなかったかと思われる。したがって、このような脳においては、形成された脳の刺創は半永久的に保存されていることになる。そして、本件の大脳は、写真の上では未だ脳溝が識別される状態に見えるので、少なくとも表面の損傷の形状を識別することが可能であったと思われる。しかし、三宅鑑定書ではその深さを計測した数値が記載されており、これはゾンデを静かに差し込んで測定したというのであるが、この刺創の計測値については信用できない。脳は軟らかいものであり、しかも、本件の脳は、表面は脳溝が識別できた状態であっても内部は融解していた可能性があるからである。このような場合は、脳に割を加えて刺創の創洞を計測するのが普通である。② 骨折等の異常のない頭蓋骨をナイフで刺すのは容易ではないが、これで刺した場合に形成される刺創は、凶器の幅に相当する長さで刃部に相当しては狭く、刀背に相当しては刀背の幅よりも幅があり、スリ鉢状の形状を呈しており、外板では広く内板では狭い。かつ損傷部の創角部分あるいは創縁部分からはじまる亀裂骨折を伴うことが多く、内板においては創口を中心として放射状に走る亀裂骨折、またこの亀裂骨折部を含む楕円形状の内板の剥離、三角形状の内板剥離などが形成される。ところが、刺創が形成される前に、他の原因で骨折が形成され、この骨折部やこれに隣接する部分に刺創を形成する外力が加えられた場合は前述のような頭蓋骨の刺創は形成されず、単なる不規則な骨折を形成するだけである。骨折片は遊離して陥没することもあるが、一部のみ陥没することもあり、骨折片の大きさは凶器の幅とは無関係である。なお、はじめに形成された陥没骨折により骨折部の辺縁に内板の剥離がみられた場合には、次に加えられた刺創を形成する外力により生ずる骨折では、内板は遊離して頭蓋腔内に落下することもあり、この場合は、脳に凶器による刺創とは別に骨折片の内板による損傷が形成されることもある。ところで、本件の場合、脳の刺創に相当する頭蓋骨の損傷部(菱形状骨欠損部)は陥没骨折部に隣接しており、陥没骨折の随伴骨折とも考えられる位置にある。したがって、まずはじめに陥没骨折が形成され、次いで刺創を形成する外力がこの菱形状骨欠損部に加えられたとするなら、頭蓋骨には通常形成される刺創とは異なった骨折、ここでは菱形状の骨折が形成されても何ら矛盾はない。しかし、この際も頭蓋骨内板に密着している硬脳膜には当然凶器による刺創が形成されるはずであるから、その存在の有無が脳の損傷が刺創であるか否かを決める要点ということになるが、三宅鑑定書ではその点についての記載はない。

(イ) 木村鑑定書及び当審供述

① 三宅鑑定書によると、脳に腐敗融解の記載がなく、創傷の記載まであり、実況見分時の写真と推測される写真にも明らかに脳が写っている。これは頭部に開放性の外傷があるので、体表と同じく水分の浸透や乾燥の影響が直接加わったためであり、本件死体の脳は、表面がやや乾燥した屍であり、内部、脳底部は腐敗融解あるいは軟化していた状態であったと推測される。本件の脳は沈下してその容積が縮小していたわけだから、仮に傷があったとしても原形が保たれていることはなく、生前の傷そのものの形を示しているとはいえず、損傷等の異常のあることは識別し得ても刺創か否かの区別は極めて困難である。しかも、三宅医師は、脳を摘出することなく検査しており、このような計測の仕方では正確な数値を測定できたとは言い難く、傷の長さや幅から凶器を判別するのは殆ど不可能である。但し、二年間土中に埋められていた死体の脳について、出血の跡を判別することはできる。② 以上のとおり、傷の原因を推測することは難しいが、最も可能性があるのは半ばめり込んでいたと表現されている骨内板の骨折片である。古い脳では軟脳膜と脳実質は区別できないから、脳膜と言えばそれは硬脳膜をさすはずである。そこで、以下、三宅鑑定書中の脳膜が硬脳膜であるという前提をとると、三宅鑑定書では脳膜に出血があった、つまり硬脳膜に出血があったとされ、この出血は生前のものであるが、一方脳の表面に出血があったという記載はない。記載がないからなかったとすると、脳の傷には生活反応がないことになるから、脳の傷と硬脳膜の出血は同じ機会にできたものではないと思われる。そして、硬脳膜の出血している部分に傷がないというのであるから、骨内板が出血部分の硬脳膜を突き破って脳内に入ったものではないと判断される。しかし、骨内板が傷口に落ちていたのであるから、その傷は骨内板によるものと考えられる。すなわち、陥没骨折に伴い硬脳膜に大きな裂創が生じその合間から骨内板が脳内に落ち込んだか、あるいは、硬脳膜と骨折片を取りはずした際に骨内板が落ちたのかもしれない。但し、通常の場合は、陥没骨折の骨折片の内板はすぐに剥離するから、これが硬脳膜を破って脳内に入り込んだという可能性が最も高い。本件においては、七徳ナイフによる成傷の可能性は極めて低い。なぜなら、菱形状骨欠損部は、先端が尖鋭な鋭器で刺した場合に頭蓋骨に形成される骨折とはその性状が異なるからである。また、菱形状骨欠損部に既に骨折線が入っていて骨折線やその隣接部を七徳ナイフで刺突した場合、それに伴って骨内板が剥離して脳内に嵌入することはあり得る。しかし、陥没骨折の骨折縁に沿ってナイフが刺入された場合には、骨折縁の刀背部にほぼ粟粒大の骨欠損部が形成されるはずであるが、本件ではそのような損傷は報告されていない。なお、前回の七月一〇日付回答書の作成時においては、写真集の写真No.17について、陥没している部分の表面は硬脳膜あるいは大脳そのもののように見え、ゾンデを大脳の損傷部分に挿入してあるかのように思われたが、今回よく検討してみると、この部分は陥没した多数の骨折片の集まりであり、表面に多数の亀裂が窺われ、その中に刺創部分があることになる。もっとも、このように見なくても右の鑑定結果に変更はない。

(3) 考察

被告人の自白によれば、七徳ナイフの長さ約二寸五分の刃の部分は全部大山の頭蓋骨に突き刺さり、七徳ナイフを握っている右手の小指側の部分が大山の頭にぶつかったというのであるから、その刃は大山の頭蓋骨を刺突して脳内にまで達したことになる。そこで、大山の頭蓋骨の状況を見ると、別紙見取図のB、B'、Cの部分に骨欠損部があるが、完全に欠損しているのはBの菱形状骨欠損部(以下「B骨欠損部」という。)だけであり、三宅医師によるとこの部位に対応する脳の部位に刺傷があったというのであるから、頭部に七徳ナイフが刺突されたとするならばこの部分に刺突されたことになる。したがって、B骨欠損が七徳ナイフによって惹起された独立創傷と認められ、又は、B骨欠損部に対応する大脳の部分に七徳ナイフによって惹起された刺創が認められるならば、これらは右のような被告人の自白を客観的に裏付ける証拠ということができる。そこで、以下、B骨欠損は凶器の侵入によって生じた独立創傷であるか、それとも陥没骨折に随伴して生じた創傷であるか、B骨欠損が独立創傷であるとした場合、凶器が七徳ナイフであると認められるか、大脳に損傷が存在したか、損傷があったとして、それが七徳ナイフによる刺創と認められるかについて順次検討する。

(Ⅰ) B骨欠損は独立創傷か随伴創傷か

B骨欠損が陥没骨折の随伴創傷であるのか、それともこれとは別個の外力(具体的には、七徳ナイフが刺入する際の力)による独立創傷であるのかについて、これまでなされた解剖及び鑑定所見をみると、右に要約したように、三宅医師は随伴創傷と考えられないわけではないが、独立創傷であると考えたいとし、渡辺医師は両者の可能性がありそのどちらであるとも言えないとし、船尾医師及び高取鑑定人は随伴創傷と考えるのが妥当であるとしている(ただし、両者とも随伴創傷と断じているものではない。)。

三宅医師は、B骨欠損が独立創傷であると考える根拠として、それが他の骨折線から比較的孤立していることをあげている。なるほど、B骨欠損部自体は別紙見取図の、と全く接触する部分がないから、その意味では、の陥没骨折部から比較的孤立していると言うことはできる。しかしながら、B骨欠損部は、骨折線b2―b5の部分でB'骨外板欠損部と、また骨折線b2―b3の部分でとそれぞれ隣接し、B'骨外板欠損部は、と、は、陥没部とそれぞれ隣接しているのであるから、B骨欠損部はないしB'骨外板欠損部の生成に随伴して、またないしB'骨外板欠損部は、陥没部の生成に随伴してそれぞれ生成された可能性がある。すなわち、、陥没部を生ぜしめた打撃が、C骨外板欠損部を含む、B'骨外板欠損部及びB骨欠損部を生成した可能性があるから、骨折線が孤立しているか否かという関係で言えば、両者が同時に生成された可能性がある以上、B骨欠損部が、陥没部から孤立しているとは必ずしも言い難い。この点、三宅医師の所見によると、x線もy線もいまだ形成されていない頭蓋骨に凶器が刺突されてB骨欠損を生じさせた上、x線とy線が同時に形成されたように理解されるのであるが、高取、木村両鑑定人の所見からすると、妥当とは認められない。すなわち、高取鑑定人によれば、B骨欠損が他の成傷器によってできたと考えなければならない客観的な所見はないとされ、また木村鑑定人の所見では、鋭器が骨折等のない正常な頭蓋骨、あるいは骨折部に隣接しない部分の頭蓋骨に刺突された場合、創口を中心とする放射状の亀裂骨折等を伴うことが多いが、本件のB骨欠損部にはこのような性状が見られないとされ、現に、b4からB骨欠損部の外方、つまりB骨欠損部から見てと反対の部分には骨折線が形成されていないことからすると、三宅医師が言うようにB骨欠損部への凶器の攻撃によってx線とy線が形成されたとは考えにくい。なお、、がm線を底辺としてV字形に全体的に陥没していたことやl、m、nの各骨折線がほぼ平行に走り、かつ、m線のAとは反対側の延長線にC骨外板欠損部があることなどからすると、高取鑑定人の所見のように、強弱の差はあれ、m線の全長を含む面に外力が作用したものと考えられるところ(この点三宅医師の所見では、A付近にバットの先端部が命中しこの部分が最も深く陥没していたというのであるが、羽賀の検察官に対する第六回供述調書添付の第四図によれば、凶器はバットの握りの部分の方を切り落として短かくしたもので、握り部分から先端の方にいくほど太くなっているのであるから、これが大山の頭部にほぼ水平に打ちおろされたとした場合、バットの先端が当たったA付近の部分、つまり陥没骨折の前方の部分が最も深く陥没することになるが、そうだからといって、陥没の浅い後方の部分、つまりm線のうちでもC骨折板欠損部に近い方の部分に、バットが接触しなかったとすることはできない。)、バットの打撃によって、高取鑑定人の所見のようにバットが直接に接触しなかったとしても、、が陥没すると同時に、もx線の部分で陥没し、x線とy線が形成されることは十分考えられることである。したがって、三宅医師自身もB骨欠損が陥没骨折に随伴して生成された可能性のあることを認めていることを合わせ考えると、三宅医師の所見から直ちにB骨欠損が独立創傷であると認定することはできない。

次に、船尾医師の所見は、高取鑑定人と同様、B骨欠損は陥没骨折に随伴して生じた可能性が高いとするのであるが、その理由として、B骨の内板と外板は完全に分離しているところ、従前の多数の鑑定経験にも徴し、このような分離は陥没骨折(特に鈍体の凶器の場合)に随伴して生じるもので、刺器によって頭蓋骨に穿孔創が生じる場合には内板と外板が完全に分離することは通常あり得ず、創の幅ももっと狭いものとなり、頭蓋骨に既に骨折線が生じている場合でも内板と外板が完全に分離することは極めて少ないことをあげている。船尾医師が、その多数の鑑定経験からB骨欠損が随伴創傷である可能性が高いとする点は、多年の経験、専門的知見を有する法医学者の見解として相当の重みを有しているといわなければならず、本件B骨欠損部については鋭器が刺入したと解さなければならないような特有の骨折状況がみられないとする点で高取、木村両鑑定人の所見とも一致するものであるが、頭蓋骨に既に骨折線があり、この部分に刺器が刺入した場合でも、内板と外板が完全に分離することは極めて少ないとの見解については、高取、木村両鑑定人の所見に照らすと、やや疑問としなければならない。

次に、高取鑑定人は、前記のとおり、大山の頭蓋骨の各骨折線の成因について、頭蓋骨を撮影した写真によって骨折部の断面等をよく観察し、骨内板と骨外板の欠損の状況を比較検討した上で、B骨欠損は陥没骨折に随伴して生じたものと考えるのが妥当であると結論している。ところで、高取鑑定人が鑑定資料に用いた頭蓋骨を撮影した写真の中には、骨折部の断面等が不鮮明なものがあって、細部においては必ずしもその指摘するほど明瞭でない部分がないわけではないが、渡辺鑑定書中の「上方骨折縁に外板が内板より以上に欠損している部分がある」との記載にも照らし、高取鑑定人の観察したところは概ね頭蓋骨の状況と合致しているし、骨折の原理や推論の過程も一応相当であり、全体的に不合理なものとはいえないと考える。なお、同人も、独立創傷の可能性を全く否定するものではない。

これに対し、検察官は、高取鑑定人の所見によれば、y線とy線に続くb3―b4―b5までの骨折線はほぼ全長にわたって外板の方が内板より大きく欠損しているから、頭蓋腔内から外に向かう力が作用したことによって生成されたということになり、そうすると、B骨欠損部はy線の延長線とされるb3―b4―b5の骨折線を有しているのであるから、その骨内板が内から外への力によって頭皮側から向かうことはあっても、高取所見のように内板のみが頭蓋内に押し込まれて硬脳膜を破り大脳実質内に刺入することはあり得ず、高取所見は整合性を欠いており、B骨欠損内板は、それとは別の外から内に向かう力、すなわち、陥没骨折を生じさせた力とは別個独立の七徳ナイフの刺入という力により頭蓋内に押し込まれたものであると主張する。

この検察官の主張も一応首肯し得る点もないではない。骨内板が外板とともに外方に向かうことは、一つの可能性としてはあり得るものと思われる(その場合、B骨内板の頭蓋内嵌入は、別個独立の力の作用によることになる。)。

しかしながら、高取鑑定人は、前記のとおり、骨折の発生状況によっては、外力の作用した部分が陥没しそれに隣接する部分について陥没部の方向とは反対の方向、つまり外方に向かい骨折する力が作用することがあり、このような場合陥没部では内板が外板より大きく欠損するが、外方に向かう部分では、反対に外板が内板より大きく欠損するようになるという屈曲骨折の原理を前提として、B骨欠損部を構成する骨折線の一つであるb3―b4―b5の骨折線部の外板が内板より大きく欠損していることからこの部分に外方に向かう力が作用したと考えるとともに、骨片、と骨片の間のx骨折線は陥凹していることやこれにb1―b2―b3の骨折線が近接していること等からb1―b2―b3の骨折線部は、、陥没部を生ぜしめた外力の作用によって陥凹したものと推論しているのであって、b3―b4―b5の骨折線部に外方に向かう力が作用したといっても、それはb1―b2―b3の骨折線部が骨片の辺縁としてx線とともに陥凹したことの結果ないし反作用とも考えられるから、B骨全体が外方に押し上げられることを意味するものではない。高取所見が整合性を欠くとは必ずしも認め難い。また、検察官は、直達力の及んだ部分(m線)ですら穿孔骨折が生じていないのに、直達力の及んでいない間接骨折部であるB骨欠損部のみに穿孔骨折が生じた理由について、随伴創傷説では合理的な説明ができないと主張する。なるほど、外力が直接作用したと考えられるm線には骨欠損が見られないが、外力が最も強く作用したと考えられるm線とz線の接合部付近から比較的離れた位置にあるB'及びCに骨外板欠損が見られるのであって、これらはB骨欠損部のような完全な骨欠損ではないけれども、陥没骨折に随伴して生じたものと考えられるから、少なくとも外力が直接作用した部分以外のところでも骨外板と骨内板とが剥離して骨欠損を生じる可能性があることを示唆するものといえるし、本件では、打撃の作用方向は、上下に垂直ではなく、m線上に外側上方から内側下方(高取昭和五九年三月九日付鑑定書、船尾二次再二審供述)に斜めであるから、m線を中心として、その左下方の方向に強い力が作用したとも考えられ、頭骨の強弱の分布等によってはこのような穿孔骨折ができないとはいい難いと思われる。

なお、高取鑑定人は、二次再二審において、二次再一審での三宅供述添付の図面によるとB骨欠損部の内板と外板はほぼ同じような大きさで図示されていることから、これをもってB骨欠損は独立創傷ではないことの根拠の一つに挙げているけれども、三宅医師は、右の図を作成した際、大きさはわからないと供述し、また、二次再二審においては、B骨欠損部の外板は発見できなかったから内板との大きさの比較はできなかったと供述しているのであるから、同図をもって内板と外板がほぼ同じ大きさであったと認めることはできない。ただし、高取鑑定人は、当審において前記のように写真から外板の方が大きく損傷していることを認めているのであるから、右の点は同人の当審見解に影響がない。

そうすると、高取所見のように、直達力によって陥没が生じた部分以外のところでも、これと隣接する部分では外方に向かう力が作用して骨内板と骨外板とが剥離し、骨内板が頭蓋内に嵌入する可能性があるというべきである。以上によれば、本件頭蓋骨の所見からは、B骨欠損は独立創傷と随伴創傷の両者の可能性があるといわざるを得ないものの、検察官の主張するような独立創傷説については、その可能性が高いとまでは認められないものである。

(Ⅱ) B骨欠損の成傷器が七徳ナイフである可能性があるか

三宅鑑定書によれば、B骨欠損部は長径約二センチメートル、短径約一・五センチメートルのほぼ菱形状をしており、骨表面における凶器の幅は一・五センチメートル以下であるとされているところ、被告人の供述する七徳ナイフは、刃の長さ約二寸五分(約七・六センチメートル)、刃の幅約五分(約一・五センチメートル)、刃の厚さ約一分(約〇・三センチメートル)というのであるから、凶器と創傷の大きさの比較という点から言えば、本件七徳ナイフによってB骨欠損を生じさせることは可能である。

ところで、渡辺医師及び高取、木村両鑑定人の所見を総合すると、B骨欠損部のある頭頂部の後界の頭蓋骨の厚さは六ミリメートル前後であるから、頭蓋骨に全く損傷がない場合にはナイフを刺しても頭蓋骨に骨欠損を生じさせることは相当難しいが、仮にナイフのような鋭器が頭蓋骨に刺入した場合には、木村鑑定人によると、先に触れたように、刀背作用部分に不規則な小陥没骨折に放射状の亀裂骨折(随伴骨折)、刃部作用部分にも亀裂骨折、刺入刀身による骨折の両側あるいは片側にもほぼ並行して走る亀裂骨折がそれぞれ形成されるはずであるのに、本件の骨折状況は右性状と異なるというのであり、また船尾鑑定人も、前記のようにナイフのような刃器では本件よりももっと幅の狭い穿孔創となるというのであるから、B骨欠損部付近に骨折がなかったとすると、ナイフでB骨欠損部を刺入したものと考えることはできない。しかし、木村、高取、渡辺各鑑定人の所見によると、b1、b2、b3、b4、b5を結ぶいずれかの線に既に骨折が生じていたり、あるいは、隣接する部分に骨折が生じていた場合には、ナイフは頭蓋骨を比較的容易に刺突し得るし、既に骨折が生じていたB骨欠損部に七徳ナイフのような成傷器が刺突されれば、B骨欠損を生じる可能性があり、その場合には、骨折等の異常のない頭蓋骨をナイフで刺突した場合に通常形成されるような骨折は形成されず、単なる不規則な骨折あるいは骨折縁に沿って刀背部に粟粒状の欠損部分を形成するだけであるとされるから、本件で認められるB骨欠損部及びその周辺部の骨折状況とも特に矛盾しないと考えられる(本件において後者の粟粒大の欠損があったとはされていないが、B、B'骨外板は存在しないから、右の欠損があったとしても証拠上は不明である。)。

これに対し、三宅医師は、B骨欠損部の外板がなくなって内板のみが脳内に押し込まれていること、また、それと同時にx線とy線の両骨折線を生ぜしめていることから、B骨欠損を生ぜしめた凶器は、B骨欠損部の形状に適合し、かつ少なくともバットと同じ位の重量のあるものでなければならず、例えばピッケル状のものがこれに適合するが、七徳ナイフは到底考えられないとの所見を述べている。しかしながら、三宅医師は、そもそもピッケル自体どういう物であるか正確には知らなかったというのであり、また、前記のとおり、x線とy線の両骨折線を生ぜしめたのは、陥没骨折を生ぜしめたと同じ外力なのであるから、これらからみても三宅医師のピッケル説は不合理であるというべきである。船尾医師も、B骨欠損を生ぜしめた凶器はナイフのような刃器ではないとするのであるが、それは右のようにB骨欠損部に既に骨折線があることを前提とするものではない。

以上によると、B骨欠損が全くの独立創傷である場合には、その成傷器が本件七徳ナイフであるとは認められないが、既にB骨欠損部に何らかの骨折が生じていた場合には、本件七徳ナイフによってもB骨欠損が生じ得るのであり、その場合骨内板が頭蓋内に嵌入する可能性もあると認められる。しかし、可能性があるとはいっても、それは偶然のことであり、頭部の大きさからいってB骨欠損部の骨折線や隣接部にたまたま七徳ナイフが刺入してB骨内板を内部に押し込んだ可能性はそう高いものとまでは認められないであろう。また、七徳ナイフに替わる物、例えば、雑木の枝、笹等が、埋没までの死体運搬過程においてB骨欠損部に作用してB骨内板を内部に押し込んだ可能性も皆無とはいえないであろう。

(Ⅲ) 大脳損傷の有無及び成傷器

三宅鑑定書によると、頭蓋骨のB骨欠損部に対応する大脳の部分に深さ約二・五センチメートル、長径一・八センチメートル、短径〇・五センチメートルの刺創があったとされ、三宅供述によると、B骨内板は大脳に刺入されていたものでなく、開いた創口に一部が落ち込んでいたにすぎないし、創洞も見ることができたとされ、さらに、これを刺創と判断した根拠について、それがある程度の深さをもっていたこととその創傷部の脳膜だけに生前のものと思われる出血の跡が見られたことを挙げ、右刺創は生前のものであるとの所見を述べている。そして、検察官は、右三宅所見を根拠に、三宅鑑定書によれば創傷の深さは少なくとも約二・五センチメートルあったことは否定できないから、創傷内に骨内板が全部嵌入したとしてもなお余りがあることになり、このことは創傷が骨内板の嵌入以外の成傷原因によって生じたことを示すものであると主張する。

そこで、まず、死後二年間土中に埋没されていた本件死体の脳について、生前に生じた刺創を確認することができるか否かについて検討する。

木村鑑定人は、昭和六〇年七月一〇日付回答書の中で、本件死体の脳は、写真の上では未だ脳溝が識別される状態に見えるので、少なくとも脳表面の損傷は識別することが可能であり、また脳の表面が乾燥し内部が屍蝋化した状態であるように思料されるから、このような脳においては形成された刺創は半永久的に保存されていることになるとし、また当審公判においては、死後二年間土中に埋没されていた脳について出血の跡を判別することはできるとし、三宅医師の所見とある程度符合する内容の所見を述べている。これに対し、渡辺、船尾両医師の各所見及び高取鑑定人の二次再二審における所見は、いずれも、死後二年間土中に埋没されていた脳は高度に腐敗が進行しているから、生前の刺創の有無を確認することも、創傷による出血の跡を判別することも不可能であるとする。

しかし、木村鑑定人は、当審において、本件の詳細な資料を前提として鑑定した結果、本件の脳は表面がやや乾燥した屍蝋であり、損傷等の異常のあることは識別し得ても刺創か否かの区別は極めて困難であり(鑑定書)、傷の長さや幅を測り、何かが刺さったということは分かる程度である(当審供述)というのであって、前記回答書の見解を若干変更しているように思われること、一方、高取鑑定人も、当審における鑑定では、本件死体のように屍蝋化した脳においては、脳表面に形成された創の刺入口のある程度の形状は、死後二年を経過した場合でも判別することができる可能性があることを認め、前回の鑑定所見を実質的に変更していること、木村鑑定人の解剖事例として、約二年間土中に埋没していた死体の脳に約指頭大の暗褐色の乾燥した血痕二個が付着し、硬脳膜の損傷部周囲にも出血があった症例があること(同人作成の昭和五九年一月一八日付鑑定書謄本、同人作成の昭和六〇年六月一八日付回答書、同人の当審供述、検察官尾崎幸廣作成の同月二一日付捜査報告書)にも徴すると、死後二年間土中に埋没されていた本件脳について、その表面においては生前の創傷の有無を確認し得る場合があると考えられるが、それが刺創であるか否かまで判断するのは困難であると思われる。そして、前記のような三宅鑑定書の内容、特に、創傷部分に骨片が存在し、同所の脳膜に出血痕があったとされること、本件解剖に立ち会った警察官小野寺松四郎も、傷の部分が黒ずんでいたように思う旨当審で供述していること等を合わせ考えると、三宅医師が大山の死体の脳を観察した時点において、それが刺創かどうかはともかくとして、大脳に何らかの損傷が存在したことはこれを認めざるを得ず、その損傷は生前(死亡直後も含む)に生じた可能性が高いと思われる。しかし、本件の脳の表面に出血痕があったからといって、それは直ちにその部分の脳の損傷に起因するとは限らないから(木村鑑定人作成の六月一八日付回答書によると、硬膜血管の損傷部からの出血の可能性もないではない。)、右損傷が生前のものであると断定まですることはできない。

一方、脳の内部については、法医学者である前記高取、渡辺、船尾鑑定人、医師が一致して脳が軟化融解して液状になるとしていること、木村鑑定人も、鑑定書において、本件の脳は表面がやや乾燥した屍蝋であるものの、内部・脳底部は腐敗融解あるいは軟化していた状態であったろうと推測していること、また、同人は、当審公判において、脳をある程度幅のある凶器で刺した場合、それは豆腐を刺すと同じであり、創傷は、それができる部位によって創面がくっついたり広がったりするが、本件の場合はその部位から考えて開いていたと考えられると供述しているものの、本件創傷は大脳頭頂葉のやや後方に位置し、しかも三宅医師の所見によっても、大脳表面に対して垂直になっていたうえ、死体は発見時のように仰向けの状態で約二年間置かれたから、木村鑑定人の説明からはむしろ内部創面は隙間なく融合していたのではないかと考えられること等を総合すると、脳の表面が屍蝋化して創口がある程度開いたままの状態を保っていたとしても、創洞の内部では創面は融合していた可能性が極めて強いと考えられる。したがって、創洞を見たという前記三宅供述は容易には採用しがたいといわなければならない。同人が、創洞らしきものを見たというのであれば、それは、「骨を取り除いてみたら、奥深い傷があった」と述べていること(二次再二審)にも徴すると、同所に挿入されるようにあったというB骨内板の除去後の空間を創洞と誤認したか、あるいは三宅医師、高取、木村両鑑定人の各所見でも明らかなように、本件の脳は沈下萎縮して原形の大きさをとどめていないのであるから、脳が沈下萎縮していく過程において脳内に嵌入していた骨内板が元の位置にそのまま取り残されて、あたかも創口付近にまで押し上げられたような状態になった可能性あるいは同所がやや乾燥した屍蝋で崩れやすかったから死体の発掘、運搬等の過程で骨内板が移動した可能性もないではないと思われ、そのために生じていた間隙を創洞と誤認したとも考えられるのである。もし後者であれば、骨内板が創口付近に落ち込んでいたように見えても不思議ではない。また、木村鑑定人らによれば、脳の創傷を検査するには、脳を頭蓋骨内から摘出した上、割を加えて創洞を計測するのが通常の方法であると認められるが、三宅医師は、このような方法をとらず、ただ、、の各骨片を取りはずしただけで、しかも創口からゾンデを差し込みその感触で深さを計測したというのであり、外科医の手法と法医学者の手法に差違があるにせよ、渡辺、船尾、高取、木村の各法医学者の見解に徴すると、このような計測方法で果たして正確な数値が得られたかどうか、すなわち、深さが約二・五センチメートルあったのかもすこぶる疑問であるといわざるを得ない。

以上によると、創洞を見た、刺創の深さが約二・五センチメートルであったという三宅供述は直ちに措信し難く、刺創の一部にB骨内板が存在したことを根拠として右内板による損傷とは別個の創傷があったと推認する検察官の前記主張も採用し難いといわなければならない。

しかし、前記のように本件の脳の表面には損傷があったとされるから、さらに、これがナイフ刺入により生じたものか、B骨内板の刺入により生じたものかについて検討をすすめなければならないところ、三宅医師は、前記のように脳の表面に長径一・八センチメートル、短径〇・五センチメートルの傷があったとし、矩形状の形状を図面に記しているのであるが、同人は、二次再二審では、矩形であるはずがなく、形状については記憶がない、短径については一番太いところを測ったもので傷のいずれの部分であるか不明であると供述するのであり、脳表面がやや乾燥して屍蝋化し、崩れ易いこと、脳実質は沈下縮少していて原形が保たれているとはいえないこと、前記のような木村、高取所見にも徴すると、脳表面に何らかの創口らしきものが存在したとしても、これをもって成傷器の種類を判別することは不可能であるといわざるを得ない。

また、高取鑑定人の当初の所見のように、三宅医師が観察した損傷が、大山の死後、すなわち、大山の死体の発掘、運搬、解剖のいずれかの時点において生じたものと考えることの当否については、検察官は、B骨欠損部の骨内板は、高取鑑定人によると約一グラムの重さであるから、これが頭蓋骨内に落下したとしても相当程度の堅さを保っていた脳に約二・五センチメートルの深さの創傷を生じさせたとは到底考えられないし、また、大山の死体は、発掘時、解剖時もほぼ仰向けの状態にあったから、B骨欠損部と大脳の創傷の位置関係からすると、B骨欠損部の骨内板が頭蓋骨内に落下したとしても、大脳の創傷部に落ち込むことはあり得ないと主張するけれども、創傷の深さ約二・五センチメートルという数値は、凶器推定の基準となるほどの信頼性を有しないことは前記のとおりであり、また、発掘から解剖までの間に死体が受ける衝撃の種類はさまざまであって、その方向によっては、骨内板が真下に落下するとは限らないから、本件の脳表面がやや乾燥した屍蝋で崩れやすいことにも徴すると、死体発掘から解剖時三宅医師が損傷を観察するまでの間に、骨内板が脳内に嵌入する可能性も全くないとはいえないと思われる。

以上、脳表面に存在する本件損傷の形成原因としては、既にB骨欠損部の成傷器を検討したのとほぼ同様、① 陥没骨折時の骨内板の嵌入、② 陥没骨折に伴い形成されたB骨の骨折線ないし隣接部への刃器の刺入、③ 同部分への死体埋没時までの間の異物(木の枝、笹等)の刺入、④ 同部分に剥離、存在していた骨内板の死体発掘・運搬・解剖時における嵌入等が考えられるところ、高取鑑定人は、前記のように①の立場に立ち、損傷部分に骨内板が存在したから、その状況から素直にその成傷原因を説明するのが自然であるというのであり、一応の説得力を有すると考えられるが、未だ他の可能性を否定することはできず、結局、本件脳損傷の成傷機転は右①ないし④のいずれとも断じ難いといわなければならない。

(Ⅳ) 以上のまとめ

右の(Ⅰ)から(Ⅲ)まで考察したとおり、頭蓋骨の陥没骨折に伴いB骨欠損部に既に骨折が形成されていた場合においては、右B骨欠損が七徳ナイフにより形成された可能性があり、また、大脳の損傷が七徳ナイフによって生じた可能性もあるから、その限りでは、被告人の自白と符合する可能性があるということはできる。したがって、右の点で被告人の自白が事実と整合しないと判断するのは早計であろう。しかし、その蓋然性はさほど高度なものではないから、被告人の自白が頭蓋骨及び脳の損傷の客観的状況により十分に裏付けられているとまではいえない。

(Ⅴ) 七徳ナイフの刺突態様に関する被告人の自白と刺突部位について

弁護人は、被告人の自白する刺突態様ではB骨欠損部を刺突することはできないと主張するのに対し、検察官は、被告人の刺突行為に関する自白には不確定であいまいな部分が含まれている上、被告人が自白している大山の転倒姿勢は、被告人が大山にバットによる一撃を加えて転倒させた時点での大山の姿勢であって、大山の頭部を七徳ナイフで刺突すべくその頭部付近に腰を低くして右膝をついた時点において確認した大山の姿勢ではないのであり、本件現場、特に大山の倒れた場所が低照度の暗やみであったこと、大山はうめきながら身体を動かしていたこと、犯人としては、極度に緊張、興奮した心理状態にあったことなどを考慮に入れた上、被告人の自白内容を検討すれば、被告人の自白する刺突態様によってもB骨欠損部を刺突することは十分可能であると主張する。

右の点に関する被告人の自白の内容は、本項((三))冒頭に記載したとおりであるが、要するに、大山は、仰向けに近い姿勢で倒れて顔を右側に少し曲げており、身体を少し動かしていたが、ナイフを右逆手に持ち、頭を目がけて右膝をついて上から下へ真っすぐに握っている右手の小指が頭にぶつかる位刃全部をグサッと頭に突き刺したというのである。

そこで考察すると、B骨欠損部は、矢状縫合の右側で、右頭頂部から右後頭部にかけての部分に位置するから、仰向けに倒れた大山が顔を真上に向けている場合及び顔を大山自身からみて右側の方へ曲げている場合は、いずれも、B骨欠損部は地面に接するような位置にくるため、右のような上から下に真っすぐに振りおろす刺突態様ではB骨欠損部に七徳ナイフの刃を突き刺すことはできない。もち論頭骨の面に対し垂直に突き刺すこともできない(三宅供述によると、前記のように刺創は脳に垂直に入っていたという。)。大山の顔が左側の方に曲げられていた場合は、B骨欠損部は、右の場合よりはやや上方に位置することになり、上から下へ真っすぐにおろすと、位置によっては刃がB骨欠損部に当たる可能性がないではないものの、その場合でもナイフは概ね頭頂骨後部から後頭骨にかけての湾曲部付近の頭蓋骨の表面を接触するように下がるか、頭蓋骨の浅いところを斜めに突き刺すことになり、刃が全部刺入する可能性は少なく、刃が若干でも刺入する時はむしろB骨欠損よりも大きな骨欠損を生じさせる可能性が高いように思われる。また、さらにいうならば、既に生じている骨折線にそってナイフが深く刺入する可能性は、頭蓋骨の面に対しナイフが垂直に当たる場合に高いと思われるが(骨折線に対し斜めに当たる場合は、頭皮、頭髪のためナイフが滑る可能性もあり、細い骨折線にナイフが深く刺入する可能性はかなり少ないように考えられる。)、右のように上から下へ真っすぐにおろした場合、ナイフが頭蓋骨に垂直に入る可能性はない(以上、押収してある頭蓋骨模型昭和六〇年押第五号の118のもの参照)。この場合、上から下へ真っすぐでなく、円弧を描くように地面と平行に近い角度で刺入すれば、刃が脳の中央部に向けてほぼ直角に入る可能性があるけれども、それでは自白の内容と若干食い違うことになろう。上から下に真っすぐ振りおろされた七徳ナイフがB骨欠損部に刃体全部が入るほど深く、ほぼ垂直に突き刺さるためには、B骨欠損部のある右頭頂部から右後頭部にかけての部分が真上にこなければならない。つまり、大山が仰向けに倒れていた場合には単に頭部を持ち上げただけでは足りず、少なくとも上体を起こさなければならず、反対に大山がうつ伏せの状態であった場合には、頭部を持ち上げることが必要である(もっとも、刃体全部が突き刺さるほど深く刺入するためには、頭部が地面に固定されている必要があるようにも思われる。)。

ところが、被告人の自白には、「大山が身体を少し動かして『ウウン』『ウウン』とうなっていた。」との供述があるものの、仰向けに近い姿勢で顔を大山自身から見て右側の方に少し曲げて倒れていた大山が、B骨欠損部が真上にくるような挙動をとったことを窺わせるものはない。もち論、大山は苦痛の余り種々の挙動に出る可能性がないでもなく、しかも、犯行現場は暗やみで、かつ犯行のクライマックス時における犯人の心理状態を考慮すれば、大山の挙動を細部まで認識することができなかったことも、また、犯行後約二年が経過し被告人の記憶が失われたということも考えられないわけではないが、被告人は、大山が転倒した時の状況について比較的詳細に供述しており、特に大山が仰向けに近い姿勢で顔を大山自身から見て右側の方に少し曲げて倒れたなどと、大山の顔の向きまで明確に供述しているのであるから、その後刺突する段階で、仰向けに倒れていた大山が上体を起こしたとか、あるいは仰向けの状態からうつ伏せになったとかいう比較的大きな挙動があれば、犯行現場が暗やみで、かつ普通の心理状態ではなかったとしても、腰を低くして右膝をつき大山の頭部を七徳ナイフで突き刺そうとする被告人によって認識されないということは通常考えられず、また、被告人の検察官に対する供述調書の内容は全体的に詳細であることから、この点に関する記憶だけが失われたとも考えにくく、当然供述中に現われてくるものと思われる。そもそも、被告人の検察官に対する一〇月一九日付供述調書を素直に読めば、バットによる打撃と七徳ナイフによる刺突は引き続いて行われたと認められるのであり、その間の比較的わずかな時間に大山の姿勢に変化があったことを窺わせる証拠はないから(身体を少し動かしていた程度である。)、被告人の自白する大山の転倒姿勢は、転倒した瞬間だけのものではなく、七徳ナイフで刺突した時点の姿勢をも指していると読めないでもないのであり、自白調書の内容を合理的な範囲内で解釈するとしても、せいぜい被害者は仰向けに転倒した姿勢で顔を左に向けていた可能性がある程度であろう。

さらに、検察官の指摘するとおり、刺突態様に関する被告人の自白には、大山は転倒後どのように身体を動かしていたのか、被告人は大山の頭部のどこを狙って刺したのか、七徳ナイフは大山の頭部のどこに突き刺さったのかなどについて必ずしも明確ではない点があって、このことは確かに被告人の心理状態が通常のものではなかったことを示すものであるとするも、だからといって、供述のあいまいさが証明力を高めるものでないことは論をまたない。すなわち、供述内容があいまいで多義性を有すれば推測の範囲が広がることになり、客観的事実と符合するような推測が可能とはなるけれども、推測のうちの一つが客観的事実と符合する可能性があるからといって、供述内容そのものの証明力が高まることにはならないのである。

以上、刺突時における被害者の姿勢に関し、被告人の自白内容をそのまま「仰向けに転倒した被害者が顔を右側に向けていた」という趣旨に採ると、自白による刺突態様(上から下に真っすぐに、刃全部が刺入するほど深く)ではB骨欠損部に刺創を与えることはできないし、また、被告人の自白の内容を可能な限り合理的に解釈して、「仰向けに転倒した被害者が顔を左側に向けていた」場合を想定するとしても、自白による刺突態様でB骨欠損部に刺創を与えることのできる可能性は低いといわざるを得ず(ましてや、いずれの場合も、三宅供述のように脳に対し垂直に刺入する創を形成することはできない。)、被告人の自白による刺突態様と大山の頭部の創傷部位とは符合しない可能性が高いというべきである。

(Ⅵ) まとめ

以上のとおり、七徳ナイフで大山の頭部を刺突したとする被告人の自白は、頭蓋骨、脳の客観的損傷状況により十分に裏付けられてはいないうえ、刺突の態様との関連では頭部の創傷部位と符合しない疑いが強いといわざるを得ない。そして、この点は、犯行状況に関するものであるだけに、被告人の自白の信用性を判断する上において、相当の消極要素として考慮せざるを得ない。

(四)  その他

弁護人は、梅田自白には、バットによる打撃とナイフによる頭部刺突に関する供述以外にも、事実に反する点があり、自白の信用性を検討する上で看過することができない旨主張するので、以下順次検討する。

(1) 青年会館裏の薪

弁護人は、梅田自白のうち、青年会館の裏側に薪が積んであり、その下にバットがあったという部分は、客観的事実に反し、被告人が昭和二七年一〇月四日に初めて現場に連れて行かれた際の状況に従って虚偽を述べたものである旨主張する。これに対し、検察官は、右の程度の事実の食い違いは、自白の信用性を判断する上で、考慮に値しない旨主張する。

そこで、大山の殺害に使用されたというバットの隠し場所に関する被告人の捜査段階における供述を見てみると、後に指摘するようにバットの授受の状況については供述の変遷が見られるものの、犯行当日までの隠し場所については、一貫して「青年会館の裏側」となっている。そして、その隠し場所の状況については、梅田自白(第三回検面)では、「青年会館の裏側の仁頃市街寄の方に薪が積んであり、その下部の方に手を突込んだところ、……中略……バットでありました。」、「(積んである薪の下部と)板壁と二、三寸位開いていたのです。その二、三寸位の隙間の地面上に木端が積って縁の下をふさいでおり、その木端の上に……中略……置いてあったのです。」となっているほか、被告人の第一回員面では、「青年会館の裏縁の下に突込んでかくしておきました。」となっており、岡部副検事作成の同月八日付検証調書では、被告人は、「青年会館裏に積んであった薪と会館建物との隙間の下に匿してあった野球用のバット……中略……」という旨供述し、右バットの隠匿してあった箇所として同会館裏の薪の積んである南端(向かって左側)の下方を指示した上、「当時は現在よりも薪が少なく右指示した箇所よりも更に右側に寄った下であったかも知れない。」旨も供述したとなっている。

ところが、昭和二五年当時北見市高台東部青年団団長として当該青年会館を管理していた太田三郎は、同人の一〇月二〇日付巡面及び原二審において、昭和二七年一〇月当時には、青年会館の正面に向かって左側及び裏側に薪が積まれていたが、そのうち裏側の薪は同年春に積んだものであり、昭和二五年当時に薪が積んであったのは向かって左側のみである旨述べており、右供述は、同人の立場、供述全体の内容等からみて十分に措信することができる。

そうすると、梅田自白中の前記部分は事実に反することになるが、その理由としては、① 薪の存在につき被告人に錯誤があった、② バットの隠し場所につき被告人が青年会館の裏側と左側とをうっかり取り違えて述べた、③ 実体験ではないことを単なる被告人の想像で述べた、④ 何らかの目的で被告人があえて虚偽を述べた、以上のいずれかであるということになろう。そして、右の事実との食い違いは、その供述対象や事件後約二年を経てからの供述であることなどからすると、一見、検察官の指摘するように、記憶が薄らいでいるために①又は②のような誤りを生じたものとも理解できそうである。しかしながら、被告人の捜査段階における自白が「裏側」で一貫している点、被告人が前記検証調書及び第三回検面においてバットの探索やその発見場所等についてかなり具体的な供述をしている点、薪の存在とバットの隠し方とが密接不可分な形で供述されている点、被告人の犯行当日の行動及び凶器の準備にも関係しているので、忘れやすい細かな事柄とはいいかねる点、殊更に虚偽を述べてみても特段被告人に利益のあるような事柄ではない点などに徴すると、①の可能性はほとんど考えられず、また、②又は④と解してみてもかなりの不自然さは否めない。そうすると、被告人が一〇月四日及び八日に問題の青年会館に赴いていることからすれば、その際に見た薪の状況等を参考としてバットの隠し場所について作り話をしたものと推測することも十分可能である。

このように考えてくると、右事実の食い違いは、それ自体では極めて重要視すべきものとも、また、逆に考慮に値しないものとも解されないが、前記(二)、(三)の問題点とも合わせ考えれば、梅田自白の信用性を検討する上で、消極的考慮要素を一つ付け加えるものということができる。

(2) 絞頸縄の巻き数

弁護人は、大山の頸部に巻き付けられていた縄の巻き数が梅田自白では二巻きとなっているが、実際には三巻きであって、事実と食い違っている旨主張する。これに対し、検察官は、右のような食い違いがあるとしても、極度の興奮状態下にあった被告人の記憶違いにすぎず、自白の信用性を揺るがすものではない旨主張する。

そこで、被告人の捜査段階における供述のうち、右の点に関する部分を見ると、梅田自白(第三回検面)では、「麻縄を取り出して、大山の頸に巻き付け二巻きして力一杯ギュッとその麻縄を絞めて、両端を大山の右頸のところで一度交錯させてから、その縄の大山からみて左側のものを右の交錯箇所で既に頸に巻き付けた縄の下に差し込みました。」となっており、そのほか、第一回員面では、「首に二巻きしてグッと絞めて一方の端を絞めた細引にはさみ……」と、第三回員面では、「首に二、三回巻いて絞めつけて……」と、司法警察員遠藤富治作成の一〇月四日付実況見分調書では、「首に二、三回巻き付けて絞めながら……」と申し立てたと、岡部副検事作成の同月八日付検証調書では、「首を二回巻いて絞めたところ、同人は絶命し……」旨供述したとそれぞれなっている。以上の自供の経緯及び各調書の文言からすると、被告人は、検察官に対し、大山の頸部に麻縄をぐるりと二巻きして絞め、その縄の両端を既に巻き付けてある縄の下にはさみ込んだ旨自白したものと解するのが相当であり、被告人の第三回検面をもって全体として三巻きした趣旨の供述であるとは解し得ない。

他方、発掘された大山の死体の頸部に巻き付けられていた縄の巻き数は、三宅鑑定書及び三宅原二審供述によれば、三重に巻かれていたとなっているが、当時の捜査官である遠藤富治、阿部正一及び高須正男の各第一回検面並びに司法警察員伊藤力夫作成の一〇月一日付実況見分調書では、いずれも二巻きとなっている。そこで、どちらを採るかであるが、三宅医師は死体発見の翌日これを解剖した医師であり、その解剖に際して頸部をおおっている土をすべて流し落とした上、これを精査した者であるのに対し、他の者らは右死体の発掘時に土を一部取り除いた状況で頸部を見たり、あるいは右解剖に立ち会った者にすぎないこと、縄の巻き方及び結び方と縄の長さ(渡辺鑑定書から推測すると約一四七センチメートル)とを対比してみると、三巻きであっても特段不合理ではないことなどからすれば、三宅医師の述べるとおり三巻きと認定すべきである。したがって、梅田自白中、絞頸縄の巻き数に関する部分は、客観的事実に反するといわざるを得ない。

ところで、絞頸縄の巻き数の食い違いという問題は、興奮状態におけるとっさの行動に関する供述中の誤りといえるので被告人の記憶違いにすぎないという見方もできないわけではない。しかしながら、前記各証拠に照らすと、被告人の取調べ当時、捜査官らは、絞頸縄の巻き数が二巻きであると誤認していたものと認められ、そうだとすると、被告人の前記各供述は、捜査官の誤った誘導ないし教示によって作出された可能性も否定できない(一〇月四日の第三回員面及び実況見分調書では「二、三回」となっていたのが、その後はっきりと「二回」となっている点に注意を要する。)。そうすると、右事実の食い違いは、些細なものとして看過することはできず、梅田自白の信用性を低下せしめる考慮要素の一つに数え入れるべきである。

(3) 羽賀宅で羽賀の母親と会った日

弁護人は、被告人が羽賀宅で羽賀の母親と会った日は、梅田自白では昭和二五年一〇月六日ころとなっているが、これは昭和二三年ころの誤りである旨主張する。

そこで検討するに、被告人の第二回検面では、昭和二五年一〇月六日ころ買物のため北見市街へ出て来た際、羽賀宅へ立ち寄ってみたが、羽賀は不在であって、同人の母親と会い、玄関に腰をかけて休ませてもらい、お茶をごちそうになっていたところ、間もなく昼ころに羽賀が帰って来てコーヒーをごちそうになり、同人や母親と被告人及び羽賀の嫁取りの話などの世間話をした後、午後一時ころ羽賀と共に同人宅を出て二人で東五丁目の通りの方へ歩いて行く途中、金儲けの話に誘われたことになっている。

しかし、被告人は、原一審公判以来、右の羽賀宅訪問の事実を強く否定している。そこで、関係証拠を検討するに、まず、羽賀の実母である羽賀ふじよの一〇月二二日付第一回検面では、「仁頃に居るという梅田さん……中略……は、私の家に一度来た記憶はあります。何ですか戦争後二、三年たって砂糖のたくさん配給になった六月ごろでしたでしょう。正午過ぎころ、……中略……来て、竹男はその時居なかったと思うが、梅田さんは、『仁頃の梅田という者で竹男さんと軍隊友達だ。』とか言っており、用件はたしか『高丈(注、地下足袋のこと)がないだろうか。』と言って来たようでした。そして、玄関の上がり口に腰をかけて休み、『畑の仕事をするのにはく物がなくて困った。』という話をしており、私は、煮ていた豆を皿に盛って食べて行きなさいと言って出したら、それを食べて一時間位居て帰りました。私の記憶にある梅田さんが私方に来た事実は、これだけで、他には今のところありません。」となっている。また、被告人の実父である梅田房吉の一〇月六日付第一回員面では、「二三年か二四年ころでないかと思いますが、義光が一度羽賀さんの家へ行った時に羽賀さんが家に居らず、何でも営林局に勤めているとかと羽賀さんの母が言っているところへ羽賀さんが営林局からお昼を食べに来たのと会って……中略……お茶をいただいて弁当を食べて来たと義光が言っていたのを聞いたことがあります。そのほか、羽賀さんの家へ行ったことも、聞いたこともありません。」となっており、基本的には前記羽賀ふじよの検面に合致する内容となっている。

右のうち、梅田房吉の員面については、その調書の作成された時期が逮捕の五日後であって、被告人と打ち合わせなどができるはずもないころであること、右時期は被告人が自白を維持していた期間にも当たること、梅田房吉は、一〇月二〇日付第二回検面及び原一審第一七回公判供述においても、基本的には右員面の供述内容を変えていないこと(前者では、昭和二三、四年のこととなっており、後者は、はっきりしないが、昭和二五年より前で、被告人が復員になって帰った翌年ころの夏ころと思うとなっている。)などからみて、その供述内容に作為はなく、取調べ当時の記憶のとおり述べられているものと解される。また、羽賀ふじよの検面は、直接の体験者の供述である上、その供述当時、羽賀は大山事件を自白しているのであるから、ふじよが殊更に偽りを言うべき理由も考え難いところであり、また、昭和二三、四年の訪問を記憶していて、昭和二五年の訪問の方を忘れているというはずもなく、さらに、前記梅田房吉の員面とも基本的に合致していることなどからすると、その供述内容は、概ね措信できるものと考えられる。

他方、この点に関する羽賀の供述には変遷があるが、羽賀は、第一回検面では、昭和二三年春ころ被告人が一度羽賀宅に遊びに来たことがあり、その際母が嫁取りのことを聞いており、その後昭和二五年八月末か九月初めころ被告人が再び立ち寄ったが、母は不在であり、この時本件の相談を持ち出した旨、第六回検面では、昭和二五年の送別会の四、五日後に大山と会い、その二、三日後に被告人が羽賀宅を訪ねて来たが、これは被告人が二回目に来たものであり、この時共犯者として被告人を誘うことを考え、母がいつ帰宅するか分からないので辰巳食堂に行った旨、原一審第七回公判では、昭和二二年四、五月ころ、被告人が羽賀宅を訪れ、母が被告人に嫁さんのことでやりとりをした旨、また、原一審第二二回公判では、昭和二二年の六、七月ころの昼ころ被告人が羽賀宅を訪れ、地下足袋が手に入らないだろうかという話をし、母も嫁をもらったかなどと聞いていた旨、それぞれ述べている。

以上を総合考慮すると、被告人が、昭和二二年ないし二四年ころに一度羽賀宅を訪れ、その時羽賀の母親と会って高丈(地下足袋)や被告人らの嫁取りの話などをしており、それ以外には羽賀宅で羽賀の母親と会ったことはないという事実は、ほぼ間違いのないところと考えられる。そうすると、前記梅田自白は、昭和二五年一〇月六日に羽賀と会う前に羽賀宅で羽賀の母親と会っていると述べている点において、事実に反する疑いが相当に強いものということができる。

この食い違いは、本件犯行の実行行為ないしは共謀自体についてのものではないものの、共謀成立に至る過程の中の重要部分に関するものであり、しかも、被告人が原一審公判から当審公判に至るまで概ね一貫して述べている弁解、すなわち、昭和二五年一〇月六日に羽賀宅を訪れたと述べたのはでたらめであり、これは昭和二三年に羽賀宅を訪問した際の状況を思い出して捜査官に供述したものであるという弁解を相当裏付けるものであるから、梅田自白全体の信用性に疑問を投げかける要素の一つと評価することができよう。

(4) 絞頸縄の結び方

弁護人は、梅田自白による絞頸縄の結び方は、事実と異なっている旨主張する。これに対し、検察官は、被告人の捜査段階における絞頸状況に関する供述は、実際の絞頸状況と合致しているかどうか不確定であるから、事実に反するものと断定することはできない旨主張する。

そこで検討するに、被告人が捜査段階において、橋本検事の前で丸太を大山の頸部と想定して実演して見せたという結び方は、既に右丸太が廃棄されているため直接確認することはできない。したがって、右の実演をした際の供述である被告人の第三回検面における供述を検討してみるべきである。右検面によれば、大山の首を絞めた縄の結び方は、「両端を大山の右頸のところで一度交錯させてから、その縄の大山から見て左側のものを、右の交錯箇所で既に頸に巻き付けた縄の下に差し込みました。……中略……この頸の縄の結び方は、私が自家用の雑穀を精米所に出す際、その雑穀俵を縄で縛る時の縛り方でありまして、相当手荒く俵を取り扱っても縄は緩みません。」となっている。

他方、実際に大山の死体の頸部に巻き付いていた細引の縛り方を見てみると、三宅鑑定書添付の絞頸部前面模型図によれば、若干判然としない部分があるものの、絞頸縄の結び方は、三巻目の残りの縄を、それぞれ三巻目の縄の下を通すようにして、首の前面で交錯させ、また、三巻目の縄は、一巻目の縄を上から押さえるような形になっており、交錯後の余り縄については、大山から見て左側の縄は他の縄にはさむなどの何らかの措置をせず、そのまま放置されていることが認められる。また、大山から見て右側の余り縄の措置及び一巻目の時に既に交錯されているのかどうかという点は、これを確定することができない(なお、二次再一審において、三宅医師は、実際の結び方がどうであったかという点について説明を試みているが、右説明は明確ではない上、推測にすぎないものと考えられ、しかも前記模型図と合致するのかも疑問であるので、採用の限りでない。)。

そうすると、絞頸縄の実際の結び方は、梅田自白に述べられている結び方とは、大山から見て左側の方の余り縄の処理の点で明らかに異なる上、緩みにくい結び方と称することも無理であると考えられる。また、右認定の実際の結び方は、被告人の原一審第二七回公判供述、被告人の当審第五回公判供述等からみて、雑穀俵を縄で縛る時の縛り方とは違うものと考えられる。したがって、梅田自白中絞頸縄の結び方に関する部分は、事実に反する疑いがかなり強いものといわざるを得ない。この食い違いは、興奮状態における被告人の瞬時の行動に関するものであるから、被告人の単なる記憶違いという可能性もないわけではなく、したがって、これのみを見て重大視するということはできないが、他の点とも合わせ考えると、自白の信用性を検討する上での消極的考慮要素の一つにはなろう。

(5) ズボンの血痕付着の有無

(Ⅰ) 序

弁護人は、梅田自白では、犯行時に着用していたズボンには血痕が付着していたことになっているが、犯行の際に着用していたものとして押収された作業衣のズボンには、昭和三六年六月一六日付船尾血痕鑑定書等により血痕付着の事実が認められないから、右自白は客観的事実に反する旨主張する。これに対し、検察官は、船尾血痕鑑定の対象たる作業ズボン一本(以下「本件作業ズボン」という。)と捜査段階において鑑識を行ったズボンのほどき布地四枚(以下「本件ほどき布」という。)は同一ではない上、これらが実際に被告人の犯行時に着用していた衣服であるのか否かも明らかではなく、しかも、これらに血痕が付着していなかったと断定することもできず、また、船尾血痕鑑定によれば、本件作業ズボンには、血様斑が認められたというのであるから、仮に本件作業ズボンが本件犯行時に被告人が着用していたズボンであるにもかかわらず、血痕の付着がないとしても、被告人が右斑点を血痕と勘違いしていた可能性もあり、したがって、いずれにせよ弁護人の主張は失当である旨主張する。

(Ⅱ) 血痕の未検出であることの意義

そこでまず、血痕の付着に関する梅田自白を見るに、被告人の第三回検面では、被告人が犯行の翌朝、前夜はいていたズボンを見ると前の腿のところに点々と上から垂れるようにちょうど筆の先から墨が垂れたような形に血が付いていたので、洗濯石けんを使って洗い落としたということになっている。なお、右供述は、既に被告人の第一回員面において、「翌朝、ズボンに血が付いていたので、誰にも気付かれないようにして洗ってしまいました。」という言い方で現れている。

ところが、一次再一審において新証拠として提出された作業上衣一着と本件作業ズボン(当審においても、昭和六〇年押第二四号の119及び120として押収されている。)及びこれらにつき昭和三六年以降に血痕付着の有無等を鑑定した船尾血痕鑑定書三通によれば、双方とも間接法によっても直接法によっても血痕付着の事実が認められなかったことが認められ、また、梅田房吉作成の一〇月四日付提出書、司法巡査阿部正一作成の同日付領置調書、司法巡査阿部正一及び同横道春雄作成の同日付「証拠品の領置について」と題する書面及び巡査小野寺松四郎作成の一二月六日付「証拠品の鑑定について」と題する書面によれば、一〇月四日に司法巡査阿部正一が梅田房吉から濃茶色鳥打帽子一個、薄ねずみ色上衣一枚及び薄ねずみ色のほどき布地四枚(これが前記本件ほどき布である。)の任意提出を受けてこれらを領置したこと、これらについては、国家地方警察北見方面隊鑑識課において血痕付着の有無の鑑識が行われたが、いずれからも血痕の反応は認められなかったことが認められる。

しかしながら、本件においては、被告人の取調べに際して、本件作業ズボン又は本件ほどき布を被告人に示して被告人からそれが本件犯行時に着用していたものである旨の供述を得た供述調書は見当たらない。そうすると、仮に、本件作業ズボン及び本件ほどき布に血痕が付着していないとしても、そこから直ちに梅田自白が客観的事実に合致しないと評価することはできない。

もっとも、本件作業ズボン又は本件ほどき布が実際に本件犯行日時とされる時刻ころに被告人が着用していたものと認められるのであれば、血痕の付着がないということは、重要な意味を有することになるし、また、実際に犯行時刻ころに被告人が着用していたか否かが不明であるとしても、被告人がその自白中において犯行時刻ころに着用していたと指摘した衣類と本件作業ズボン又は本件ほどき布との同一性が確認できるというのであれば、自白の信用性を検討する上での考慮要素の一つにはなり得るものといえよう。

(Ⅲ) ズボンのほどき布

そこで、さらに検討を進めるに、梅田自白(第三回検面)では、被告人が本件犯行に出発する際、「元日本海軍の作業衣の上衣とズボンを身に付けました。中古の作業衣でありました。色は灰色でありました。この作業衣の上下は、現在北見の警察にあります。」となっている。また、被告人の第一回員面によれば、任意性の有無は別として、被告人は捜査官に対し、犯行時には、「海軍のネズミ色のような作業服、ズボンは、やはり海軍のネズミ色の平ズボンで下の方を直したり、……中略……を身につけていた。」旨供述していた事実が認められる。以上の供述及び前記(Ⅰ)掲記の各証拠を考え合わせると、本件ほどき布は、阿部巡査及び横道巡査が昭和二七年一〇月四日、被告人の前日の前記供述に基づいて被告人が犯行時に着用していた衣服を探すために被告人を伴わずに被告人方へ赴き、前記供述に合う衣類として領置して来たものと認められ、被告人が第三回検面において犯行時に着用していたと供述したズボンと同一のものである可能性がかなりあるといえよう。

しかし、他方、被告人が犯行時の着衣について前記検面及び員面で述べていることもそれほど明確というわけではなく、ズボンを特定するには不十分であり、かつ、本件ほどき布に直接言及している部分は存在しない。したがって、本件犯行後どのような経緯でほどき布となったのか、またその後の使用・保管状況についても供述がない。さらに、前掲各証拠にある本件ほどき布についての説明を見ても、それだけでは、前記同一性を認定することはできず、しかも、証拠上、本件の捜査当時、捜査官は他にも色々な衣類を被告人方から持って来ていたらしいことも窺われるところであるし、犯行時からその領置まで約二年間も経過している(当審証人小野寺松四郎供述等)。そうすると、結局、先に述べた以上に、本件ほどき布が被告人が前記検面及び員面において犯行時に着用していたと指摘したズボンのものであると断定することはできず、まして、本件ほどき布が犯行日時とされる時刻に被告人が実際に着用していたズボンのものであるとも認定することはできない。さらに、本件ほどき布の鑑識にあたって、どのような方法が採られたのかも判然とせず、本件ほどき布の使用・保存状況(例えば、雑布として使用したことがあるかもしれない。)等に照らしてその鑑識結果にどの程度の正確性が認められるのかという点も全く不明である。

そうすると、いずれにせよ、本件ほどき布に関する前記鑑識結果をもって、梅田自白の信用性を論議することには、無理があるといわざるを得ない。したがって、右鑑識結果は、梅田自白の信用性に影響しないものと考えられる。

(Ⅳ) 作業ズボン

次に、本件作業ズボンについては、その縫製の状況等外観から見て、薄ねずみ色のほどき布四枚を再び縫い合わせたものとは考えられないので、本件ほどき布との同一性は認められない。また、押収、領置関係の書証、あるいはその他の証拠によっても、本件作業ズボンの来歴を客観的に確定することは困難であり、のみならず、前記作業上衣一着と本件ズボンが旧海軍の作業衣であることを示す証拠も見当たらない。また、本件ズボンの外観等から、これが被告人が前記検面及び員面において犯行時に着用していたと指摘したズボンと同一のものであると認定することも無理である。そうすると本件ズボンをもって、被告人が犯行日時とされる時刻ころに実際に着用していたズボンであるとか、あるいは、被告人が前記検面及び員面において犯行時に着用していたと指摘したものと同一であるという事実を認めることはできない。したがって、本件ズボンに血痕が付着していなかったとしても、その事実をもって梅田自白の信用性を減殺することはできない。

仮に、本件ズボンが、捜査官において被告人が犯行時に着用していたものらしいと判断して、被告人方から押収していった物であるとしても、そのような事情だけでは、本件ズボンに特別の意義を付与することはできないといわざるを得ない。本件ズボンに血痕が付着していないことが梅田自白の信用性を低減させるというためには、先に述べたとおり、自白中で本件ズボンに直接言及しているか、又は自白中で、犯行時に着用していたと指摘したものとの同一性が認定できるか、あるいは被告人が犯行日時とされる時刻に着用していた衣服であると認定できる場合でなくてはならず、前記事情は、単に捜査官の捜査が効を奏しなかったことを示しているだけであるから、梅田自白の信用性とは無関係である。

以上によれば、本件ズボンに関する船尾血痕鑑定も、梅田自白の信用性を論議する材料には用いることができないというべきである。

(Ⅴ) 付言

なお、右のように、梅田自白にいう犯行時着用のズボンと本件作業ズボンもしくは本件ほどき布との間の同一性が認定できないとしても、前記のように、警察では被告人方からそれらしき相当数のズボンの提出を受けて血液付着の有無を検査したことが窺われ(前記当審小野寺供述)、被告人も犯行時着用のズボンが現に警察にある旨供述しているところ、これらにつき血液が付着しているとの証拠が全く存在しないこと、少なくともそれが提出されないことは、被告人の右供述と適合しないという点でその供述の信用性に影響があるように思われるけれども、前記のように、それらのズボンの提出までの保管・使用状況や血液検査の方法等が不明であるから、この点をもって直ちに右のようにはいえないと考えられる。しかし、既に(一)、(4)で触れたように、自白を裏付ける客観的証拠がないという観点からは自白の信用性判断に影響がないとはいえない。

(6) まとめ

以上のとおり前記(1)ないし(4)の点に関する梅田自白には、事実と適合しない部分、あるいは適合しない可能性の高い部分があると認められる。これらの問題点は、先に判断したバットによる打撃とナイフによる頭部刺突という二つの実行行為の態様に関する梅田自白の事実との不整合性と比べれば重要性が低いが、自白の信用性を検討する上で看過することはできず、前記(二)及び(三)における判断を前提として、さらに、これらの問題点を合わせ考えるならば、梅田自白の事実との不整合性を更に際立たせるものと評価できる。したがって、(1)ないし(4)の諸点も自白の信用性を減殺する考慮要素というべきである。

3  自白内容の不自然、不合理さ

(一)  序論

弁護人は、梅田自白には、内容的に不自然、不合理であって、常識上にわかに首肯し難い点が多数ある旨主張し、① ナイフ刺突による血痕の後始末、② 死体埋没作業により手・衣類等に付着したはずの土や泥の後始末、③ 大山との出会い、④ 自転車の存否、⑤ 一〇月八日の謀議内容の矛盾、⑥ 犯行日の決定経過、⑦ 一〇月一〇日の待ち合わせ時間の不特定、⑧ 犯行日の被告人の行動、⑨ 犯行直前の被告人の行動、⑩ バット隠し持ちの姿、⑪ 三種の凶器の使用、⑫ ナイフによる頭部刺突、⑬ 素手による死体の埋没、⑭ 大山の所持していた風呂敷、⑮ 強取金の焼却、⑯ 暗やみにおける犯行の各点を指摘する。

そこで、以上の諸点を中心に、以下、真犯人であるならば、容易に説明することができ、また言及するのが当然と思われる事実について、説明、言及がないもの、供述内容自体が常識上首肯し難いもの、供述内容自体が若干不自然、不合理なもの、弁護人の主張が採用できないものの順に分けて、判断を示す。

(二)  真犯人であるならば、容易に説明することができ、また言及するのが当然と思われる事実について、説明、言及がないもの

被告人の自白には、岡部副検事作成の一〇月八日付検証調書及び司法警察員遠藤富治作成の同月四日付実況見分調書の被告人の各指示説明部分、被告人の同月三日付第一回、同月四日付第二回、同日付第三回各員面の供述部分を合わせても、被告人が自白に示された事実を実際に体験し、自白に述べられているような行動を行ったのであれば、容易に説明ができ、また言及するのが当然であると思われる事実について、不自然なほどに説明、言及が欠けている部分がある。以下の(1)及び(2)に述べる説明、言及の欠缺は、梅田自白全体の信用性を減殺する要素といわざるを得ない。

(1) 手・着衣等に付着したはずの泥・土・血液の後始末

弁護人は、ナイフ刺突による血痕の後始末(前記①)及び死体埋没作業により手・衣類等に付着したはずの土や泥の後始末(前記②)について、何ら説明、言及がないのは、自白の真実性を疑わしめるに十分である旨主張する。

そこで、まず、梅田自白中、右指摘に関係する部分を見ると、第三回検面では、被告人は、一〇月一〇日夜、山径で大山の後頭部をバットを短くしたもので殴り付けた上、握っている右手の小指が頭に当たるほどナイフで大山の頭を深く突き刺し、さらに、絞頸後全裸にした大山の死体を近くの沢底に掘られていた穴まで引きずり下ろし、穴に落とした上、穴の脇に積まれていた土を素手で深さ四尺位の穴に入れ戻して死体を埋没したことになっている。

また、被告人が大山をバットで殴った時から本件犯行現場付近を離れるまでの時間については、これを梅田自白中に示された大山に会った時刻、被告人方に帰着した時刻、柴川木工場から本件犯行現場までの徒歩による所要時間、柴川木工場から被告人方までの自転車による所要時間、前認定の右各区間の距離(約一九〇〇メートル及び約一四キロメートル)等から推定すると、概ね午後七時五〇分ころから午後九時二〇ないし三〇分ころまでということになる(なお、本件の他の関係証拠をも合わせ考えると、実際の殺害現場が大山の死体の発掘現場の近くであるとすれば、大山の殺害時刻が早くとも一〇月一〇日午後七時五〇分ころであることは、ほぼ疑いを容れない事実といってよいであろう。)。さらに、昭和五八年八月三〇日付札幌青少年科学館長作成の「天象状況について(回答)」と題する書面によれば、右の犯行時刻は、午後四時五〇分ころの日没から約三時間ないし四時間半を経過しており、また、午後四時一〇分ころの月の入りからも約三時間半ないし五時間以上を経過していることが認められる。また、梅田自白によれば、その殺害現場は、畑から林の中へ入った付近の山径ということになり、死体の埋没現場は、その山径の横の沢の底であり、そこまでの死体の運搬経路は、雑草や雑木等の繁茂する急傾斜地を降り、又は横断し、あるいは斜行するものであって、岡部副検事作成の一〇月八日付検証調書によれば、距離約二二・四メートルとなっており、被告人の第三回検面では、明確ではないが右よりわずかに長い程度の行程が示されている。

そうすると、このような時刻に、このような場所で、梅田自白にあるとおりの殺害行為や死体の運搬・埋没等を行えば、両手はもち論のこと、着衣・靴等は、当然、泥や土でひどく汚れているはずであり、また、血液についても少なくとも右手には付着していたものと思われ、他に着衣等にも付着した可能性が高いものと考えられる。

また、梅田自白によれば、大山の死体の埋没後、羽賀に、大山の衣類等を包んだ風呂敷包みと大山の所持していた現金入り風呂敷包みとを渡し、同人から裸のままの紙幣の束を受け取って上衣のポケットに入れ、一旦柴川木工場まで戻り、自転車に乗って帰宅途中、小便をした上、右紙幣を勘定し、午後一一時ころ帰宅して自室の床に入り、翌朝早くに床を出たところ、前夜脱いだズボンに血痕が付いているのを発見したということになっている。その間手足を洗ったり、着衣の泥等を落としたりしたなどといった供述はない。したがって、自白のとおりとすれば、手・着衣等に、泥・土・血液等が付着するはずであり、そうであれば、遅くとも、羽賀と風呂敷包み等をやり取りした際か、帰宅途上、あるいは翌朝には、被告人がこれに気付いて後始末をしないはずがないものと考えられる。なお、梅田自白によれば、被告人は、犯行当日、札幌のブローカーとして大山と会ったというのであるから、泥等が付いても目立たないような汚れ着を着用していたわけではないという前提で考察すべきであろう。

以上によれば、本件においては、梅田自白全体の詳細性及び具体性の程度と比較すると、右の泥・血液等の付着の事実やその後始末についても、説明、言及があって当然と思われる。ところが、被告人の捜査段階の供述には、翌朝ズボンの血痕付着に気付いて洗い落としたとするほか、泥・血液等の付着やその後始末についての説明、言及は一切ない。これは、不徹底な自白というほかない。しかも、右のズボンの血痕やその後始末についてかなり具体的な供述があることからすれば、他に何らの言及、説明がないことは相当に不自然であると評価せざるを得ず、この点は梅田自白の信用性を減殺する要素といえよう。

(2) 死体の運搬・埋没、着衣集め等の苦労

(Ⅰ) 序

弁護人は、梅田自白には、大山の殺害、死体の運搬、埋没穴の発見、埋没、着衣や風呂敷包み及びバットの発見等の一連の行為について、困難さを感じさせる供述が一切なく、不自然、不合理な供述になっている旨主張する(前記⑯)。

(Ⅱ) 自白内容

そこで、大山を殺害した後の行動に関する梅田自白を見ると、被告人は、大山を絞頸後、両手を持って沢寄りの草むらの中へ引き下ろし、衣類を全部脱がせた上、更に四間(約七・二メートル)位沢の方へ引っ張り、一旦、そこに死体を置き、羽賀が掘っておくと言っていた穴を捜すために沢へ降りてこれを見つけ、死体の両手を持って穴へ引っ張り下ろし(この行程の距離は明記されていないが、被告人の第三回検面添付第六図を岡部副検事作成の一〇月八日付検面調書に照らして考えると、概ね五間(約九メートル)前後ということになろう。)、穴の中に落としてから、中に横たわるように直し、穴の両側に盛り上げてあった土を両手で死体にかけて埋没し、それから大山の着衣を脱がせた場所に戻って大山の着衣等を全部集めて風呂敷に包み、その後山径に戻って大山持参の風呂敷包みや凶器のバットを拾ってから現場を離れたことになっている。そして梅田自白や被告人のその他の供述中には、照明を用いたとか、運搬、埋め戻し等のための道具あるいは手袋等を用意したという供述は見られず、全体の趣旨からすれば、灯火やスコップ等も使用せず、右のような作業を素手ですべて一人で行ったということになる。

(Ⅲ) 地形、植生等

そこで、このような作業を行った場所の地形、植生等を更に詳細に見てみると、本件発生のほぼ二年後に施行された実況見分及び検証の結果を記載した、司法警察員伊藤力夫作成の一〇月一日付、同遠藤富治作成の同月四日付、副検事坂本好作成の同月二三日付及び同副検事作成の一二月四日付各実況見分調書、岡部副検事作成の一〇月八日付検証調書並びに本件から約二年八か月後に施行された検証の結果を記載した原一審の昭和二八年八月三日付検証調書を合わせ考えると、本件犯行から約二年後の状況につき、判示冒頭認定事実を含め以下の事実が認められる。

本件犯行現場付近は、国鉄北見駅から約二キロメートル以上離れた北見市街の北方の小山の起伏する丘陵地帯の中にあり、梅田自白に示された殺害現場は、市街地から一ないし二キロメートル離れており、北見駅から北方約一キロメートルを隔てた北見市五条東六丁目から分岐して仁頃に至る仁頃街道(北見市高台仁頃通り、昭和二七年当時は、人馬、車の往来頻繁)を北西へ約一九〇〇メートル進み、同街道から北東方向へ分岐している山径を約八〇ないし一〇〇メートル入った場所であり、沢の付近を除いて農耕地帯となっている。仁頃街道の前記基点から約一〇〇メートル進んだ所にある柴川木工場付近までは、人家が多く、また、右木工場から約一一〇〇メートル進んだ所に東陵中学校があり、同中学校を過ぎると、道路脇の人家もまれであって、犯行現場に至るまでは、青年会館(同中学校から一〇〇メートル進んだ所にある。)と農家三戸しかない。梅田自白に示された殺害現場は、右東陵中学校から約七〇〇メートル進んだ所から畑の中を北東へ分岐する幅員約三メートルの山径を一〇〇メートル弱程度進んだ地点であり、右分岐点から山径を約八五メートル進んだあたりから畑が途切れ、その北西側(分岐点から進行して左側)は丘陵であって、道路際より柏の幼木、雑草等が密生した雑木林となっており、東南側(同じく右側)は沢の起点につながる低地であって、道路際には四尺幅位で、笹・よもぎ・萩等が四、五尺丈に密生している。沢底(床)までの間は、右の雑草や細い雑木等の茂ったやぶになっており、その下り勾配は、前記一〇月八日付検証調書において脱衣場所とされている地点が約四〇度、同調書において殺害現場とされている山径から右脱衣場所までの間(行程約六メートル)は明確でないが約二五度以上四〇度未満程度、右脱衣場所からほぼ山径と並行に約七・四メートル進んで同調書において一旦死体を置いておいたとされる場所も約四〇度、そこから約一・九メートル下方から始まる沢の斜面が約五〇度であって、同部分の沢の幅が約七・三メートルである。右の死体を置いておいた場所から約九メートル北東方向に離れている死体埋没地点は、直径一尺(約三〇センチメートル)、丈二一尺(約六・三メートル)位のアカダモの木の真下に位置する。沢は、丁度そのあたりで狭くくびれた形となっており、最も狭まった箇所では、深さ約三・六メートル以上数メートル、両側の傾斜が約八〇度の急峻な崖にはさまれており、その上縁の幅は約二・四メートル(右アカダモの木とその対岸にあるイタヤの木の各根本付近を沢の上縁とすれば、幅約四・三ないし四・五メートル、深さは約五ないし七・五メートル)、崖底の幅は約一・〇五ないし一・四メートル程度となっている(以上につき、別紙見取図第一図及び同第二図参照)。以上のとおり認められる。

本件犯行後、前記検証等までの間に右事実に変化があったかもしれず、殊に沢の地形や植生には、若干変化があった可能性が高いが、他方、前記検証等まで、犯行後約二年間しか経過していないことや、沢といっても、梅田自白において殺害現場とされている付近の下ぐらいから始まっているものであって、死体運搬経路や埋没穴付近は、水が流れているわけではないようであること等からすれば、犯行時の状況も概ね右のようなものであったものと推認することができる。

また、羽賀の指示に基づき掘り返された大山の死体の埋没穴は、前記一〇月八日付検証調書によれば、同日現在で前記の沢の最も狭まった箇所あたりから沢の下手方向へ細長く掘られ、幅が上縁で約一・二五メートル、長さが約二・三メートル、深さが約一・三メートル(被告人の第三回検面では四尺位)のものが存在しており、被告人の指示によると、右の最も狭まったあたりに頭部、もっと沢底が広くなっている沢の下手方向に足がそれぞれ来るようにして死体を穴におさめ、埋没したということになっている。

以上によると、殺害現場から埋没現場に至る地形、植生、穴の位置及び形状等の物理的諸条件のもとで、梅田自白に示されているような死体の運搬、埋没穴の発見、素手による埋没、着衣集め等の一連の作業を進めることは決して容易なものではなく、むしろこれら諸条件が右一連の作業の重大な障害となっていることが明らかであり、本件犯行現場付近は、一人で右のような作業を行うには本来適さない場所といえよう。

(Ⅳ) 犯行時刻当時の明るさ

次に、梅田自白による本件犯行時刻ころの犯行現場付近の明るさについて検討するに、二次再二審における相場鑑定書及び相場尋問調書(以下、これらに同人作成の昭和五九年六月二二日付補充意見書を合わせて「相場鑑定」という。)では、殺害現場付近及び埋没現場付近の犯行当時の明るさは、それぞれ、5.6×10-4ルック及び3.11×10-4ルックスであるとされている。しかしながら、右数値は、本件犯行当時と同一条件下での実測値ではなく、種々の推定ないし仮定に基づいた計算値である上、その計算の基礎となる月のない星明かりのみの明るさについては、論者により10-3ルックスから3×10-4ルックス位までかなり幅があること、本件犯行当時の北見の市街地の明るさや仁頃街道沿いの地域の明るさは相場鑑定においても十分確定されているとはいえないこと、本件犯行現場付近が、北見の市街地からそれほど隔たっておらず、犯行現場から道なりに約八〇〇メートル弱離れている東陵中学校付近からは、人家も少なくないこと、犯行時刻も深夜ではないこと等を勘案すると、相場鑑定に示された夜間の照度を推計する一般論に従って考えても、都市光や近隣の灯火の影響がなかったとは断定できないし、犯行現場付近の明るさを確定値をもって認定したり、あるいは弁護人の主張するように、どんなに明るくても相場鑑定に示された数値以下であると認定することは、できないものと考えられる。なお、相場鑑定に示された、夜間の照度の実測結果、夜間の明るさを推計する手法(都市光の影響等についての結論を除く。)、夜天光や人の視覚に関する一般論、暗所下における視覚に関する実験の結果等については、その内容自体や各種文献(オーム社発行照明ハンドブック、照明学会発行「やさしい明視論」、鳥居修見著サイエンス社発行「視覚の心理学」、池田光男著森北出版発行「視覚の心理物理学」の各写抜粋)及び東京天文台長作成の昭和五八年四月二二日付捜査照会回答書写、立原良三作成の同年一〇月一一日付捜査照会回答書、大場信英作成の昭和五九年四月一〇日付意見書等を総合勘案しても、特段不合理な点は見当たらないので、相場鑑定に示された前記一般論等は、本件の判断資料の一つとするに適するものと考えられる。

そこで、これまでの認定事実に照らして、改めて本件犯行現場付近の明るさについて判断すると、梅田自白に示された犯行日時は、秋も深まった一〇月一〇日であって、日没後約三時間から四時間半を経過したころであり、月も沈んでいたことになっているので、太陽の残照も、月明かりも全くなく、また、人家等の明かりの影響もそれほど大きくなく、主に星明かり(夜天光)がある程度の暗がりであって、殊に、埋没現場付近は、崖の上の木々の間から星明かりが射し込む程度であって、暗やみに近かったものと推認される。そして、視覚や夜天光等に関する前掲各証拠や、大場信英作成の昭和五九年四月二五日付書簡、相場鑑定に示された前掲の一般論、実験結果、さらには、相場鑑定書によれば昭和五八年一一月一日午後一一時二〇分から同月二日午前一時一五分までの間月のない快晴の条件下で本件犯行現場の近くにおいて照度を測定したところ、1.25×10-3ルックスであったことや、本件犯行現場の地形(平地ではないが山中でもない。)、植生(林の中とまでは解されない。)、地域性(人家のまれな地域ではあるが、市街地には近い。)、時刻(天文薄明終了後であるが、通常の生活時間帯には含まれている。)、天候(快晴)等を考え合わせると、本件犯行現場付近の照度は、相場鑑定に示された数値を上回る可能性もあるが、これを大幅に上回っていたとは考え難く、せいぜい明るくても前記の1.25×10-3ルックス以下であり、暗ければ、3×10-4ルックス以下の部分もあり得たのではないかと解される。

(Ⅴ) 暗所下での視覚と本件一連の作業

そこで、次にこのような暗所下での視覚について検討するに、前記大場作成の書簡及び相場鑑定その他前掲各証拠によれば、暗順応が完成するのに必要な時間は概ね三〇分ないし一時間位であること、暗順応が完成した場合、通常、光覚を起こす最低の明るさは10-4ルックス以下に下がること、暗順応下における絶対的シキイ(閾)値は10-5ルックス程度(なお、「視覚の心理学」によると、10-6ミリランベルトとされる。)であること、10-2ルックス以下では暗所視の状態に陥ること、暗所視の状態では、色覚がなくなって明暗しか分からなくなり、物の形もおぼろげで、はっきりしなくなること、しかし、3×10-4ルックス程度の星明かりの下でも、細かな物の形は識別できないものの、地上の物をおぼろげに見ることはできること、相場鑑定に示された5.6×10-4ルックス及び3.11×10-4ルックスの照度の下でも、直径八・五センチメートルの円内に幅一・三センチメートルの白と黒の格子パターンを書いた円板は、概ね、前者では二・五メートル、後者では二・二メートルの距離まで近付けば視認できること、右のような低照度下においても、人間の頭、身体、手足などの大ざっぱな輪郭程度は視認することができること、が認められる。

以上によれば、本件犯行現場付近では、視覚は暗所視の状態になり、ほとんど暗やみに近いような場所もあるものの、一、二メートル程度の距離では、比較的大きな物の形、位置などをおぼろげに知ることは、十分可能であったと考えられる。

(Ⅵ) 一連の作業の困難性

以上の検討を前提として、梅田自白に示されている一連の作業の実行可能性を考えると、被告人は本件犯行を実行したころ、暗順応がほぼ完了した状態にあったものであり、近くに寄れば物の形を見ることもできる程度の明るさはあったと考えられるし、また目印や手掛かりになるような大きな木、地形の変化、小さな雑木、大きな雑草等もあったのであるから、前記の死体運搬経路のような急傾斜地においても、ゆっくりと慎重に行動すれば、動き回ったり、位置を確認したりすることはできるものと考えられる。

また、このような急傾斜地や暗い沢底で、死体の運搬、穴の埋め戻し、着衣集め等の作業をするのであれば、当然、草木をつかんだり、手で探ったり、足下を足で探るなどといった行動によって、自分の体勢を保持したり、周囲の地形、状況等を確かめたりするはずであり、それが知覚の一部を代替するはずであるということにも留意すべきである。また、崖の上り降りについては、被告人の第三回検面では、穴を捜しに行った際にも、死体を引き下ろした際にも、崖を直降、直登しているかのような供述になっているが、明確ではなく、岡部副検事作成の一〇月八日付検証調書に照らすと、沢のもっと上手の方から五〇度程度の傾斜地を斜行して、上り降りしていた可能性もある。さらに、穴の発見についても、沢の上手に降りることができさえすれば、下手へ歩いて行くことにより必ず盛り土と穴とにぶつかるのであるから、明暗にかかわらず、それほど困難なものとはいえないであろう。

このような諸点からすると、梅田自白に示されているような死体の運搬、埋没穴の発見、埋没、着衣集め等の一連の作業は、自白にある犯行日時及び犯行場所の諸条件の下でも、実行不可能又は著しく困難であるとはいえない(バットによる打撃については、既に判断したとおりである。)。しかしながら、これまでに検討してきたところを考え合わせると、被告人は、色彩や細かな物の形は分からず、一、二メートル先の物をおぼろげに見ることができる程度の暗がりの中で、明かりもなしに、沢につながる急傾斜のやぶの中を、一人で死体を運搬し、一旦死体を置いて、自白上、事前に見たことのない崖下の穴を捜しに行ってこれを発見し、再び急傾斜のやぶを通って死体を沢底まで引っ張り下ろし、暗やみに近い狭い沢底でほとんど沢底の幅一杯に掘ってあった穴の中に死体をうまくおさめて素手で土をかけてこれを埋め、さらに暗がりの草むらの中で大山の着衣等を全部拾い集めたということになり、このような作業は相当な困難を伴うものと認められる。また、先にも触れたように、草木を手でつかんで身体を保持したり、手探りあるいは足探りで移動したり、作業をしたりしなければ、本件犯行現場のような物理的諸条件の下で右のような作業を行うことは、著しく困難であったはずと考えられる。

(Ⅶ) 不言及・不説明

ところが、梅田自白を見ても、前記のような一連の作業が相当に困難であったことを窺わせる供述は全くなく、急傾斜地での死体の運搬も、沢底へ降りて埋没穴を発見し再び死体を置いておいた所へ戻ることも、穴の埋め戻しや着衣集め等も、何の障害も受けずに白昼行っているかのような供述となっている。先に検討したところからすれば、一連の作業に際しては、手探り、足探りで移動したり、草木につかまって体勢を保持したり、あるいはそれに失敗して転倒したり、死体が草木に引っ掛かったり、転げ落ちたり、慎重に沢底へ降りる道筋を見定めたり、手探りで苦労して穴の埋め戻し及び着衣集めをしたり、また、膝をついたり、四つんばいになったり、腹ばいになったり、大変な苦労があったものと推認される。しかるに、梅田自白等には、右のような点は、全く触れられていないのである。

これは、説明、言及があって当然の事実について、説明、言及がされていないものと評価せざるを得ない。そして、その欠缺の程度は、かなり不自然な域に達しているものといえよう。しかも、被告人自身の殺害行為直後の行動に関する事柄や、死体埋没の実行行為自体に関する事柄である上、自分が苦労したのであれば、印象も強いはずであるから、一連の作業の苦労や作業の詳細等をすっかり忘れてしまったということも、通常は考えられないところであろう。

そうすると、死体の運搬・埋没、着衣集め等の一連の作業の苦労について何らの説明、言及がないことは、梅田自白の信用性を検討する上で、かなり大きな消極的考慮要素になるものと解される。

(三)  供述内容自体が常識上首肯し難いもの

梅田自白には、以下のとおり、供述された内容それ自体が、一般論としては不自然、不合理であって、常識上首肯し難い点があり、それらも、梅田自白全体の信用性を減殺する要素といわざるを得ない。

(1) 動機

梅田自白中、本件犯行の動機に関する部分を見ると、被告人が昭和二五年一〇月六日ころ、たまたま羽賀宅を訪れた際、その帰り道において、羽賀から、ホップの取引をして金儲けをする話に誘われ、家の生活が苦しいので、金儲けができればよいと思って、その仕事をするのはいつなのだと尋ねるなどして別れ、その後、同月八日に羽賀宅へ赴く途中、同人と会ったところ、取引場所を見に行こうということになり、本件犯行現場の方へ向かったが、本件犯行現場付近で突然同人から、実は金を持ってくることになっている大山を殺して金を奪うのだという話を聞かされ、さらに、今になってから止めるというのであればお前の命にかかわるなどと脅されたので、右の脅しとそこへ向かう途中羽賀に対し金儲けの話を手伝うということを何度もはっきり言っていた意地とで、同人の誘いを断り切れず、これを引き受けたということになっている。

このような金儲け、羽賀の脅し文句及び一旦手伝うと言った意地という程度では、一般論としては、強盗殺人という重罪を犯す動機として、やや弱過ぎ、不自然であることはいうまでもないところであろう。しかも、ホップの取引を手伝うのと人を殺して金を奪うのを手伝うのでは、同じ金儲けでも天地の差があるのであるから、梅田自白のように、犯行の二日前に突然強殺の話に変更されても、普通であればそう簡単に引き続き協力することにはならないはずであり、いわんや、一旦手伝うと言った以上、その意地があるなどといったことは、話が違ってきた以上問題にならないはずである。したがって、前記のような経緯と理由によって本件犯行に加担したという梅田自白は、特段の事情のない限り、動機に関する供述がかなり不自然、不合理であるというほかない。

そこで、本件においては、この程度の動機でも、被告人が本件犯行を犯すような事情が存在していたのかどうかという点を見ると、後に詳述するとおり、そのような事情は存在せず、むしろ、被告人の人間像、生活状況、経済状態、羽賀との関係等から考えると、被告人は、当時、一般論としては、本件犯行のような重大犯罪とはかなり縁遠い状況にあったものといえる。

そうすると、先に挙げた梅田自白に述べられている程度の理由では、本件犯行の動機として相当に不自然、不合理であるといわざるを得ない。重大犯罪の自白において、動機の占める重要性はいうまでもないところであり、その動機につき不自然、不合理な供述しか得られていないことは、自白の信用性を低減させる要素というべきである。

(2) バットの隠し持ち

弁護人は、梅田自白に示されたバットの隠し持ちの姿は、不自然なものであり、大山に異常を察知されずには済まない旨主張する(前記⑩)。

そこで、右の点に関する梅田自白を見ると、被告人は、羽賀から「バットは上衣の左内側に隠して持って行け。」、「もっと丈の長い服を着て来い。」と指示され、犯行当日、旧海軍の作業衣の上衣とズボンを着用し、握りの部分を切り落とした長さ約二尺(被告人の第三回検面五項では「二尺位」となっているが、同検面添付第四図(三)では「二尺ちょっと切れる位」となっている。)の野球用バットを、その太い方を下にして、上衣の左側の内側に身体と並行に隠したが、その際、細い方の末端は肩の高さとなり、太い方の末端は、上衣のすそから三寸位はみ出たので、これを左手の掌で隠すようにして支え持ち、この状態で柴川木工場前で大山を待ち、その後同人の左側に並んで話をしながら約三〇分間位一緒に歩いたことになっている。

しかし、右供述のとおりとすれば、左手を下にまっすぐ伸ばして固定し、バットが動かないようにしっかりと掌で支えるということになるが、このような格好で相当時間歩くというのは、あまり楽ではない不自然な姿勢ということになろう。これに、バットの通常の太さや被告人の供述する約二尺という長さ及び上衣からの約三寸のはみ出しをも考慮すると、大金を一人で所持していて用心深くなっているであろう大山とこのような状態のままで相当時間一緒にいて気付かれないようにするというのは、かなりの困難を伴うものと考えられる。

そうすると、このような隠し持ちの方法を謀議して現に実行するというのは、あり得ないこととまではいえないが、謀議に基づく計画的犯行にしては、かなり不自然、不合理といわざるを得ない。したがって、凶器の寸法又はその携帯方法や、態様が自白のとおりではない可能性が高く、この点も自白の信用性を検討する上での消極的考慮要素となろう。

(3) 死体の運搬、埋没穴の探索及び死体の埋没の方法

弁護人は、素手による死体の埋没は不自然である旨主張し(前記⑬)、また、暗やみの中での死体の運搬、埋没穴の探索等についてその困難さを強調している(前記⑯)。

そこで、検討するに、前記(二)、(2)で判断したとおり、成人男子の死体を急傾斜の下り勾配のやぶの中を一人で引きずって行くということや、主な明かりとしては星明かり程度しかない暗がりの中で、深さ四メートル以上の崖下にあるまだ実際には見たことのない埋没穴を捜しに行き、再び死体を置いておいた場所まで戻り、死体をその穴まで引き落とすということ、死体をおさめた穴を素手で埋め戻すということなどが、相当の困難を伴うことは明らかである。しかも、梅田自白にあるとおりの共謀過程を経ているとすれば、羽賀においても、また、被告人自身においても、事前に右のような行動が必要であることとその困難性とを十分予想し得たはずである。したがって、梅田自白に述べられているよりもう少し容易な死体の運搬方法を工夫するとか、あるいは、むしろもっと死体の処理のしやすい殺害場所ないし埋没場所を選定するとか、穴の位置及びそこへ降りる道筋を事前に十分特定して打ち合わせておくか、又は被告人と羽賀との間で予め穴を掘る位置にまで行き、地形等を十分確認しておくとか、さらには、照明用具、スコップ、軍手等を用意しておくなど何らかの方策が採られて当然であろう。また、犯行場所の選定と照明用具の不携帯については何らかの事情があったのかもしれないが、その他の点については、羽賀及び被告人にとって、このような方策を採り得ないというような状況があったことを窺わせる事由は見当たらないところである。殊に、穴の位置の特定などについては、埋没現場付近の地理的条件からすると、崖の状況や目立つ樹木などによってはっきりと場所を決めておくことも可能なはずであり、また、梅田自白によれば、犯行の二日前に羽賀と共に現場付近に行っているというのであるから、沢底へ降りてみて降り方や穴の位置等を確認することも容易なはずであろう。また、死体の運搬の仕方についても、梅田自白では、脱衣地点から穴を捜しに行くために一旦死体を置いておいた地点までの運搬方法については言及がないが、他の行程については死体の両手を持って引っ張り下ろしたことになっており、このような方法は、一時の引き落としや引っ張りには便利かもしれないが、急傾斜地を下る場合に継続的に行うというのであれば、死体が下方に位置する運搬者の方に落ちかかったり、横向きになったり、あるいは運搬者の方が身体を保持するのに危険があったり、足場を取りにくかったり、色々な支障があるものと考えられ、かなり無理のある運搬方法といわざるを得ないであろう。むしろ、このような急傾斜地においては、死体を運搬者の下方に位置させて運ぶか、あるいは突き落として行くか、又は色々な動作を混じえて運ばざるを得ないのではないかと思われる。

以上によれば、死体の運搬、埋没穴の探索、死体の埋没などの方法に関する梅田自白は、そのような方法が実行不可能であるとか、あるいは極めて不自然、不合理であるとまではいえず、その意味で、自白の信用性を決定的に損なうようなものとまでは考えられないが、相当に困難な方法が述べられている点、他に一連の作業をもう少し容易にする方策が色々考えられるのにそのような方策が何も採られていない点において、かなり不自然、不合理なものといわざるを得ないであろう。したがって、やはり、自白の信用性を検討する上で、消極の考慮要素の一つに数え入れるべきと考えられる。

(4) 強取金の焼却

弁護人は、被告人が仮にも人を殺してまで金を奪うほど経済的に苦しかったのであれば、強取金を焼却してしまうというのは、常識的に不自然であり、また、もし焼却するというのであれば、一部を残しておくというのも不可解である旨主張する(前記⑮)。

そこで検討するに、梅田自白によれば、大山から奪った強取金のうち、四万五〇〇〇円を羽賀から受け取ったことになっているが、その使途については、その年の一一月末こうまでに約五〇〇〇円弱を費消し、一一月末ころに三〇〇〇円余りを残して三万六〇〇〇円を自宅の風呂場で燃やし、その三〇〇〇円余りの金員は、翌年の夏ころまでに使い切ったことになっている。そして、強取金の大部分を焼却した理由については、以前に持ったことのある金に比べて大金である上、大山を殺して奪った金であるため毎日暗い気持ちで夜な夜な大山や羽賀の顔が浮かんできて眠れない苦しい気持ちに耐えられなかったからということになっている。

しかし、人を殺してまでして得た金員、それも計画的な犯行によって得た金員をただ燃やしてしまうというのは、弁護人の主張するとおり、常識的にみて不自然と評さざるを得ない。さらに、後に詳述するように、当時の被告人方が経済的にそれほど豊かというわけではなく、被告人自身は父から時々小遣い銭をもらう程度で特段の財産、収入がなかったことや、梅田自白によれば被告人が羽賀に協力するようになったそもそもの発端は家の生活が苦しいので金儲けができればよいと考えたことにあるという点などをも考え合わせると、人を殺して金を奪うということと折角手にした強取金を焼却するということの二つの行為を共に可能とするようなものの考え方ないし性格については、理解し難いものがあるといえよう。したがって、強取金の焼却に関する自白は、人間の心理には様々な動きがあり得る以上、あり得ないこととまではいえないものの、かなり不自然、不合理な内容といわざるを得ない。

(5) まとめ

以上のとおり、本件犯行の全体像の中で、かなり重要な位置を占めている(1)ないし(4)の事項に関する梅田自白は、いずれも不自然、不合理な内容を含むといわざるを得ない。もっとも、これらは、いずれも一般論ないし常識論として不可解であると評価されるということであって、それ自体あり得ないこととか、不可能なことというわけではないのであるから、自白の信用性を検討する上で単独で大きな重みを持つものと解すべきではないであろう。しかしながら、先に(二)において述べた点以外にも、このような内容自体不自然、不合理な供述部分が幾つもあるということは、これらを合わせ考えれば、梅田自白全体が不自然性、不合理性を有すると評価されることになり、全体として自白の信用性を大きく引き下げる要素であると解すべきである。

(四)  供述内容自体が若干不自然、不合理なもの

梅田自白には、前記(二)及び(三)に挙げた点以外にも、必ずしも常識上首肯し難いとまでいえるかどうか疑問ではあるが、供述内容自体が若干不自然、不合理な点が幾つもある。これらは、それぞれ単独で見るならば、梅田自白の信用性にそれほど影響を及ぼさないであろうが、前記(二)及び(三)の判断を前提に、多数を合わせ考えると、やはり自白の信用性を検討する上でこれを減殺する要素の一つとなり、右(二)及び(三)の結論を補強する材料になっているといえよう。

(1) 大山と被告人との出会い

弁護人は、大山が以前に百姓風の被告人と会っているにもかかわらず、被告人が犯行日にブローカーになりすまして大山と会うというのは常識的に首肯し難い旨主張する(前記③)。

そこで検討するに、梅田自白によれば、被告人は、本件犯行に加わる前の昭和二五年九月二〇日ころに自転車で北見市街に行った際、大山と一緒の羽賀に会い、羽賀から、「農家の景気はどうだ。」と話しかけられて、景気どころではなく、相当苦しい生活である旨答え、三人連れ立って話をしながら、図書館へ行って三人で世間話をし、その際羽賀が被告人のことを戦友として大山に紹介し、さらに食事をして別れたことになっているにもかかわらず、その後、本件犯行に際しては、札幌から来たブローカーになりすまして大山と会ったことになっている。このような経緯は、当時の時代背景や地域性を考えると常識上全く首肯できないものとまではいえないであろうが、今さら札幌のブローカーと名乗って話につじつまが合うのか、かなり疑問の残るところである。

(2) 一〇月八日の謀議内容の矛盾

弁護人は、一〇月八日の謀議の際、二人で共同実行する場合の打ち合わせが何もされていないのは、不自然である旨主張する(前記⑤)。

そこで検討するに、梅田自白によれば、被告人と羽賀が一〇月八日に本件犯行現場付近で本件犯行の謀議をした際、羽賀は、被告人に対し、一〇日には自分も大山と一緒に行くつもりだが、もし自分が行けない時でも、大山に出て来るよう話をしておくから、一〇日の夕方に柴川木工場に来るようにと指示したことになっている。ところが、実行行為の方法についての梅田自白をみると、二人の役割の分担に関する供述はなく、バットの受け渡しに関する話などから考えても、全体に、被告人が一人で行う場合についての打ち合わせばかりをしたものと解される。羽賀は当初から直接実行行為を分担しないつもりであったろうから、二人で共同で行う場合についての打ち合わせは、被告人の単独実行の場合より粗略なもので足りるではあろうが、このように原則的な場合であるはずの共同実行の打ち合わせが何もされていないというのは、若干不自然であると評さざるを得ないであろう。

さらに付け加えると、梅田自白によれば、被告人は、この一〇月八日の日に初めて強盗殺人の手伝い方を打ち明けられ、さらに、実行行為も被告人一人で行わなければならないかもしれないとまで言われたわけである。しかるに、羽賀が来ないことにつき何ら反論、質問などをせずに、そのまま話を引き受けていることになるが、そもそもこのような被告人の対応自体、若干不自然というべきであろう。

(3) 共謀の成立経緯

弁護人は、本件犯行日の決定過程は、いかにも不自然である旨主張する(前記⑥)。

そこで、本件犯行の共謀の成立経緯を検討するに、この点に関し、梅田自白では、被告人は、一〇月六日ころ羽賀からホップの取引による儲け話に誘われ、「次は二、三日中に出て来る。」とだけ言って別れ、次に会う日時、場所を特に約束していなかったところ、同月八日に羽賀と会うために北見市街へ出て来て路上でばったり羽賀に会い、同人から「この間の話今日はっきり決めるべ。」などと言われ、ホップの取引をする家を見に行く途中、さらに、「取引は一〇日にするべ。」と言われ、その後、実は大山を殺して金を奪うのだと打ち明けられて、本件犯行の共謀に至ったということになっている。

しかし、本件犯行の日は、大山が大金を都合して持って来ることができる日に限定されるわけであるから、羽賀が自由に定められるものではない。したがって、羽賀が犯行日を一〇日と言ったのも、八日に被告人と会ったからその翌々日にしたというのではなく、大山の事情によって定まった日である可能性が高いであろう。また、羽賀にとっては、犯行場所の特定、凶器の準備、犯行方法や大山との待ち合わせ場所及び時間についての相談、殺害後の後始末の打ち合わせなど、犯行日前に色々済ませておかねばならないことがあるのであるから、犯行日のある程度以前に共犯者との詳細な謀議を終える必要があったはずである。

そうすると、梅田自白に述べられているように、犯行日の四日前に被告人と羽賀とが別れる際、まだ大山の殺害という話自体が出ておらず、かつ、次回の会合日時の約束もせずに別れ、たまたま犯行の二日前に会うことができて謀議が整ったというのでは、いかにも不自然な感を免れないであろう。右の経緯では、一〇月八日の段階で既に大山との間では一〇月一〇日夕方に取引をすることについて打ち合わせ済みであったと考えられるが、それでは、羽賀において、犯行日前に被告人と会い、かつ、強盗殺人の話を承諾してもらうという極めて不確かな事情に重大事の成否をかからしめていたか、あるいは、羽賀が単独実行又は別の共犯者を用いての実行を予定していたものとでも考えるほかない。また、もし、一〇月八日の謀議が大山との打ち合わせ前に行われたというのであれば、これまた、決行し得る日が確定しないうちに確定的な謀議をしてしまい、かつ、犯行日まで被告人と連絡し合う予定もないということになる。そうすると、いずれにせよ、本件犯行の共謀の成立に至る経緯には若干不自然なものがあるといえよう。

(4) 一〇月一〇日の待ち合わせ時間の不特定とその直前の被告人の行動

弁護人は、一〇月一〇日の待ち合わせ時間が特定されていないこと(前記⑦)、右犯行日に被告人が普通どおりに畑仕事をし、食事までした上、大山に会う前に夜店を見て歩いていること(前記⑧)及び犯行直前に大山らとの待ち合わせ場所で凶器の準備をしていたこと(前記⑨)は、いずれも不自然である旨主張する。これに対し、検察官は、右のうち、凶器の準備は、わずかの時間で十分可能であり、特に不自然ではない旨主張する。

そこで検討するに、梅田自白では、一〇月八日の謀議に際して、被告人は、羽賀から大山らとの待ち合わせ時間について「夕方」としか指示されていないところ、被告人は、犯行当日、午後五時半ころ大山らとの待ち合わせ場所である柴川木工場に着いたが、大山も羽賀も来ていないので、市街へ出て夜店を見て歩くなどした後、午後六時半ころ青年会館へ寄って凶器のバットを取り出し、午後七時ころ再び柴川木工場前へ赴き、同所で自転車の荷台の縄をほどいて羽賀に指示された結び目を作り、持参した布をナイフの柄に巻いたり、バットを上衣の下に隠したりして大山を待っていたところ、午後七時二〇分ころ大山が来たということになっている。

しかし、被害者との待ち合わせ時間という本件犯行において極めて重要な点につき、「夕方」という漠然とした時間しか約束しないということは、やはり若干不自然な感を否めない。また、いつ大山が来るのかはっきりしないので幅をもった定め方をしていたのだというのであれば、バットを手にしたり、縄やナイフの準備をしたりしないうちに被害者がやって来ているかもしれない待ち合わせ場所へ直接行くというのはかなり不可解であろう。また、犯行当時の日没は前記のとおり午後四時五〇分ころであるにもかかわらず、被告人が柴川木工場に着いた後も、夜店を見て回ったりしているのも若干不可解であるし、さらにもう午後七時ころであるのにバットを隠さないまま待ち合わせ場所へ行き、そこで殺害用具の準備をするというのは、かなり不自然というほかない。この点は、凶器の準備に要する時間が短くとも、また、暗がりで物陰に隠れて行うことが可能であるとしても、犯人の心理としてはやはり不自然な行動といわざるを得ないであろう。なお、犯行当日に畑仕事をしたり、夕食をとったという点は、格別不自然なこととまではいえない。

(5) 殺害方法

弁護人は、三種の凶器の使用(前記⑪)及びナイフによる頭部の刺突(前記⑫)は、いずれも不自然である旨主張する。

そこで検討するに、梅田自白によれば、被告人は、羽賀から、バットで頭を殴り、ナイフで頭を刺し、縄で首を締めて大山を殺すように指示され、そのとおり実行したことになっている。一人で三種類の凶器を使用するという点、またナイフで刺す部位が頭部であるという点は、著しく奇異であるとか、不自然であるとまでは解されないが、事前に周到に計画、準備した上での殺害方法としては、一般論としてはやはり若干不自然であるといえよう。

(五)  弁護人の主張が採用できないもの

(1) 暗やみにおける犯行

弁護人は、本件犯行当時の大山の殺害現場及び埋没現場付近の明るさは、それぞれ5.6×10-4ルックス以下及び3.11×10-4ルックス以下であり、このような暗さと犯行現場付近の地形に照らせば、色彩や細かい形を識別することはできない上、梅田自白に述べられているような死体の運搬、埋没穴の探索と発見、死体の沢底への引き落とし、死体の埋没、着衣集め、バット及び風呂敷包みの発見、被告人方までの自転車走行等の一連の作業を行うことは、照明手段なしでは不可能又は著しく困難であり、また、仮に実行可能であるとしても、大山と共に柴川木工場を出発してから右一連の作業を行って帰宅するには、最低でも四時間一三分三秒かかり、梅田自白にある各行為をこれ以下の時間で行うことは絶対不可能であるから、細かな部分や色彩までが識別でき、前記各作業をたやすく行い、かつ、その所要時間も右に挙げた時間より短いという内容になっている梅田自白は、虚偽ないし不自然、不合理なものというべきである旨主張する(前記⑬及び⑯)。これに対し、検察官は、星明かりの照度は10-3ルックス程度であって、無灯火でもかなり明るく、前記一連の作業を行うことは十分可能であり、また、被告人が農業を営み素手で土をいじることに慣れていることや、各種模擬実験の結果からみても、梅田自白に述べられている死体の埋没作業等を梅田自白に示されている程度の時間内に行うことも可能である旨主張する。

そこで検討するに、確かに相場鑑定書及び相場尋問調書では、本件犯行当時の大山の殺害現場及び埋没現場付近の明るさは、それぞれ5.6×10-4ルックス及び3.11×10-4ルックスと推定され、このような暗さや現場の地形からすると、前記一連の作業のうち、沢の上り降りや死体の沢への引き下ろし等は著しく困難であり、また、柴川木工場を出発してから帰宅するまでの各行為の所要時間を累積すると四時間二二分一七秒になるから、梅田自白に示されている経過時間(約三時間四〇分)以内に前記一連の作業を行うことは不可能であるとされている。

しかしながら、前記(二)、(2)において述べたとおり、本件犯行現場付近の明るさの程度を右のように確定値をもって認定することができるという見解には左袒することができない。また、推測される概ねの明るさの程度、暗順応下における人の視覚及び犯行現場付近の地形・植生等の諸条件を考えると、これまで述べてきたとおり、梅田自白に挙げられている前記一連の作業は、相当な困難を伴うものが多いと考えられるが、それ以上に、実行不可能であるとか、著しく困難であるとまで解されるものはなく、その限度で弁護人の主張は採用できない(なお、弁護人は、検察官が星明かりの照度は10-3ルックスというのは証拠に基づかない旨主張するけれども、「視覚の心理物理学」写抜粋(二二冊二三九一丁)には検察官主張にそう記載がある。)。

また、柴川木工場を出発してから帰宅するまでの一連の行為の所要時間については、そもそも相場鑑定における模擬実験によって算出された所要時間と梅田自白に示されたそれとの相違は、四二分余りであって、梅田自白を基準として二〇パーセント弱しか違わないのである。また、梅田自白に示された各時刻や経過時間は、時計によって確認したものであるという証拠はなく、むしろおおよその推測による時刻、時間であると考えられるし、相場鑑定は、被告人が昭和二五年当時、毎日厳しい農作業に従事している頑健な二六才の青年であったこと及び仮に大山を殺害したとすればその後の後始末の行動は必死の思いで行ったであろうという点を十分考慮に入れていない憾みがある。さらに、相場鑑定による全体の所要時間が梅田自白にある経過時間よりも長い主な理由は、柴川木工場から被告人方までの帰宅に要する時間を一時間五六分四八秒かかるものと推定している点にあると考えられるところ、右推定値は、相場鑑定においては、被告人にとって右の道筋は熟知したものであること、被告人が自転車による郵便集配手をしていた経歴を有すること、当時の被告人が街灯の少ない道路での灯火なしの夜間走行について現代の青年よりも慣れていた可能性があることなどを正当に斟酌していない疑いがあり、加えるに、自転車走行に関する原一審第二四、二八回各公判及び一次再二審における被告人の各供述、梅田房吉の第五回検面、司法警察員藤木雅之外二名作成の昭和六〇年六月二〇日付実況見分調書(同調書に示された走行時間をそのまま採用できるというわけではない。)等の関係証拠と対照すると、採用することができない。そうすると、梅田自白に示されている経過時間内に本件の一連の作業を行うことが不可能であるという相場鑑定には、にわかに左袒することができず、そのほか、これまで検討してきた諸点を総合考慮しても、梅田自白に示された経過時間が、その間の行為と対比して、不合理なまでに短過ぎるとは、断定できない。

次に、大山の服装や犯行現場付近の状況に関する梅田自白を見てみると、色彩が述べられているのは、大山が色物のワイシャツを着ていたという供述があるだけであり、この程度のことは、犯行現場付近よりも明るいと考えられる柴川木工場から東陵中学校までの行程の間に認識されていた可能性があり、特段不合理な供述とまではいえない。また、尾錠の付いた革バンドとか、裏がネルの袴下などといった大山の着衣に関する供述も、子細にみると、手探りや手触りと相俟って分かると思われるのであり、犯行現場付近の状況に関する供述も、山径付近のことについては、ある程度視覚によって分かり得る事実や運搬や埋没等の作業自体を通じて認識し得る事実、手探りなどによっても知り得る事実ばかりである。したがって、梅田自白に、色覚や細かい形を識別できるような視覚がなければ述べられないような不合理な供述があると評するのは相当ではない。

以上によれば、弁護人の前記主張は、前記(二)、(2)及び(三)、(2)で取り挙げたように、梅田自白には、死体の運搬等の一連の作業の苦労について説明、言及がないこと及び右一連の作業の方法に関する供述内容が不自然、不合理であることの両点を指摘する限度で理由があるが、それ以上に、暗やみの程度とか、右一連の作業が実行不可能又は著しく困難であるとか、梅田自白に示された経過時間内に実行することができないとか、あるいは、認識できない事物を供述しているなどといった部分については、そのまま採用することはできない。

(2) 自転車の存否

弁護人は、梅田自白では、本件犯行の共謀にあたって被告人が羽賀から細引について指示を受けた際、被告人の手元に細引付きの自転車があったはずであるのに、羽賀がその細引の存在に気付いていないような不自然なやりとりになっている旨主張する(前記④)。

しかし、梅田自白中の関係部分からすると、羽賀がその当時、絞頸用に自転車の荷台の細引を用いるということに思い至ってなかったとしても何ら不自然ではないし、そのほか両者のやり取りに関する供述をみても、その際に現に自転車が手元にあったか否かにかかわらず、格別不自然なものとまではいえない。

(3) 大山所持の風呂敷

弁護人は、大山は上衣の内側に風呂敷包みを腰に縛って出かけたのであり、また、羽賀が受け取った時には右風呂敷包みは縛られていなかったのであるから、梅田自白において、大山が風呂敷包みを手で持っており、その縛り方は長い方の端のみ結んでいたと説明されているのは、前後著しく矛盾する旨主張する(前記⑭)。

しかし、大山が被告人と会う際、風呂敷包みの持ち方を変える可能性もないわけではないであろう。また、風呂敷の包み方に関し、羽賀供述の方に全幅の信頼をおくこともできず、さらに風呂敷の包み方については被告人の方の記憶違いであるとしても、それほど不自然な事柄ではないであろう。したがって、この点は、羽賀との供述の食い違いを問題にするならば格別、自白内容の不自然、不合理さという観点からは問題のない事項と考えられる。

4  自白の変遷

(一)  序論

検察官は、被告人の自白は、行為の細部について若干の変遷が認められるが、事案の中枢的事実関係については、表現の差はあるけれども、最初の自白から第三回検面に至るまで一貫して変わっていない旨主張する。これに対し、弁護人は、被告人の自白には、犯行の初めから終わりまでのすべての部分について変遷が見られ、必須重要部分にまでも、納得し難い供述の変遷がある旨主張する。

そこで検討するに、被告人は、当初本件犯行を否認していたが、逮捕の翌日である一〇月三日に警察官に対して本件犯行を認める供述をし、伊藤刑事課長によって本件犯行に至る経緯及び本件犯行の概要についての供述調書(第一回員面)を録取され、翌四日朝にも同刑事課長に対して本件犯行を認める供述(第二回員面)をし、本件犯行現場の実況見分に際しても犯行に関して指示説明をしたが(司法警察員遠藤富治作成の同日付実況見分調書)、同日正午ころに釧路地方検察庁北見支部へ送致された際には、坂本副検事に対して本件犯行を全面的に否認しており(同月五日付弁解録取書)、その後北見市警察署へ戻されて再び本件犯行を自白し(司法警察員遠藤富治作成の同月四日付第三回員面)、それが同月二一日における否認まで続いたわけであり、結局、被告人の供述は、捜査段階において否認、自白、否認、自白、否認という変遷をたどっているものである。このような供述の揺れ動きは、特段の事由のない限りやはり不自然といわざるを得ないであろう。しかるに、本件においては、否認後の自白調書(第一回及び第三回各員面)における供述内容、被告人が二回目の自白後最終的な否認に転じた際に橋本検事に対し提出した梅田手記の内容、最終的否認後の検面調書(一〇月二四日付第四回検面)の内容、その他関係証拠を精査しても、前記の供述の変遷について、反省悔悟の上一旦真実を自白した者がその後供述を変えるのに合理的な説明ないし根拠を見い出すことは困難である。そうだとすれば、自白内容の一貫性ということが自白の信用性を高めるというのは、人の供述が安定し、確固たるものであるときは、真実を語っていることが多いという経験則に基礎を置いた考え方からであろうから、前記のように否認と自白の間を揺れ動き、かつ、その理由についても十分な説明ができないという本件では、既にその点だけでも供述の一貫性を欠くものと評価すべきである。したがって、本件においては、仮に、自白を維持していた段階における供述内容に一貫性があるとしても、それを、例えば、捜査段階において一貫して自白しており、公判廷で初めて否認した者についてその自白の信用性を検討する場合などと同一に論ずることはできず、自白内容の一貫性を根拠に自白の信用性を高く評価することについては、十分に慎重でなくてはならない。

そこで、このような基本的視点から本件の各自白調書(司法警察員伊藤力夫作成の一〇月三日付第一回及び同月四日付第二回各員面、同遠藤富治作成の同日付第三回員面、同月一六日付第一回、同月一七日付第二回及び同月一九日付第三回各検面)並びに司法警察員遠藤富治作成の同月四日付実況見分調書及び岡部副検事作成の同月八日付検証調書中の被告人の各指示説明部分(以上の証拠は、本項においては、原則として作成月日又は回数と文書の標目のみを持って摘示することとする。)の内容を吟味すると、本件では、自白の段階における取調べ官に対する供述内容自体にも、実際に体験した事実を記憶を探って誠実に述べているにしては不自然なほどの供述の変遷が見られるので、以下詳論することとする。

(二)  重要な事項に関する変遷

被告人の捜査段階における供述には、記憶違いなどの可能性の乏しい重要な事項についても顕著な変遷が見られる。

(1) 単独実行か否かについての共謀内容

まず、羽賀との共謀内容を見るに、第一回員面では、大山を殺害して金員を奪うのは、初めから被告人が一人で行う前提になっていると解される供述になっており、羽賀が一緒に実行するということについては何ら触れられていない(羽賀の指示の趣旨は、「犯行当夜羽賀が大山を柴川木工場に連れて来るので、被告人がブローカー風になって大山を連れて行って殺害せよ。」というものに考えられる。)。これに対し、梅田自白(第二回検面)では、羽賀から一緒に行くつもりだが、もし行けないときは被告人一人で実行してくれと頼まれたことになっており、誰が本件犯行を実行するのかという極めて重要な事項についても、その共謀内容に関する供述に変遷が見られる。

(2) バットの受け渡し

本件犯行に用いたバットを羽賀から受け取った状況については、第一回員面では、一〇月八日ころ、羽賀から本件犯行場所付近でバットを切ったものを見せられて叩き方を指示され、そのバットを青年会館の裏の縁の下に突っ込んで隠しておいたとなっており、右供述によれば、被告人は、当日中にバットを受け取り、自分でこれを隠したのか、あるいは、当日中に羽賀と一緒にバットを隠したということになろう。これに対し、梅田自白(第二、三回各検面)では、一〇月八日には、羽賀からバットを青年会館の裏の縁の下に入れておくと説明されただけであり、バットは、犯行当日の一〇月一〇日に右場所で初めて見たということになっていて、バットを自分で隠したり、羽賀と一緒に隠すといった行為とは相容れない供述になっている。したがって、バットの受け渡しの時期及び状況が大きく異なってきている。なお、当初の供述内容は羽賀供述とほぼ符合する。

(3) 青年会館の位置

梅田自白においてバットが隠してあったことになっている青年会館の位置については、第一回員面では、東陵中学校の向かいにあると説明されており、その添付図面でも、仁頃街道の本件犯行現場付近へ通ずる山径との分岐点よりも更に仁頃寄りの場所に「会館」と記入されている。しかし、被告人立会の下に一〇月四日に行われた実況見分の後に作成された第三回員面の添付図面及び梅田自白(第二回検面添付第三図)では、右青年会館の位置が前記分岐点よりも手前の北見市街寄りになっており、正しい位置へ変わってきている。被告人は、右の変遷の理由について、実際に青年会館の裏からバットを取って来た事実はないので、取調べの当初にはその位置をよく知らないまま、警察官の誘導するとおり記載していたが、前記実況見分の際に青年会館へ連れて行かれてその位置関係等をはっきりと知ったので、その時以降正しい図面を書くことができるようになった旨主張しており、変遷の経緯も、右主張に一応そうものとなっている。

(4) 強取金の使途

羽賀から受け取った四万五〇〇〇円の強取金の使途については、第一回員面では、煙草銭にして正月過ぎころまでに皆使ってしまったことになっている。これに対し、梅田自白(第三回検面)では、一一月末ころまでに約五〇〇〇円を使い、同月末ころ三万六〇〇〇円を焼却し、小遣い銭として千円札三枚と小銭を残したが、これも昭和二六年夏ころまでに費消し、その使い途は、煙草銭、馬具の修理費、自分の衣類・釘・トランク及び手提鞄等を買った際の足し金、先妻の入院見舞のために果物や養命酒を買った際の足し金にしたということになっており、焼却の点と使途の点において、第一回員面における供述と大きく異なっている。

被告人は、この点の供述の変遷の理由につき、一次再二審において、取調べの際強取金の使途を尋ねられて初めは丸太を売った代金一万円位で買った品物等を当てはめて答えていたが、それでは足りないではないかと問い詰められて返答に窮し、焼いたと答えた旨供述している。そこで、関係証拠を見てみると、司法巡査阿部正一外一名作成の一〇月四日付「大山事件の参考書類について」と題する書面によれば、被告人は、昭和二七年一〇月四日、羽賀から受け取った強取金の使途について、時期・費目・金額をわら半紙二枚に記載して捜査官に提出しており、その合計金額は八六六五円と記載されていることが認められる。他方、否認段階における調書である被告人の一〇月二四日付第四回検面では、昭和二六年二月中ころ自分の小遣い銭とするために楢丸太約三石を一万一〇〇〇円で売却し、その代金のうち二〇〇〇円位を以前に父から借りていた借金の返済として父へ渡し、他を費消したということになっており、同検面の末尾に添付された買物表には昭和二五年末ころから昭和二六年六、七月ころまでの小遣いの使用状況が記載されており、その合計額は一万四〇六〇円位になっている。そして、右買物表と前記わら半紙二枚の表とを比較してみると、買物表の方のみに記載のある結納包紙、結婚写真代、毛糸チョッキ及び入れ歯を除くと、鞄とトランクの金額が違う(わら半紙の方では「足し金」として記載してある。)ほかは、概ね類似しているということができる。また、梅田房吉の一〇月二三日付第三回検面では、裏山から伐って来て積んで置いた楢丸太を被告人が昭和二六年二月ころ一万円位で売却し、そのうち三〇〇〇円位を房吉が受け取り、残りを被告人の小遣い銭としたが、その使途は分からないとなっており、被告人の一〇月二四日付検面の供述を基本的には裏付ける内容となっている。以上によれば、強取金の使途に関する供述が変遷した理由についての被告人の弁解は、関係証拠に照らして、特段矛盾せず、一応成り立ち得る説明と評価できる。

(三)  その他の供述の変遷

被告人の捜査官に対する供述には、右(一)、(二)で指摘した以外にも多数の変遷が見られる。以下、共謀から実行行為、そして犯行後の状況に至る時間的経過の順に、供述の変遷箇所を摘示する。

(1) 大山と会った回数

第一回員面では、被告人は犯行前に二回大山に引き合わされていたことになっているが、梅田自白(第二回検面)では一回になっている。

(2) 一〇月六日の外出の目的

被告人が一〇月六日ころ北見市街へ出て来た目的については、第一回員面では、遊びに出て来たことになっているが、梅田自白(第二回検面)では、ちょっとした日用品を買うために出て来たことになっている。

(3) ブローカーの演技の話が出た時期

第一回員面では、一〇月八日ころ、羽賀から大山を殺して金を取ると言われた際に、ブローカー風の格好をして大山を連れて行けという指示もされたことになっているが、梅田自白(第二回検面)では、一〇月六日に羽賀からホップの取引による金儲けの話に誘われた際、ブローカーになりすまして今度の取引をする旨言われたということになっている。

(4) 動機

被告人が本件犯行に加わった動機については、第一回員面では、一〇月六、七日ころ、羽賀にビールのもとの取引による金儲けに誘われたが、これを承諾したのは、羽賀を尊敬していたのと、親しく感じていたからであるとなっているが、その後、人を殺して金を奪うという話に切り変わった際の心境については、特段の言及がない。また、第二回員面では、金欲しさのあまり大山を殺したとなっている。ところが、梅田自白(第二回検面)では、羽賀から、命にかかわると言って脅かされたことと何度も羽賀に対して手伝うと言っていたことの意地とから、大山を殺して金を取るという話を引き受けたということになっており、これらの間には、供述の変遷があるといわざるを得ないであろう。

(5) 本件犯行に誘われた場所

第一回員面では、羽賀と共に大通東五、六丁目付近から東陵中学校裏手付近の山径まで来る途中、大山を殺して金を取れと言われたことになっているが、梅田自白(第二回検面)では、仁頃街道から山径に入り、本件犯行現場付近を一旦通り過ぎてから、また戻って来る途中、実は、金を持って出て来る大山をやるのだと打ち明けられたとなっている。

(6) ナイフの使用と刺突部位についての羽賀の指示

一〇月八日に羽賀から指示された大山の殺害方法のうち、ナイフの使用の順序及び刺突部位については、第一回員面では、バットで頭をたたき、次にひもで首を締め、最後にジャクナイフでこめかみを突き刺せと指示されたことになっている。ところが、梅田自白(第二回検面)では、羽賀は、バットで殴り付けた後、ナイフで大山の頭を刺せと指示したが、頭のどこを刺せとは言わず、その後、細引で首を締める話を持ち出したということになっている。右供述内容は、必ずしも明確ではないが、ナイフの使用順序は二番目と解され、また、こめかみを刺せという指示はなかったということになろう。

(7) 犯行当夜に青年会館から柴川木工場までバットを運んだ態様

第一回員面では、自転車に付けて運んだことになっているのに対し、梅田自白(第三回検面)では、手に持って自転車に乗ったとなっており、また、一〇月八日付検証調書でも、バットを持って自転車に乗った旨被告人が説明したということになっている。

(8) ナイフの柄に巻いた布の色

第三回員面では、黒い布となっているが、梅田自白(第三回検面)では、淡い青い様な色となっている。

(9) ナイフによる刺突部位

第一回員面では、頭部のこめかみ辺を一突きしたとなっているが、一〇月四日付実況見分調書では、殴ったと思われるところ(同調書では、後頭部を殴った旨被告人が説明したことになっている。)を一突き刺した旨になっている。ところが、一〇月八日付検証調書では、頭部を突き刺した旨被告人が説明したことになっており、梅田自白(第三回検面)でも、頭を目がけて突き刺したが、そのどこに突き刺さったかは、夢中だったのではっきりしないとなっている。

(10) ナイフの投棄

ナイフを投棄した時期、場所及び方角については、まず、第一回員面では、ナイフでこめかみを刺し、大山の死体を穴に埋めた後ナイフを沢へ投げ捨てたとなっている。しかし、一〇月四日付実況見分調書では、路上に倒れた大山を一突き刺してすぐにそのナイフを沢の下手の方向(図面上に矢印で方向が記されており、それによると北東ないし東方向の沢と山径の間の雑木林の中ということになろう。)に投げた旨被告人が説明したことになっており、同日付第三回員面でも、同様に一回突き刺し、ナイフはその場所で下手の方へ向かって投げたとなっている。これらを対比すると、投棄した時期は、死体の埋没直後から刺した直後へ、すなわち首を締めたり沢底へ運んだりする前ということに変化してきており、投棄した場所も、沢底から刺した場所、すなわち山径上に変わっており、さらに、投げた方向についても右の三つの供述の趣旨が一致するかどうかは疑問である。

ところが、一〇月八日付検証調書では、ナイフで刺し、首を締め、それからナイフを東方に高く力一杯投げた旨被告人が説明したことになっており、投棄した場所は、一〇月四日付実況見分調書及び同日付第三回員面と同じ趣旨であろうが、その時期は、絞頸の後に変わってきている。そしてさらに、梅田自白(第三回検面)では、刺してからすぐナイフを引き抜き、その場所から付近の沢の木の生えている方向に向かって力一杯投げ捨てたということになっている。これは、投棄した時期及び場所の点では、先の一〇月四日付実況見分調書及び同日付第三回員面における供述に戻るものである。ナイフを投げた方向については新しい表現になっている。

(11) 大山の衣類等を風呂敷に包んだ時期

第一回員面では、大山の服を脱がした直後に衣類を風呂敷に包み、それから死体を穴へ運んだことになっているのに対し、一〇月四日付実況見分調書では、死体を穴に埋めた後着衣を脱がせた場所に戻って、そこで衣類を包んだ旨被告人が説明したことになっている。ところが、同日付第三回員面では、再び第一回員面と同じく脱衣後すぐ衣類を包んだ旨の供述に戻っている。これがまた、一〇月八日付検証調書では、死体を埋めてから衣類を風呂敷に包んだことになっており、一〇月四日付実況見分調書における供述に戻っており、梅田自白(第三回検面)も同様である。すなわち、供述内容が三転しており、同一日のうちにも変遷が見られる。

(12) 穴の位置の確認行為の有無とその時期

第一回員面では、大山の衣類を脱がし、風呂敷に包んだ後、死体の手を引っ張って穴まで引きずって行ったことになっており、予め穴の位置を確認に行ったとの供述はない。これに対し、梅田自白(第三回検面)、一〇月四日付実況見分調書、第三回員面及び同月八日付け検証調書では、いずれも、一旦死体を置き、穴の位置を確認に行ったことになっている。

さらに、確認に行った旨の供述間においても、その時期については食い違いが見られる。まず、一〇月四日付実況見分調書及び同日付第三回員面では、死体を裸にした後、その両手を持って穴の上まで引っ張って来てそこに一時死体を置き、穴を見て来たことになっているが、一〇月八日付検証調書では、「道路右側の斜面に引擦り下してその着衣全部を脱ぎ取った。次いで沢の下に降りて行って穴の掘ってあった箇所を見きわめて再び死体の箇所に戻り、死体を沢沿いに引擦り……(以下省略)……」旨説明したことになっており、脱衣後直ちに穴の位置を確認に行った趣旨の供述になっている。ところが、梅田自白では、裸にした死体を更に四間(約七・二メートル)位沢の方へ引っ張り、死体をそこに置いて穴を捜しに行ったところ、置いて来たそのすぐ下ぐらいの位置に穴があった旨の供述になっており、再び一〇月四日付実況見分調書及び同日付第三回員面における供述に近くなってきている。

(13) 死体の運搬経路

一〇月四日付実況見分調書によれば、その添付図面及び実況見分のてん末欄を合わせ読むと、被告人は、大山の死体を、山径からほぼ直角に沢側へ約四間(約七・二メートル)引き下ろし、着衣を取ってから、山径にほぼ並行に沢の下手の方向へ約五間(約九メートル)行き、そこに一時死体を置いて穴を見て来た後、ほぼ直角に曲がって沢の方向へ約五間(約九メートル)下った旨指示説明したことになっている。また、同日付第三回員面では、死体を道路より右下(沢側ということになる。)に三、四間(約五・四メートルないし七・二メートル)引き込んで衣類を脱がせ、同日の実況見分の際に示したように穴の上まで引っ張って行って、穴を見に行ってから、死体を穴に引き込んだことになっており、その供述内容は、前記実況見分調書における被告人の指示説明とそれほど矛盾していない。しかし、第三回員面には、被告人の書いた犯行現場付近の図面が添付されており、同図面には死体運搬経路を示すものと解される線が引かれているが、それによると、山径から、沢側ではあるが、斜めに沢下の方向へ中間点まで直線が引かれ、そこで折れ曲がってやや斜めに沢の上手の方へ向かい穴に至る直線となっている。右図面の記載は、一回しか曲がっていない点及び山径とほぼ並行の行程が存在しない点において、前記実況見分調書における被告人の指示説明と大きく異なっている。

次に、一〇月八日付検証調書では、その添付第四図と検証の結果欄を合わせ読むと、被告人は、大山の死体を山径から沢側にほぼ直角に約六メートル引きずり下ろして着衣を脱がせ、そこから山径に並行に沢下方向へ約七・四メートル引きずって一旦休み、さらに斜めに沢下の方向へまっすぐ約九メートル降りた旨指示説明したことになっている。右の指示説明は、基本的には一〇月四日付実況見分調書における指示説明の方へ戻っているものと言えるが、距離関係に食い違いがあるほか、最後の行程が直角に折れ曲がって降りるのではなく、斜めに折れて沢底へ至っている点に大きな差異がある。

最後に、梅田自白を見ると、第三回検面に添付された被告人の書いた図面(第六図)と本文とを合わせ読むと、被告人は、大山の死体を山径から沢側に沢の下手の方向へやや斜めに引き下ろし、裸にした上山径とほぼ並行に約四間(約七・二メートル)進み、そこに死体を置いて穴を見つけに行き、それからほぼ直角に沢底へ折れ曲がって穴に至ったことになっている。沢底へ直角に折れ曲がった点は、前記検証調書の指示説明から再び前記実況見分調書における指示説明の方へ戻ったことになるが、各行程の距離関係は、むしろ前記検証調書の方に近いようにも解される。

(四)  まとめ

以上のとおり、被告人の捜査段階における供述は、否認と自白との間を揺れ動いている上、自白の内容においても種々の変遷が見られる。殊に、前記(二)に挙げた四点は、いずれも明白な変遷であり、かつ、その供述の対象は、それぞれ、実行行為者が誰であるかという点についての共謀内容、凶器を受け取った状況、凶器が隠されていた建物の位置、そして強取金の焼却の有無という本件犯行の自白において重要な位置を占める事項に関係している上、真犯人であるならば、通常は、記憶違いや説明の誤りなどの生じにくい事柄に属する事項と考えられる。したがって、このような事項について、供述の顕著な変遷が生じるのは、被告人が、実際には当該事項を体験していないのか、あるいは、何らかの理由で故意に偽りを述べたものが混在しているのか、取調べ官に対して非協力的であって取調べ官の発問や録取にとん着せず、いい加減な返事を繰り返していたのか、それとも、記憶が極端に薄れているのか、これらのうちのいずれかである可能性が高いと考えられ、いずれにせよ、このような供述態度、供述状況は、自白の信用性を低減させるものといえよう。

もっとも、前記(三)の方に挙げた供述の変遷の中には、(3)のブローカーの演技の話が出た時期、(4)の動機、(5)の本件犯行に誘われた場所等のように、実質的にはそれほど大きな食い違いではなく、取調べ官の質問の仕方いかんによっては、そのような供述の変遷が生ずることもないではなさそうなものや、(2)の一〇月六日の外出の目的、(10)のナイフの投棄、(11)の大山の衣類等を風呂敷に包んだ時期等のように、犯行の実行行為自体とは若干離れている上、いささか細かな事柄であるために、犯行後約二年を経過して記憶があいまいになっていたとしても不思議ではないもの、また、(9)のナイフによる刺突部位、(12)の穴の位置の確認行為の有無とその時期、(13)の死体の運搬経路等のように、実行行為ないしこれに関係する事柄ではあるが、興奮状態の中での行動やかなり複雑な行動に関する供述であって、記憶が明確に保持されているかどうか疑問もあり、取調べ官の質問の仕方によっては実体験者であっても影響を受けやすいであろうと思われるものもある。

さらに、(二)、(1)の単独実行か否かについての共謀内容、(三)、(4)の動機についての変遷などの点については、単に自己の犯情を良くするために、取調べが進むにつれて、供述内容が自分に有利なように変わってきたものにすぎないという見方をすることも不可能ではない。また、そもそも、第一、三回各員面等は、捜査の初期の段階のもので、被告人の記憶もあいまいな時に捜査官の不正確な誘導等により誤った内容の自白になっているおそれがあるのに対し、検察官は、被告人に対し警察段階での調書により誘導することなく、記憶を蘇らせつつ供述をさせたから、そのような警察の調書の供述内容と検察官に対する梅田自白の内容とが異なっていても不合理ではなく、むしろ検察官に対する自白の信用性の高いことを示しているという考え方もあり得るかもしれない。

このような視点からも考えると、本件の自白段階における被告人の供述の変遷は、いずれも、それぞれ単独で見るならば、それほど大きくは自白の信用性に影響しないものか、あるいはほとんど自白の信用性を低下させないものばかりであると評価することも、あながち不可能ではないかもしれない。

しかしながら、先の(二)の各変遷と(三)の各変遷とを合わせて全体を通してその供述の変遷状況を見ると、二転、三転しているものも含めて、このように多種多様な供述の変遷があるのは、やはり不自然、不合理であると評価せざるを得ないであろう。しかも、そのほとんどについて、供述調書等の上で、その変遷の理由が何ら述べられていないことや、むしろ虚偽の自白であることを前提として被告人が主張している変遷の理由にそう結果となっているものもあることにも注目せざるを得ないであろう。また、犯情を良くするための供述の変遷あるいは警察段階における供述が誤りであるための供述の変遷として理解することもできるものがあるとしても、前者については、本件における供述の変遷は刑責や犯情とはほとんど関係しないものが大部分であり、後者についても、検面調書において、警察段階での供述との食い違いの理由等について何らかの説明がされているわけでもないし、このような理由による供述の変遷があるということ自体、全体を通じての供述態度という方向から考えると、やはり自白全体の信用性を損なうものといえようし、さらに、そもそもそのような理由のみで、これまで述べてきたすべての変遷を説明し尽くすことは到底不可能と考えられる(例えば、強取金の使途について、仮に一部を焼却したことがあるのなら、忘却するはずはなく、当初から供述し得るものと考えられるし、ナイフの投棄、死体運搬の経路等も供述が転々とし、最終的に正しい記憶を蘇らせて供述したものとは考え難い。)。したがって、このような見方もできる変遷箇所があるからといって、被告人の供述の変遷状況全体に関する評価が変わるものではないというべきである。

また、検察官は、事案の中枢的事実関係については、被告人の自白に一貫性があると主張しており、確かに、被告人が羽賀に誘われて本件犯行に加担したこと、一〇月一〇日に大山を柴川木工場付近から本件犯行現場へ誘導し、バット・ナイフ・細引を使用して殺害し、全裸にして羽賀が掘っておいた穴に埋めたこと、大山の衣類や大山から奪った金包み等を羽賀に渡し、その中から四万五〇〇〇円を受け取ったことなど、本件犯行のいわば骨格部分のみを抜き出せば、被告人の自白段階における供述内容はほぼ一定しているといえよう。しかし、これまで述べてきた変遷箇所は、前記のとおり本件の中枢的事実関係にまで及ぶものも多く、中枢的事実関係に関する自白がすべて一貫しているとはいえない。また、検察官の指摘するような事案の骨格部分についての自白の一貫性は、捜査官の作成した自白調書としてむしろ当然のことともいえ、殊に、本件においては、検察官の挙げる事項程度は、被告人の取調べの前から、羽賀の一〇月二日付員面や、大山の死体の発掘等によって、既に捜査官の概ね認識していたところであったことなどを考えると、この程度の供述の一貫性をもって、ことさらに自白の信用性を高めるものということはできない。

また、検察官は、羽賀の指示により被告人が羽賀と一緒にではなく単独で本件犯行を実行したという被告人に不利な事実について、被告人は、これを自白の当初から一貫して供述しているとし、特に注目されるのは、警察官も被告人と羽賀の二人が犯行を実行したのではないかと疑っていたのに、被告人が、最初からあっさり自己の単独実行を認めた点及び被告人と羽賀が最初二人で実行することになっていたが、後に被告人単独で実行することになった経緯は、実際にその経緯を知る者でなければ供述できない事柄である点であり、これらは梅田自白の信用性が高いことの根拠の一つであると主張する。しかし、先に述べたとおり、第一回員面における供述内容は、羽賀との共謀において、被告人が単独で本件犯行を実行することになっていたという趣旨に解されるのであって、供述の当初の段階から共同実行が予定されていた旨供述していたものではない。また、結局、被告人が単独で実行したという点については、関係証拠によれば、捜査官は、発掘された大山の死体の向き、大山の首に巻かれていた縄などが羽賀の事前の説明と食い違っていたことや当時捜査中であった小林事件との対比等により、被告人の逮捕前から本件犯行の実行行為の担当者が羽賀以外の者ではないかという疑念を抱いていたことが明らかであり、また、羽賀の一〇月二日付員面において、既に、羽賀が被告人に対し予め二人で殺すと言っていたが、所期の考えどおり結局被告人単独で実行させた旨を供述している点及び前記のような逮捕当初の取調べ状況等からすると、捜査官が被告人の取調べにおいて、被告人が単独で実行したように強くその供述を誘導したため、被告人が単独実行を供述したとしても、何ら不自然ではない(この点について、梅田手記七枚目裏には、「羽賀は……中略……仁頃にも俺の戦友が居り、其れを実は使い大山を殺害したのだがと申して居るが、其れでもお前は知らぬと申すかと」刑事達から言われ、私的制裁を受けた旨の記載がある。)。したがって、捜査官の予断や、被告人の自白に先行する羽賀の供述が右のようなものである以上、この点に関する被告人の供述が、かなり早い段階から一貫していたとしても、特段梅田自白の信用性を高めるものとは評価できない。

以上検討してきたとおり、被告人の捜査段階における供述は、否認と自白との間を再三揺れ動いており、元来、その供述の一貫性に大きな問題がある上、自白の内容においても、多数の供述の変遷があり、それらを全体として見るならば、梅田自白の信用性を検討する上で、信用性をかなり減殺する要素になっていると評価すべきである。

5  羽賀供述との食い違い

(一)  序論

弁護人は、梅田自白と羽賀供述との間には、どのように考えても理解し難く、また、これが綿密な計画と準備の上で強盗殺人という犯行を共にしたとする者同士の供述なのかという疑いを否定できない重大な食い違いが多数存し、梅田自白の真実性のないことを示している旨主張し、主要な点として、① 会合の日時、場所及び回数、② 共謀の形成経緯、③ 会合の約束、④ ホップ取引の話、⑤ 単独実行の話、⑥ バットの形状、⑦ バットの受け渡し、⑧ ナイフの使用、⑨ 柴川木工場での待ち合わせ状況、⑩ 犯行直後に被告人と羽賀が会った場所、⑪ 金包み等の受け渡し状況、⑫ 強取金の分配についての約束、⑬ 犯行後の会合と金員の要求などの諸点を指摘する。これに対し、検察官は、羽賀と被告人との共謀に関する供述は、大筋において符合しており、共謀の場所としての羽賀の自宅、図書館、辰巳食堂等も、両名の供述は一致しているのであって、このことは両名が共通の体験を有していることを如実に物語っているものであり、他方、通常、自白している者が殊更事実の一部を秘匿することはよく見られるところであるから、両名の供述に食い違いがあることが相互の供述の信用性を減殺するものではない旨主張する。

そこで検討するに、梅田自白及び羽賀供述は、いずれも、被告人と羽賀とが、本件犯行に関連して何度か会い、事前に両名で本件犯行を詳細に共謀し、被告人がその直接の実行行為を行い、犯行直後にまた両名で会合したという点では一致している。そうだとすれば、両名が共に誠実に自白しているのであれば、両名が一緒に体験したはずの事実については、原則的には梅田自白及び羽賀供述がほぼ一致して然るべきであるということは、いうまでもないところである。

そうすると、先に述べた本件の証拠構造からすると、被告人を本件犯行に直接結び付ける証拠は、梅田自白及び羽賀供述しかないわけであるから、両供述間の不自然な食い違いは、梅田自白及び羽賀供述双方の信用性を減殺する要素となる可能性があるものといえる。

また、関係証拠によれば、羽賀が本件犯行に加担していることは確実であり、かつ、羽賀の外にも共犯者がいる可能性がかなり高いものと考えられる。そうすると、二人で本件犯行を犯した旨自白する羽賀供述は、被告人をその共同正犯者として名指しする部分をとりあえず除いて考えれば、このような場合の一般論としては、かなりの部分について一応の信用性が推定されるといってよいであろう。また、羽賀供述には、既に検討したように極めて多くの問題点があるわけであるが、全体として見れば、梅田自白に比較して、より不自然、不合理な内容になっているとまではいえないものと考えられる。他方、梅田自白は、羽賀供述の場合のように、少なくともこの限度では一応真実であろうといった核心的部分は存在せず、また、秘密の暴露や後述するように具体性、迫真性といった観点から明らかに信用性が肯定されるという部分も特に見当たらないのである。したがって、梅田自白は、羽賀供述とは異なり、いわば白紙の状態から、そのすべての部分について信用性の検討をせざるを得ないと考えられる。

そうすると、羽賀供述と梅田自白の食い違いは、本件の証拠構造からいって、羽賀供述の信用性にも消極的影響を与えるものといわざるを得ないが、第一次的には、原則として梅田自白の方の信用性を減殺する方向に働くものと解される。

もっとも、真に罪を犯した共犯者が、それぞれ自白しているとしても、各人の立場ないし心理状態の違いにより、話の内容の受け取り方や個々の出来事に対する観点も異なり、記憶の濃淡や供述の精粗の差もあるので、これらのために、各人にとって重要性の低い事項や細かな事実については、各人の供述に多少の差異が生じ得ることは当然である。また、本件のように、犯行後、長期間を経過した後の自白にあっては、各人が記憶を喚起していく上で異なる段階にあったり、あるいは、思い違いや元来の記憶力の差異などによっても、それぞれの供述内容に違いが生じてくることもあろう。さらに、共犯者間では、互いに自己の犯情を有利にしようとするために、意識的にあるいは無意識のうちに各人の供述内容に差異が生じてくることも、しばしば経験されるところである。したがって、共犯者とされる者同士の供述内容に差異があるというだけで、直ちに、いずれかが嘘を言っているものと判断し、双方あるいは片方の供述全体の信用性を否定したり、あるいはこれを減殺する要素であると断定すべきではないことも、また当然であろう。

このような考え方からすると、本件においては、羽賀供述と梅田自白の食い違いの生じている範囲、その対象事項の性質、食い違いの態様等をも慎重に吟味し、共犯者の供述間に通常あり得る食い違いの程度にとどまっているかどうかを検討して、梅田自白の信用性に対する影響を判断する必要があるというべきである。

そこで、以下、右のような観点から、羽賀供述と梅田自白との食い違いのうち、主要なものを、前記①ないし⑬の諸点を中心に検討することとする。

(二)  食い違い箇所の検討

(1) 会合の日時、場所及び回数(前記①)

本件犯行に関連して羽賀が犯行前に被告人と会合した日時、場所及び回数については、羽賀供述にも変遷があるが、基本となるものとしてその検面調書を中心に見ると、羽賀と被告人は本件犯行に関連して全部で五回会っており、第一回目は、八月末ないし九月末ころ羽賀宅及び辰巳食堂で(一〇月四日付、同月七日付各員面、第一、五、六回各検面、原一審第七、二二、二三回各公判供述等)、第二回目は、九月下旬ころ辰巳食堂で(一〇月四日付員面、第六回検面、原一審第八、二二回各公判供述等)、第三回目は、一〇月初旬(三日)ころ、図書館で(一〇月二日付、四日付及び六日付各員面、第六回検面、原一審第八、二二、二三回各公判供述等)、第四回目は、一〇月八日ころ、柴川木工場前及び本件犯行現場付近で(一〇月二日付員面、第七、一〇回各検面、原一審第九回公判供述等)、そして第五回目は、一〇月一〇日、被告人が大山と会う少し前に、柴川木工場前で(一〇月二日付員面、第七、八回各検面、原一審第九回公判供述等)、それぞれ会ったことになっている。

これに対し、梅田自白では、本件犯行に関連して羽賀とは全部で三回しか会合していないことになっており、第一回目は、九月二〇日ころ北見駅前付近路上、図書館及び辰巳食堂で、第二回目は、一〇月六日ころ羽賀宅及び北見市東五丁目付近に至る路上で、そして第三回目は、同月八日ころの昼ころ北見市東五丁目付近路上、仁頃街道及び本件犯行現場付近路上で、それぞれ会ったことになっている(いずれも第二回検面)。

両者の供述は、会合の回数が大きく異なる上、日時及び場所が一致する会合は一つもなく、わずかに一〇月八日の会合が類似しているだけである。また、特徴的な会合と考えられる羽賀宅であった日も、羽賀供述では、犯行の約一五日以上前の第一回会合ということであるのに対し、梅田自白では犯行の約四日前の第二回会合となっており、極端な食い違いがある。

(2) 共謀成立の時期及び場所

共謀の形成経緯(前記②)のうち、共謀成立の時期及び場所を見ると、羽賀供述によれば、本件犯行に関連して被告人と会った第一回目の会合の際、辰巳食堂において、羽賀が被告人に対し営林局の者に金を持ち出させ、この者を二人で殺して金を奪うという話をして被告人の了解を取り付けたことになっており(一〇月二日付及び四日付各員面、第一、六回各検面等)、昭和二五年八月末ないし九月末ころの第一回目の会合の際に既に本件犯行につき概括的共謀が成立したことになっている。

ところが、梅田自白では、人を殺して金を奪うという話が出て来たのは、一〇月八日の第三回会合の際に、本件犯行現場付近で羽賀が突然打ち明けたのが初めてということになっており、大きく食い違っている。しかも、両者の供述は、いずれも共謀成立に至る前後の状況について、会話の場所などとも関連付けながら、全く異なる事実をかなり詳細かつ具体的に述べており、このような点も考えると、この食い違いは、相当に不自然なものといわざるを得ない。

(3) 共謀進捗の過程

共謀の形成経緯(前記②)のうち、その進捗の過程を見ると、羽賀供述によれば、本件犯行に関連して被告人と会った第一回目の会合において、犯行の基本的な骨組みについて被告人の了解を取り付けた上、第二回目及び第三回目の会合では、被告人をブローカーとして大山に引き合わせ、被告人はまことしやかな話をして大山を信用させ、さらに、第二ないし三回目の会合の際には、犯行場所も決め、第四回目の会合では、二人でその犯行場所を実地見分し、犯行の方法についても詳細な打ち合わせをし、そして、第五回目の会合では、羽賀が大山と一緒に来れなくなったので、被告人一人で本件犯行を実行してくれるように依頼したということになっている(主に、第一回及び第五回ないし第八回各検面)。右供述には、概括的共謀から序々にその話が具体化し、ついには被告人の単独実行になってしまう過程や準備行為を積み重ねていく進捗状況が一応示されているといえよう。

ところが、梅田自白の方を見ると、第一回目の会合では、大山と一緒の羽賀と会ったというだけであって、人殺しなどの話は全く出ておらず、第二回目の会合でもホップの取引による金儲けの話が出ただけであり、第三回目の会合においてようやく本件犯行の話が出てその詳細な共謀の成立に至るわけである(第二回検面)。しかも、被告人一人で実行しなければならないかもしれないことも、この第三回目の会合の際に話されたことになっており、いわば羽賀供述にある第一回目ないし第五回目の各会合における共謀の進捗過程が、梅田自白における第三回目の会合に凝縮されているかのような体裁を示している。

このような大きな食い違いは、到底単なる記憶違いなどとして説明できるものではないと考えられる。

(4) 大山との会合

本件犯行に至る共謀の形成経緯(前記②)の中でも、大山との会合は、被告人にとって、比較的忘れ難い事項と考えられる。そこで、被告人と大山とのかかわり合いを見ると、羽賀供述では、被告人が大山と会ったのは本件犯行の共謀後であって、大山に金を持ち出させるための下工作の一環として被告人を大山に引き合わせたことになっており、なお、大山にも偽名を用いさせたことになっている(一〇月四日付員面、第六回検面等)。これに対し、梅田自白では、本件犯行の話が出る前の第一回目の会合の際、偶然に大山と会っていることになっており、したがって、被告人と大山は、本件犯行の下工作を始める前から面識があるわけであり、右の出会いの際も、羽賀によって、被告人は「戦友」として、大山は本名の「大山」として紹介されたことになっている(第二回検面)。

さらに、羽賀供述では、被告人は、本件犯行前に既に二回大山の前でブローカーとして演技したことになっているのに対し、梅田自白では、被告人がブローカーとして大山に会ったのは、本件犯行の時が最初で最後ということになっている(いずれも前掲各証拠等)。

これらの食い違いも、重要な事項についての顕著な差異といえよう。

(5) 各会合場所での言動

共謀の形成経緯(前記②)における各会合の際の被告人と羽賀の言動を見ると、これも両名の供述は大きく食い違っている。

もち論、両名の供述が、本件犯行後約二年間を経過した後のものであること等に照らせば、両名の本件犯行のころの会話や行動についての記憶があいまいになり、各会合間に混同が生じたり、会話内容の詳細等に差異が出て来るのは、やむを得ないところであろう。しかし、場所と結び付けて各会合を特定した場合に、その場所での会合の性格や話の基本的なテーマなどといった点までが大きく食い違ってくるということは、通常では考え難いところであろう。

ところが、本件においては、例えば、被告人が羽賀宅を訪問した際の会合(羽賀供述では第一回目、梅田自白では第二回目)についても、羽賀供述では、羽賀が自宅から被告人を辰巳食堂へ連れて行って営林局の者を殺して金を奪うという話をしたことになっているのに対し、梅田自白では、辰巳食堂へは行かず、路上でホップの取引による金儲けの話をしたことになっている。

また、辰巳食堂における会合として特定してみても、羽賀供述では、第一回目は、右に述べたとおり強盗殺人の概括的共謀をしたことになっており、第二回目には、被告人がブローカーになりすまして、大山をだますための打ち合わせをした後、被告人がブローカーとして大山に会い、ホップの取引の話をしたことになっている。これに対し、梅田自白では、たまたま大山と一緒の羽賀と会い、世間話をしながら、食事をして別れただけということになっている。

さらに、犯行現場付近での会合は、両者の供述の日時及び場所が類似している唯一の会合であるが、その際の両名の言動については、両者の供述間にかなりの差異がある。殊に、羽賀供述では、バットを短く切ったものを手渡したり、犯行の予行演習(羽賀の公判供述)をしたことになっているのに対し、梅田自白では、このような行為はなかったことになっており(ただし、第一回員面では、バットを短く切ったものを手渡したことになっている。)、食い違いが際立っている。

(6) 犯行場所の選定

共謀の形成経緯(前記②)のうち、犯行場所の選定の事情を見ると、羽賀供述では、第二回目又は第三回目の会合の際に、被告人が手帳に本件犯行現場付近の略図を書いて羽賀に示し、被告人の発案により本件犯行場所を決めたことになっている。これに対し、梅田自白では、第三回目(最終)の会合の際に、羽賀が被告人を本件犯行現場付近へ連れ出し、ここで大山を殺すという話を被告人に打ち明けたということになっており、羽賀が一方的に犯行場所を決定したことになっている。

(7) ホップの取引の話(前記④)

羽賀供述では、ホップの取引の話は、大山を金儲けができると騙して金を持って来させるための方便として出て来るのであり、被告人は当初からそれが虚偽であることを知っていて大山の前で演技をしていたことになっている(一〇月二日付、四日付及び六日付各員面、第六回検面、原一審第八、二二回各公判供述等)。これに対し梅田自白では、羽賀は、当初被告人をもホップの取引によって金儲けをするものと騙していたものであって、被告人は、第三回目の会合の際に大山を殺して金を奪う話を打ち明けられるまで、実際にホップの取引をするものと信じていたことになっている(第二回検面)。

また、ホップの取引をする家の名についても、羽賀供述では、「林」という名前にしたことになっている(一〇月二日付、四日付及び六日付各員面。ただし検面以降は、供述が変遷しており、はっきりしない。)のに対し、梅田自白では、羽賀から「高台の佐藤」と言われたことになっており(前記第二回検面)、明白な食い違いを示している。

(8) ナイフの使用(前記⑧)

ナイフの使用に関する共謀内容を見ると、羽賀供述では、捜査段階においては、万一やり損なった時に使うように、そのための準備として何か刃物を用意して行くように言った記憶もあるという程度の供述になっており(一〇月四日付員面)、公判供述でも、一応刃物は用意するが、その刃物は、できる限り使用しないようにという話をしておいたことになっている(原一審第九、一一、二二回各公判供述)。すなわち、羽賀供述では、本来、使用を予定している凶器は、バットと縄だけであって、羽賀は、ナイフの使用には余り積極的ではなかったということになっているのである。

ところが、梅田自白では、被告人は、当初から、ナイフを含む三種類の凶器を使用するように羽賀から指示されたことになっており、羽賀供述の趣旨とは、かなり食い違っている。

(9) 犯行当日の会合

共謀の形成経緯(前記②)のうち最後の段階をみると、羽賀供述では、羽賀は、犯行当日の午後五時又は六時ころ約束よりも早い時間に柴川木工場前に行って被告人と落ち合い、その際、大山と一緒に来れないので一人で決行してくれるように、又は一緒に来れなかった場合には一人で決行してくれるように、被告人に依頼して了解を得たことになっている。

これに対し、梅田自白では、犯行当日は、羽賀と会わないまま、本件犯行を一人で決行したことになっており、その差異は極めて特徴的なものといえよう。

(10) 会合の約束(前記③)

羽賀供述では、第一回目の会合を除いて、それ以降の会合は、すべて、次はいつどこで会うのかを約束し、概ねその約束のとおりに会ったことになっている(前記(1)に挙げた各証拠等)。

これに対し、梅田自白では、第一回目はもち論、第二回目の会合も、約束なしにたまたま羽賀宅へ立ち寄ったことになっている。また、その際に第三回目の会合を一応約束したことにはなっているが、その内容は、二、三日中に羽賀宅を訪れるというあいまいなものであり、やはり偶然性は払拭されていない(被告人の前記第二回検面)。

(11) バットの形状(前記⑥)

羽賀の第六回検面及びその添付第四図によれば、本件犯行に供したバットは、羽賀が野球用バットの細い方の部分を切り落として長さ一尺五寸位とし、さらに、その細い方から太い方に向かって四寸位の所に鋸で浅く切り込みを付け、その切り込みから細い方の端までの部分を包丁で削り落として直径八分(約二・四センチメートル)位の柄を作った物ということになっている。これに対し、梅田自白(第三回検面及びその添付第四図(三))では、本件のバットは、野球用のバットの握りの部分を切り落とし、長さ二尺又は二尺をちょっと切れる位にしたもので、細い方の末端から三寸位の所を片手で握ると親指と人差指の間が一寸五分(約四・五センチメートル)位開いたということになっており、握りの部分の細工及びその太さ、それにバットの長さの点で先の羽賀供述と大きく異なっている。

もっとも、検察官は、羽賀の書いた前記検面添付図面は誇張されたものであり、被告人の原一審第二六回公判供述によれば、羽賀が捜査段階において作成した模造バットの末端から太い方に向かって三寸位の所を、被告人が右手で握ったところ、親指と人差指の間に約一分(約〇・三センチメートル)位のすき間ができたとなっていて、右バットがそれなりの太さをもっていたと思われるから、実際には、極端な段差ができるほどに柄を削り落としたものとは考えられないので、被告人がそのような細工がされていることに気付かなかったとしても不自然ではない旨主張する。

しかしながら、右羽賀の作った模造バットについては、羽賀は、第一三回検面、原一審第九回公判において、実際のものは、これよりももう少し細かったように述べている。また、羽賀の一〇月六日付員面では、本件犯行に供したバットについては、「持つ方を少し削った」と説明されており、右員面添付の凶器(バッター)の図を見ても、柄はそれほどではないけれども削られていることは一見して明らかである。

また、握りの部分に削った跡があるかどうか、及び段差があるかどうかということは、それを手に取ってみさえすれば、すぐ分かる顕著な特徴と考えられる。そして、梅田自白によれば、被告人は、このバットを両手で握って、これで大山を殴っていることになっており、しかも、右バットについては、殴打の際にだけ所持していたのではなく、これを隠し場所で見付け出して以来、一時間位もの間持ち歩いていたことになっているのであるから、当然、その間にも、これを点検してみたり、握りの部分に触ってみたり、あるいは、握ってみたりしたこともあるものと推測される。そうすると、いずれにせよ、バットの握りの部分に段差があったり、削り跡があれば、それに気付いて当然と考えられる。また、前記模造バットの柄も梅田自白に示されているバットの柄よりは細かったことになるし、バットの長さにも差があるのであるから、やはり、バットの形状に関する両者の供述の差異は、通常の記憶違いや錯覚などの程度を超えていると解する方が自然と考えられる。

(12) バットの受け渡し

羽賀供述では、一〇月八日の会合の際に、羽賀がバットを持参してこれを被告人に手渡したことになっている(一〇月二日付員面、第七、一〇回各検面)。これに対し、梅田自白では、被告人は、最初の供述でバットを受け取ったことを供述したものの(第一回員面)、その後は、一〇月八日には羽賀からバットの隠し場所を告げられただけであって、同月一〇日にその隠し場所で初めて本件犯行に使用したバットを手にしたことになっており、バットの受け渡し状況につき顕著な食い違いを示している。

(13) 大山を待つ間の被告人の行動

羽賀供述によれば、犯行当日、戸外が暗くなったころに、再び柴川木工場付近へ引き返して様子を隠れ見ていると、被告人が木工場の前の仁頃街道をぶらぶらしており、羽賀が着いてから三〇分位もたったころに大山が来たことになっている(第八回検面、原一審第九回公判供述等)。

これに対し、梅田自白では、犯行当日午後七時ころ柴川木工場に着き、材木置場で縄の結び目を作るなどの凶器の準備をしてから、木工場前の道路で大山を待っていたところ、午後七時二〇分ころ大山が来たことになっており、両名の供述には、大山が来るまでの間の被告人の行動につき食い違いがある。

(14) 犯行直後に被告人が羽賀と会った場所

犯行直後の会合については、羽賀供述にも変遷が見られるが、一〇月二日付員面では、羽賀が柴川木工場付近で待っていたことを前提に、被告人が東陵中学校の方から歩いて来たので同人の方へ行って会ったことになっている。右員面以外では、羽賀が二本木あるいは仁頃街道から本件犯行場所へ通ずる山径との分岐点近くで被告人の姿を見て引き返し、三楽園の方へ行く脇道に入って柴川木工場の近くで仁頃街道へ戻り、再び仁頃街道を右分岐点の方へ歩いて行ったことを前提に、第八回検面では、仁頃街道とその一本東寄りの道路との別れ道付近で、原一審第九回公判供述では、仁頃街道と右脇道との交差点から約五〇メートル進んだ地点で、そして原一審第二二回公判供述では、右交差点から七、八〇メートル進んだ地点で、被告人と会ったことになっている。いずれにせよ、柴川木工場にかなり近い地点で会ったことになっているわけである。

これに対し、梅田自白では、二組ある二本木のうち、仁頃寄りの方の二本木の五、六間(約九ないし一〇・八メートル)位手前まで来たらそこに羽賀が立っていたとなっている(第三回検面)。

両供述を比較すると、羽賀供述に示されている会合地点は、すべて東陵中学校よりもかなり北見市街寄りであって、むしろ柴川木工場の方に近い場所になるのに対し、梅田自白に示されている会合地点は、被告人の第二回検面添付第三図、第三回員面添付図面等に照らすと、東陵中学校よりも少し仁頃寄りの場所と解され、両者の供述は、はっきりと食い違っている。

(15) 強取金の受け渡し状況等(前記⑪)

被告人と羽賀が犯行直後に会ってからの会話、風呂敷包みの引き渡し、強取金の分け前の受取り状況等に関する羽賀供述には変遷があるが、比較的詳細かつ明確な供述がされている同人の第八回検面を中心に見ると、羽賀は、被告人と会って一緒に現場へ行けなかったことの言い訳をいろいろ述べ(羽賀の第九、二二回各公判供述では、この点が落ちている。)、二人一緒に柴川木工場の土場の材木と材木との間で(この地点についても若干変遷があるが、いずれも柴川木工場付近にはなっている。)、バットを差し込んだ大山の衣類等の包みと金包みを受け取り、現金のうち四分の一位を取り出して被告人に渡し、しばらくの間金を使わない方がよいことや、北見市街へ出て来ない方がよいことを被告人に注意して別れたということになっており、また、羽賀の原一審第二三回公判供述では、羽賀は、別れ際に、被告人に「絶対だぞ。」と言ったことはないとなっている。

これに対し、梅田自白では、二本木付近で羽賀と会った際、羽賀が「御苦労さん。うまく埋めてきたか。」と言ったので、埋めて来たことを話し、「これを持って来たよ。」と言って風呂敷包みとバットとを渡し、それから二人で北見市街の方へ歩き出したところ、羽賀は、二間(約三・六メートル)位も歩いてから黙ったまま千円札の束を私に突き出したので、私も黙ってこれを受け取り、その後、自転車を置いて来た柴川木工場まで戻って、木工場の前で羽賀と別れたことになっており、また、別れ際に、羽賀の言った「絶対だぞ。絶対だぞ。」という言葉が強く残っているとなっている。

両者の供述には、風呂敷包みや強取金の分け前の受け渡し場所及び別れ際の羽賀の言葉などについて明白な差異があるといえよう。

(16) 大山の風呂敷包みの包み方

羽賀供述によれば、被告人から受け取った金が包まれていた方の風呂敷包みは、風呂敷の一端から対角に向かって品物をグルグル巻きにし、他の両端は、結ばずにその上にたたんだだけのものであったとなっている(第八回検面)。

これに対し、梅田自白では、大山は、柴川木工場に来た時、右手に風呂敷包みを一つ持っていたが、その風呂敷包みの結び方は、四方の隅を十文字に結んだものではなく、長い方の部分の端を結んでいただけであって、犯行後、落ちていた右風呂敷包みを拾って持って行き、羽賀に渡したことになっており(第三回検面)、両名の風呂敷の包み方に関する供述には食い違いが見られる。

なお、前記の羽賀の供述は、風呂敷の包み方を知った状況等について具体的かつ特徴的な説明がされている上、大山が、犯行当日、現金を風呂敷で包み、上衣の内側にその風呂敷包みを腰に縛り付けて出かけたという旨の証人長尾心一の原一審第五回公判供述にも符合し、かなり信用性の高いものと考えられる。したがって、右の食い違いは、重要な事項に関するものではないものの看過すべきではないと考える。

(17) 強取金の分配についての約束(前記⑫)

羽賀供述では、本件犯行前に強取金を被告人と半々に分ける約束をしていたことになっている(原一審第九回公判供述)が、梅田自白では、金の分配については相談していないとされている(第二回検面)。

(18) 犯行日の後の会合

羽賀供述では、同人は、本件犯行日の後、被告人と一回だけ会っており、昭和二五年一一月の初めころ大通東五丁目付近で被告人が羽賀方へ来るのに会い、金員の追加を要求されたが、断ったことになっている(第八、一一回各検面、原一審第九回公判供述等)。

これに対し、梅田自白では、被告人は、一〇月一〇日の晩に羽賀と別れて以来、逮捕されるまで同人とは一度も会っていないことになっている(第三回検面)。

(三)  結論

以上のとおり羽賀供述と梅田自白には多数の顕著な食い違いが見られる。

殊に、共謀の成立経緯とその内容に関しては、前記(1)ないし(10)のとおり多種多様な供述の食い違いがあり、過半数の部分が一致していないと言ってもよいほどである。共謀の成立経緯とその内容は、本件犯行自体にも直接関連する事項であり、また、被告人及び羽賀の双方にとっても、その当時重要な意味を持っていた事柄のはずであるから、それにもかかわらず、このような広範な食い違いが生じていることは、先に述べたような共犯者の供述間に食い違いを生じさせる一般的な原因によるものとしてこれを安易に看過することはできないというべきである。とりわけ、(1)の会合の日時、場所及び回数、(2)の共謀成立の時期及び場所、(3)の共謀進捗の過程、(4)の大山との会合、(9)の犯行当日の会合などについての供述の食い違いは、両名が同一事実を体験し、誠実にこれを自白しているのであれば、到底考えられないほどの大きな差異であり、それぞれ単独で考えてみたとしても、いずれも梅田自白の信用性を消極に考慮すべき要素と評価することができよう。

そのほか、(5)の各会合場所での言動、(12)のバットの受け渡しなども、単純な記憶違い等の生じにくい事柄と考えられ、やはり、両名が誠実に自白しているのだとすれば、説明を付け難い矛盾というべきである。

もっとも、前記(二)で指摘した食い違いのうち、(7)のホップの取引の話、(8)のナイフの使用、(10)の会合の約束、(11)のバットの形状、(13)の大山を待つ間の被告人の行動、(14)の犯行直後に被告人が羽賀と会った場所、(15)の強取金の受け渡し状況等、(16)の大山の風呂敷包みの包み方などは、比較的細かな事項、あるいは被告人又は羽賀にとってそれほど重要性の高くない事項についての供述の食い違いであり、これらをそれぞれ単独で抜き出して検討するならば、両名の記憶力の差異、被告人が犯行前後に興奮状態であったことによる思い違い、あるいは単に記憶、説明若しくは質問が誤っていたか不適切であったために、このような供述の食い違いが生じたとしても、必ずしも不自然とはいえないものと考えられる。また、(6)の犯行場所の選定、(17)の強取金の分配についての約束、(18)の犯行日の後の会合は、かなり重要な事項ではあるが、一般論として言えば、犯情を軽くするために共犯者間に供述の食い違いが生じやすい領域に属する事項であって、被告人が意識的に虚偽を述べ、あるいは無意識のうちに忘れ去ってしまった可能性も否定できない。また、羽賀供述自体も先に判断したように確固たるものではないことからすれば、羽賀の方が虚偽を述べている可能性も考えられよう。さらに、(1)の会合の日時、場所及び回数、並びに(2)の共謀成立の時期及び場所も、それだけを見れば、被告人が本件犯行との結び付きをできるだけ軽く見せるため殊更に事実をまげて述べたものという見方も全くできないわけではない。

しかしながら、右に挙げた供述の食い違いは、若干事実をまげたり、あるいはこれを修飾したり、一部を隠したりという類のものは少なく、そのほとんどが顕著な食い違いである。しかも、極めて広範な事実について多種多様な食い違いが生じていること、羽賀供述はかなり詳細なものであるが、梅田自白もそれなりの詳細さと具体性とを兼ね備えており、両供述の精粗の差によって細かな供述の食い違いの大部分を説明するのは困難であること、先に指摘したとおり、極めて重要な事項についても不自然な食い違いが生じていること、それに、食い違いのある事項のうち、犯情と関係するのは、先に挙げた程度であって、過半数の食い違いは、特段犯情と関係するものではないこと等を考え会わせると、前記のように、羽賀が、真の共犯者の替わりに被告人の名を出した可能性もないではない本件において、全体として見るならば、(1)ないし(18)に指摘した点のいずれも、梅田自白の信用性を検討する上での消極的考慮要素に数え入れるのが相当である。

また、羽賀供述と梅田自白は、本件犯行の最も骨格的な部分においては、概ね合致しているものと評価できる。しかし、共犯者同士の供述において、具体的な説明や細かい経緯等とはいえ、重要な部分も含むこれらすべてを捨象した犯行の基本的筋道のみが一致することが、そもそも一方の自白の信用性を検討する上で果たしてどれほどの意義がおるのか問題である上、本件では、被告人の取調べ当時、既に大山の死体が発掘され、本件犯行についてある程度客観的事実が明らかになっており、さらに、被告人の最初の自白に先立つ一〇月二日には、羽賀が被告人との共謀によって本件犯行を犯した旨自白し、その犯行に至る経緯や犯行状況、強取金の分配等の大略を供述しているのである(羽賀の一〇月二日付員面)。そうすると、先に判断したとおり警察段階における被告人の取調べに際して、違法な強制のあった疑いが強く、また、検察官に対しては迎合的な供述がされている本件においては、犯行の基本的な筋道に関し、梅田自白が概ね羽賀供述と符合しているとしても、特段梅田自白の信用性を高めるものとは解されないと考えられる。

以上によれば、羽賀供述と梅田自白には、両名が共通に体験したはずの事実について極めて広範な部分にわたって、顕著な食い違いが認められ、その中には、両名にとって重要性の高い特徴的事項に関する供述の食い違いや被告人と本件犯行とを結び付ける上で極めて重要な部分に関するものも含まれ、全体として、このような食い違いを共犯者間に供述の差異をもたらす一般的な原因によって説明することも困難であると考えられるので、両名の供述の食い違いは、梅田自白の信用性をかなり減殺するものと判断すべきである。

6  自白の具体性、詳細性及び迫真性

(一)  序論

検察官は、被告人の検察官に対する供述調書は、具体的かつ詳細で迫真性に富むものであり、また、被告人の自白には、実際に体験した者でなければ供述し得ない事実が多数含まれている旨主張し、後者の顕著な例として、① 青年会館、② 本件犯行当日の天候等、③ 大山と同行中の会話等、④ バットによる打撃動作、⑤ 大山の転倒姿勢、⑥ 死体埋没状況等及び⑦ 単独実行となった経緯の七点に関する各供述を挙げる。

これに対し、弁護人は、梅田自白は、全体に平板であって、犯人でなければ語ることができないような臨場感を欠いており、その供述内容は、被告人の取調べ当時捜査官において認識していた事実あるいはその認識を基に推理を働かせて作出することができる事項に限られており、検察官の挙げる諸事実に関する供述も含めて特段自白の信用性を裏付けるような供述は見当たらない旨主張する。

そこで、以下、詳細性、具体性及び迫真性、そして検察官の指摘する諸点についての判断という順序で検討することとする。

(二)  詳細性

まず、梅田自白の詳細性という視点から見ると、確かに、被告人の検察官に対する供述調書は、三通、合計六八丁(本文五八丁)に及ぶものであり、本件犯行の概要にとどまらず、羽賀との共謀に至る経緯、その共謀内容、犯行状況、犯行後の被告人の行動及び心境等につき、部分的には具体性を備えながら、かなり詳細な供述が録取されている。

しかしながら、被告人が捜査官に対して二度目の自白をし、これを維持していた期間が一〇月四日夕方から同月二一日の橋本検事に対する否認までであって、かなり長期間であること、梅田自白及び羽賀供述においては、本件犯行は二名の共謀による計画的かつ複雑な犯行となっており、その説明には、元来相当量の供述が必要であること、本事案は、当時の取調べ官にとって重大な事件であったはずであり、できる限り詳細な供述調書を作成すべく努めたはずであること、梅田自白において共同正犯とされる羽賀の検察官に対する供述調書の内容は、梅田自白よりもかなり詳細であること、小林事件において被告人と類似した役割を果たしたとされ被告人の取調べとほぼ同じ時期に同じ検察庁で取り調べられていた清水の検察官に対する自白調書の内容が、梅田自白と比較して詳細性において若干勝っていることなどに留意しながら、被告人の三通の検面調書(第一回ないし第三回検面)を精査すると、右三通の調書は、全体として見ても、この種事件の自白調書として通常具備しているいわば最低限の詳細性を有しているにすぎず、全体的ないし量的な角度から見て既に詳細さを欠いているというほどではないが、他方、詳細性という視点から検討して、特に自白の信用性を高く評価すべきであるということもできないと考えられる。

(三)  具体性及び迫真性

梅田自白中には、検察官も一部指摘するように、① 大山と一緒の羽賀に会った経緯、② その際の両名の着衣、③ 一〇月六日ころに羽賀宅を訪問した際の出来事及び会話内容、④ その際の被告人及び羽賀の着衣、⑤ 羽賀が大山殺しを初めて口に出した際の言動、⑥ 犯行に用いた七徳ナイフの来歴、⑦ 右ナイフの柄に巻くための布の準備、⑧ 犯行に出発する直前における被告人の家族の行動、⑨ 犯行当夜の柴川木工場の状況、⑩ 青年会館におけるバットの発見状況、⑪ バットを上衣の下に隠した状況、⑫ 大山と共に犯行現場へ至る際における同人の風呂敷包みの持ち方や同人との会話内容、⑬ ナイフで頭部を刺突した際の状況、⑭ 大山の着衣や風呂敷包み、⑮ 穴を掘った土の積み方、⑯ 別れる際に羽賀が言った言葉、⑰ 帰路における休憩、⑱ ズボンへの血痕付着の状況等多数の事項に関して、一見具体性を有し、あるいはある程度の迫真性さえも感じさせる供述があり、殊に①、⑤、⑯、⑰に関する供述等は、特徴的である。しかし、このような梅田自白中の具体性を有する供述部分を更に子細に検討すると、その多くは、(1) ありふれた事実あるいは事件を物語る上で自然な流れの中に出て来るべき事実であって、被告人の単なる想像によっても容易に述べることのできる事項(②、④、⑧、⑨、⑪、⑫、⑬)、(2) 本件犯行とは別に被告人が実際に経験又は了知している可能性が高い事実があり、それを基に容易に想像によっても述べ得る事項(③、⑥、⑦、⑰等)、(3) 被告人が昭和二七年一〇月四日及び八日に実況見分若しくは検証に連れていかれた際に知り得たか、又は知り得たところから容易に想像することのできる事項(⑩、⑮等)、(4) 捜査官が他の証拠によって知り得た事柄(それが真実であるか否かは別である。)か、あるいはその知り得た事柄に若干の枝葉を付けた程度の事実であって、被告人を容易に誘導し得る事項(⑭等)、あるいは、(5) 当該事項に関して羽賀供述が先行しているか、又は被告人の他の供述から推測できるため、捜査官において誘導することができ、あるいは、そのような誘導ないし示唆を基に被告人が単なる想像ないし当てずっぽうによっても述べることができたであろう事項(①、③、⑬、⑱)についての供述という性格を有している。しかるところ、被告人は、原一審公判以来、当公判に至るまで、ほぼ一貫して、検察官に対する自白の内容は、警察官の強制、誘導、教示によって警察官に供述していた事実と警察官に教えられた事実を基礎に自分で想像して述べた事実及び検察官に誘導されて述べた事実に尽きる旨供述しており、しかも、前述のとおり、本件においては警察官に対する自白については違法な強制があった疑いが強く、また、被告人が検察官に対しては相当迎合的に供述していたものと推測されるという事情がある。このような事情に照らすと、具体性及び迫真性という面から自白の信用性を検討する上では、前述のような性格しか有しない被告人の供述内容については、元来高い評価を与えることは相当でないというべきである。

そうすると、羽賀供述との独自性、供述内容の複雑性あるいは供述内容が特徴的であるか否かといった点から吟味すると、先にその性格に言及した事実に関する供述の中で、自白の具体性及び迫真性という点において意味があるのは、① 大山と一緒の羽賀に会った経緯、⑤ 羽賀が大山殺しを初めて口に出した際の言動、⑬ ナイフで頭部を刺突した際の状況、⑮ 穴を掘った土の積み方、⑯ 別れる際に羽賀が言った言葉、⑰ 帰路における休憩程度であると思われる。特に、⑤と⑯の点に関する供述内容は、前者が、「両手でスコップを使う格好をしながら『穴!穴!』と言いました。」(第二回検面)というものであり、後者も、「別れ際に羽賀は私に『絶対だぞ、絶対だぞ』と言いました。これは大山を殺したということを絶対に他人に漏らしてはならないぞという意味だと思いました。」(第三回検面)というものであり、極めて特徴的な内容であって、それが誘導によって作出された可能性があると考えるべき特段の根拠は見当たらない。しかし、右は、どちらも極めて簡潔なものであり、被告人が捜査官に迎合的に供述する際に想像によって作出した可能性もないではないと思われるし、他の①、⑬、⑮、⑰の点は、内容自体からみてさほど重視すべきものとも考えられない。したがって、やはり具体性及び迫真性という面で被告人の検察官に対する供述内容に決定的なほどの高い評価を与えることは困難であろう。

ところで、梅田自白には、右のとおり具体性及び迫真性という面で一部にある程度評価し得る供述が見られるとはいっても、その全体を吟味すると、そのような供述のみを強調することは不相当と考えられる。すなわち、まず、本件犯行の最も中枢部分に関係し、犯人としても記憶を保持していやすいはずであると思われる大山に対する殴打、刺突及び絞頸の各直前、直後における大山の動静や被告人の行動、その際の被告人の心理等に関する供述を見ると、大山及び被告人の行動等に関する特徴的な供述としては、わずかに前記⑬の点に関し、「ナイフを握っている右手の小指側の部分が大山の頭にガシッとぶつかったのです。」(第三回検面)という部分が挙げられる程度であり、あとは通り一遍の簡潔な供述に終始しており、迫真性を欠いているといわざるを得ない。そして、犯行時の被告人の心理に至っては、何の供述も存在していないのである(なお、付言すれば、犯行時の心理に関する供述の欠く如については、小林事件における清水の検察官に対する供述調書では、犯行の予定地点に至っても行動に出る決心がつかず、その地点を通り越してしまった事実、けん銃を発射した時山のこだまがゴーッと聞こえ、ぼう然となって膝をついたという事実など、相当に迫真性のある供述が見られるのと、好対照をなしている。)。

次に、犯行時における心理を除いても、梅田自白は、被告人の心理一般に関して、全般的に具体性及び迫真性を欠いているといわざるを得ない。例えば、羽賀から本件犯行を打ち明けられて承諾するに至る間の心の動き、犯行当日に自宅から出かける時、犯行前に夜店を見て歩いていた時、あるいは柴川木工場で凶器の準備をして大山を持っていた時の各気持ち、結局大山が一人で現れたために単独で犯行を決行せざるを得なくなった際の心理、大山と共に犯行現場に至る間の心の揺れ動き等については、全く前科、前歴もない被告人が、強盗殺人という重大犯罪を犯そうとしているのであるから、その心の状態や動きについては複雑で、特異なものがあったであろうと思われるのであり、当然に何らかの記憶が残っていて然るべきものと思われるが、梅田自白には極めて簡単な供述があるか、あるいは、犯行を承諾する際の心理や犯行全体について概括的に述べるものがある程度(第三回検面冒頭において、「今思い出しても自分ながら恐ろしいことをした一〇月一〇日になりました。」)であって、それ以外には何の言及もされていないのである。右は、取調べ官がその心理状態について発問しなかったためであるとするには余りにも少なすぎる。このような点も、梅田自白全体の具体性及び迫真性を大きく低下させる要素となっている。

さらに、具体性及び迫真性といった角度から梅田自白を検討するのであれば、むしろ、梅田自白には、説明、言及するのが当然と思われる事実について説明、言及が欠けている点があることにも注目すべきである。すなわち、先に述べたとおり、被告人の衣類等に付着したはずの泥・土・血液等の後始末、並びに、死体の運搬、穴への引き落とし、埋め戻し作業等の詳細及びその際の苦労に関しては、被告人がそれを実際に体験しているのであれば、容易に言及、説明することができ、かつ、言及、説明があって当然と思われるが、これらの点について不自然なほどに説明、言及が欠けているのである。このことは、それ自体、不自然、不合理な供述内容と評価されるとともに、検討視点を変えるならば、自白の具体性及び迫真性という面においても、また、先に論じた詳細性という面においても、これらを大きく低下させる要素となっているものと考えざるを得ない。

以上によると、梅田自白には、一部に具体性、迫真性を有する箇所があり、殊に前記①、⑤、⑯、⑰の各点について供述等にはある程度注目すべきであるが、しかし、他方、自白中の重要部分について具体性及び迫真性を甚だ欠いている点があるなど、具体性及び迫真性を大きく低める要素もあり、全体として見るならば、具体性及び迫真性という面において、これを高く評価することはできないと考えられる。したがって、このような検討視点から、梅田自白を実体験者でなくては供述し得ないような供述であると評価することは困難であり、その具体性及び迫真性が自白の信用性を裏付けているということはできない。

(四)  検察官の指摘する点についての判断

検察官は、前述のとおり実際に体験した者でなければ供述し得ない事実として七点を挙げるので、既に(三)において一部触れている部分もあるが、便宜ここで各別の判断を示すこととする。

(1) 青年会館

まず、青年会館の裏がバットの隠し場所である旨の供述やその発見状況等の供述については、確かに捜査官が予め了知していた事実ではなかったことが明らかである。しかし、他方、その当時犯行現場付近の大きな建物としては東陵中学校と青年会館ぐらいしかないのであって、被告人においても両建物の存在程度は知っていたことも明らかである。また、羽賀は、既に一〇月二日付員面において、犯行に先立ち被告人に対しバットを短くしたものを手渡したことを供述している。そうだとすれば、被告人が犯行に至る経緯について、警察官から追及され、想像により、あるいは誘導も受けて供述した際、羽賀がバットを隠し、被告人が犯行当日にこれを取り出す場所として青年会館の名前を出すこともあり得ないことではないと考えられる。また、その発見状況等についての被告人の供述は、具体的かつ迫真的ではあるが、前述したようにその発見状況等に関する供述には事実と符合しない部分があり(したがって、検察官が、本件犯行当時は検証時よりも薪が少なく、バットを隠したのはもっと右側であったかもしれないとの被告人の検証時の説明は、体験に基づくものと認められ、真実性が高いという主張は、本件犯行当時は裏側には薪は積まれていなかった点に徴し、失当である。)、青年会館の位置に関する供述にも変遷があること、薪と板壁との透き間にバットがあったという供述は、現に薪の積んであった青年会館の裏を見せられてから後のものであり、一〇月三日の第一回員面では、薪の話は現れていないことなどからすれば、青年会館に関する供述をもって、自白の信用性を高めるものと評価することはできないというべきである。

(2) 犯行当日の天候等

次に、犯行当日の天候、明暗、道路面の状況等については、被告人は具体的な供述をしており、かつ、その供述内容は、客観的証拠である道立農業試験場北見支場長作成の一〇月一三日付「捜査照会について」と題する書面、網走測候所長作成の同月二八日付「気象資料回答」と題する書面、巡査部長斉藤次夫作成の一一月一三日付「昭和二五年度一〇月中の天候調査について」と題する書面及び札幌市青少年科学館長作成の昭和五八年八月三〇日付「天象状況について(回答)」と題する書面に記載された事実と大きくは矛盾しておらず、その限りでは、自白の信用性を高める考慮要素と評価することができる。しかし、以上の点に関する供述内容というのは、「雨は降っておりませんでした。曇りがちの天気ではなかったかと思います。」、「附近は真暗でありました。月は出ていなかったように思います。星は出ておりました。」、「風というほどの風も吹いておりませんでした。月は出ておらず、星が出ていたように思います。道路は乾いて歩きよい道でした。」(いずれも第三回検面)、というものであり、特徴に乏しく、いわば当たり障りの少ない事実ばかりが述べられているようにも考えられ、被告人が単なる想像で述べたり、あるいは他の供述とのひょうそくを合わせるために考えて述べることもあながち困難ではないと解される。さらに、右の第三回検面が作成された一〇月一九日当時、取調べ官は、昭和二五年一〇月一〇日の北見市付近の天候等を概ね知っていたこと(前記「捜査照会について」と題する書面は、昭和二七年一〇月一五日の釧路地方検察庁北見支部の受理印が押されており、これには、昭和二五年一〇月九日、一〇日及び一一日の気温、降雨量、天候、雲量、風速、日照時間等が記載されている。なお、原一審で検察官の請求により取り調べられている昭和二七年一〇月一七日の同支部の受理印のある網走測候所長作成の「気象資料回答について」と題する書面によれば、昭和二七年一〇月一〇日の日の入は一六時四九分、月の出は三時三〇分、月の入りは一五時三九分となっており、取調べ官がこれをも参考とした可能性もある。)、前記供述のうち、一〇月三日付第一回員面の段階から現れているように曇りがちの日であったという点については、昭和二五年一〇月一〇日午前一〇時及び同月一一日午前一〇時の天候がいずれも快晴であるという道立農業試験所北見支場における観測結果(前記「捜査照会について」と題する書面)と整合するのか疑問もあることなどをも合わせ考えると、天候等に関する前記供述内容は、前記のように、梅田自白の信用性をある程度高めるものとはいえ、それ以上に、自白の信用性を検討する上で、極めて重要なものであるとか、あるいは前記(二)及び(三)で述べたところを変更しなければならないほどの意義を有するものと評価することはできない。

(3) 大山と同行中の会話

次に、大山と同行中の会話内容については先にも触れたように具体性のある供述がされており、被告人の第一回員面、被告人の原二審第六回公判供述、検察官奥村丈二作成の昭和六〇年一一月一五日付捜査報告書(五葉のもの)、弁護士永井哲男作成の昭和六一年四月九日付報告書等によれば、羽賀に関する会話、競馬に関する会話、引揚者住宅に関する会話、新制中学校に関する会話等は、いずれも、検察官の主張するように、被告人の他の供述や当時の北見市の出来事、時代背景等に照らして自然なものであり、それのみを見れば、真実の会話内容と解しても何ら不都合な点はないものと解される。しかし、その反面、いずれも、仁頃街道近くにある施設や昭和二五年から二七年ころにかけて北見に住んでいる者にとってありふれた事柄が話題になっているものと認められ、かつ、その内容は、さほど特異性がなく、被告人にとって単なる思いつきでも供述し得る程度のものになっていると解することもできる。このような点に、この会話内容の供述に関する被告人の弁解(原一審第二六回公判供述、当審第五回公判供述等)等も合わせ考えると、右供述をもって、迫真性のあるものであるとか、実体験者でなければ供述し難い性格のものであるということはできない。そうすると、大山との会話内容に関する供述は、自白の信用性を検討する上では、特に消極にも積極にも考慮すべきではないものと考えられる。

(4) バットによる打撃動作

検察官は、被告人は、捜査段階において、打撃動作につき、要するに、大山の背後に回ってバットを振りかぶって上から下に振り下ろしたという旨供述しており、右供述は、大山の頭蓋骨の骨折を鑑定したすべての鑑定人の意見と一致しており、しかも、いずれの鑑定よりも先に供述されたものである旨主張する。

しかし、バットによる殴打に関する梅田自白を右のように要約することの当否はさておくとしても、被告人の打撃動作に関する供述は、それ自体、特段、詳細性、具体性、迫真性のあるものとはいえない。しかも、被告人の取調べ当時、捜査官は、大山の後頭部に複雑陥没骨折があることを既に認識しており、また、羽賀は、一〇月二日には捜査官に対して大山の後頭部を殴れと言って被告人にバットを渡した旨供述しているのである(羽賀の同日付員面)。そうすると、被告人の供述する動作は、ごく普通のものであるから、捜査官の誘導又はそれに基づく被告人の想像によっても十分供述し得る程度のものと評価できる。そうだとすれば、検査官の指摘するような供述が、本件に関するいずれの鑑定よりも先行していることをもって、検察官主張のように、被告人が実体験に基づく真実を自白しているものと考えるのは相当ではない。

(5) 大山の転倒姿勢

次に、大山の転倒姿勢等に関する供述も、具体的ではあるが、現場の状況や梅田自白による打撃態様からすれば、狭い選択肢の中から選んだ当たり障りのない供述と見ることも十分可能であり、被告人の想像あるいは捜査官の誘導によっても作出可能な供述内容であると思われる。したがって、やはり、この点をもって、検察官主張のように、被告人が実体験に基づいて真実を述べたものと考えるのは相当ではない。

(6) 死体の埋没状況等

次に、死体を埋没した穴の深さ、穴を掘った土の積み方、死体を穴に引き落として穴におさめた状況等に関する梅田自白を見ると、被告人の第三回検面では、「穴の深さは四尺位もありました。穴を造るのに掘返した土はその穴の渕の仁頃街道寄の方に多く積んでありました。穴の長さは人間の大人を埋めるのにちょうどよい位の細長い形のもので有りました。そこで今度は大山の死体の両手を握って穴の渕に引っ張り下しました。そして、その仁頃街道寄りの渕の方から大山の死体を穴の中に落しました。ところが、その時は、死体がうまく横にならず、上半身が穴の渕に寄掛って立ってしまったのです。ちょうど人間が座った様な格好になってしまったのです。そこで、私は、大山の死体の足の方からその左足を両手で引張りました。すると、死体は、『ストン』と穴の中にうまい具合に入ったのです。ちょうど寝棺に入った様な格好になりました。」となっており、また、岡部副検事作成の一〇月八日付検証調書中の被告人の指示説明部分は、「被疑者は、大山正雄の死体を沢の上手(南側)からこの穴の中に落し込んだところ、死体は、頭を沢の上の方(南方)の方に面した穴の側面にもたれかけ、両足は屈めて沢の下の方(北方)に向けたので穴の上を越えて下の方にわたり、死体の片足を引張ったところ、死体は、頭を穴の南側の底につけ、両足を北方に伸して仰臥したので……中略……当時掘ってあった穴は現在よりも五、六寸位浅かった様に思う旨供述した。」となっており、右供述等は詳細とはいえないものの、一部は具体性のある内容になっている。

しかしながら、右の供述等の内容は、土の積み方の点を除けば、格別特異性のあるものは見当たらず、被告人が一〇月八日の検証に当たって、死体の発掘された現場を見ており、右供述等はその際に録取されたものであることからすれば、捜査官から、当該現場において一人で死体を沢底の穴まで運んで埋めた状況の説明を求められた被告人が、質問に順次答えていく際に想像だけによっても概ね物語り得る程度の内容となっており、また、大山の死体の発掘状況を知っているはずの捜査官においても誘導し得る内容と見ることもできよう。

また、土の積み方についての供述には、若干特異性が認められるが、しかし、どちら側が多かったのかと尋ねられて当てずっぽうに答えれば、でき上がる程度の内容と見ることもできよう。さらに、土の積み方に関する供述は、羽賀の一〇月二六日付第七回検面、原一審第九回公判供述とも一致しているが、この点は、羽賀において、捜査官の発問等から被告人の土の積み方に関する供述の内容を察知してそれに合わせる供述をした可能性もないではないであろう。したがって、この点は、先にも触れたように、梅田自白の信用性を検討する上で、積極的考慮要素にはなろうが、それほど重要視すべき事項であるとは解されない。

また、「穴の上を越えて」という供述、その前後の死体の姿勢及び死体の引っ張り方に関する供述等は、想像によっても、必然的に語られるべき内容とまではいえないし、一見、具体性及び迫真性があるかのようにも見える。殊に、検察官は、「穴の上を越えて」という表現は、被告人が検証の際に見た穴の大きさではなく、実際に大山の死体を埋没した穴の大きさを前提に供述しているからこそこのような供述となったもので、大きな意味がある旨指摘している。しかしながら、成人男子一名を埋没するに足りる穴の大きさを想定しながらそれを前提に供述するということも、それほど困難あるいは不自然というわけではないであろう。また、「穴の上を越えて下の方にわたり」という表現は、その前後と合わせ読むと、穴の長径の方を跳び越えて沢の下手の方へ回ったのか、又は穴の短径の方を跳び越えて反対側へ渡り、その側を歩いて沢の下手の方へ回ったのか、必ずしもはっきりせず、もし、前者の方であるとすれば、六尺近い距離を跳ぶというのは暗やみの中での行動として若干不自然といわざるを得ないし、後者であるとすれば、なぜそのような遠回りのコースをとるのか理解し難い。さらに、その前後の死体の姿勢や被告人の行動に関する供述を改めて吟味してみると、被告人は、穴の縁まで死体の両手を握って引っ張り下ろし、沢の上手の方の穴の縁から穴の中へ落としたというのであるから、穴の縁で死体の向き変えるとか、あるいは何らかの特別な落とし方をしたのでなければ、死体は、足を沢の上手の方に向けて落ちるはずであり、穴の中での姿勢も、座った形というよりも足を沢の上手の方の壁の立て掛けた形か、あるいはすっかり横たわった形となる可能性の方が高く、もし、座った形になるというのであれば、沢の下手の方の壁に寄り掛かった形になるのではないかと思われる。また、被告人が座った形になっている死体の姿勢を直したという点も、穴の深さが約四尺もあったというのなら、自分が穴の中に入るか、あるいは地面に腹ばいになって手を伸ばして行わなければならないはずであり、「死体の足の方からその左足を両手で引っ張りました。」といった簡単な供述だけではその行動を十分説明し尽くしているとはいえないであろう。そうすると、穴の上を越えたということやその前後の行動に関する梅田自白は、その文言のとおりに理解するならば、むしろ自己矛盾的なものとさえ評されかねないものであり、いずれにせよ、被告人の行動の重要部分につき説明が欠落しているという評価は免れないであろう。そうだとすれば、右の点に関する供述をもって、具体性及び迫真性という面で、自白の信用性を高からしめるものとは、到底いえないと考えられる。

そのほか、前記検証前の被告人の一〇月三日付員面では、死体の引き落とし等につき、「穴のところまで引きずり、穴に転がし込みました。」という以外、特段の説明がされておらず、具体性のある供述はすべて右検証後に現れていること、死体の引き落とし、埋没等には先にも述べたとおり、大変な苦労があったはずであるのに、梅田自白には極めて簡単な説明しかなく、説明されている行動にも不自然さが目立つこと等を合わせ考えると、死体の埋没状況等に関する供述も、全体として見れば、特に具体性及び迫真性があるとか、実体験者でなければ供述し難いものであると評価することはできず、自白の信用性を検討する上では、重要性が小さいものと考えられる。

(7) 単独実行となった経緯

検察官は、当初羽賀と二人で実行するものと思っていたのが、結局は被告人一人で実行することになってしまった経緯についての梅田自白は、警察官に対する供述の段階から羽賀供述と一致している上、このような経緯は、実体験者でなければ供述できない事項であるから、梅田自白の信用性を裏付けるものである旨主張する。

しかし、この点は、既に、自白の変遷の項(4、(四))において判断したとおりであるから、この点に関する供述も、特段自白の信用性を高めるものと評価することはできない。

(五)  結論

以上のとおり、検察官の指摘する点を合わせ考えても、梅田自白は、全体として見れば、詳細性、具体性及び迫真性という面で高く評価することはできず、実体験者でなければ供述し難いような内容のものとはいえないという前記判断は、左右されないものと考える。

7  自白に至る経過の自然性

検察官は、被告人が捜査段階において自白するに至った経過は自然であって、これに疑問を差しはさむ余地はなく、特に、被告人が最初自白するに至ったのは、羽賀との対質の結果、同人からことここに至っては正直に自白するよりほかはない旨説得を受け、同人が既に本件の真相を告白すべく覚悟を決めていることを知り、かつ、大館警部補の人情的説得を受けたためであると主張するので検討すると、既に、警察官に対する自白の任意性のところで判断したように、被告人は、逮捕後間もない取調べにおいて数人の警察官から暴行を加えられて自白を強要されたことが強く窺われる上、原一審第二七回公判において、「自白する前に涙を流したのは、大山を殺してないのに殺したと言われ、何ひとつ私の言うことをきいてくれないばかりか、暴力をふるわれ残念で涙が出たのです。」などと供述していることを合わせ考えれば、人情的な説得によって反省、悔悟し、ついに強盗殺人という重大事犯を自白するに至ったものとは必ずしも認め難いといわなければならないし、また、一〇月四日検察官の弁解録取で否認した後警察官や検察官に対し再び犯行を認める供述をしたのも、前記のとおり、同人らから「検事に否認して憎まれては損だ。」などと相当強く説得されたため、被告人としても検察官には否認しては損だと自ら判断した結果、否認を撤回し、検察官に迎合したことが強く窺われるのである。

したがって、被告人の自白に至る経過が自然であるとは認められないだけでなく、最初の自白の際に窺われる事情、その後被告人の供述が、否認、自白、否認と大きく揺れ動いていること等にも徴すると、被告人の自白に至った経過は相当不自然なものであるといわざるを得ない。そして、この点は、被告人の自白の信用性を判断するにあたりかなりの消極的要素になると思われる。

8  その他の検察官の主張について

検察官は、一〇月一九日の検察官の取調べ終了後、前記のように、被告人が、刑務所看守部長の桐山種三郎に対しても検察官に述べたことはそのとおり間違いない旨述懐していたから、これが虚偽であるとは到底いえないと主張するけれども、被告人は、直前の検察官の取調べの際右桐山がそばで聞いていたので、嘘でも自分がやったと言った以上、同人に対してもしぶしぶ同旨を述べたというのであり(原一審第二九回公判供述、被告人の上告趣意書)、この説明も格別不自然であるとも断じ難いから、被告人の桐山の対する前記言動は、被告人の自白の信用性の判断に積極的要素とはなろうが、これをもって決定的なものとは考え難い。

また、検察官は、被告人が捜査段階の終わりに否認に転じたのは、網走刑務所で看守から「とにかく無期懲役か死刑に該当する。」と言われたことから(当審第五回被告人供述)、被告人は刑責を免れようとの心境になったことによるものと推認できると主張するけれども、被告人は、一〇月一九日の橋本検事の取調べの最後の段階で、同検事から「公判廷では絶対嘘は通らないぞ。」と言われたことを契機として本当のことを述べる気になった趣旨を一貫して供述するところであるから(原一審第二八回公判、当審第四、五回各公判等)、関係証拠にも照らし直ちには検察官主張のようには解し難い。

なお、被告人の原一審以来の供述中には、例えば、右のように本件犯罪が死刑、無期懲役に該当する重大犯罪であることを知ったのはいつかについて、被告人は、原一審第二九回公判において、一〇月末ころ留辺蘂署へ行った時に同署の刑事から聞いた旨供述していたのに、当審では網走刑務所で看守に言われた旨述べている点等、細部において供述の変遷があるけれども、年月の経過にかんがみ記憶の混同等の可能性もあるから、これら細部の供述の変遷をもって、被告人の自白の信用性判断に重大な影響を及ぼすものとは考え難い。

9  結論

以上検討してきたところによれば、梅田自白には、秘密の暴露に相当する供述が何一つなく、客観性ないし第三者性を有する裏付証拠ないし状況証拠にも極めて欠けているのであるから、他の角度からの検討や本件全体の証拠状況次第では、被告人と本件犯行とを結び付ける証拠として不適当であるとまでは言えないが、元来、それ自体の証明力を高度なものと評価することは許されないというべきである。

しかるところ、原審における証拠に、当審において新たに提出された証拠を合わせ考えると、梅田自白の中枢部分をなすバットによる打撃、ナイフによる頭部刺突、そして細引による絞頸という三つの大山殺害の実行行為に関する供述のうち、前二者についての供述が、客観的事実と整合しない疑いが強いことが新たに明らかになったわけである。もっとも、右のバットによる打撃とナイフによる頭部刺突に関する供述は、事実と絶対的、物理的に整合し得ないとまで断定できるわけではないのであるから、梅田自白に他の検討視点から見て信用性を高からしめる要素が十分に認められるとか、あるいは他に被告人と本件犯行とを結び付ける証明力の高い証拠があるというのであれば、全体的にみて、必ずしも梅田自白の信用性を肯認できる場合がないわけではないであろう。

しかし、冒頭に述べたとおり、梅田自白には、元来、秘密の暴露がなく、裏付証拠にも乏しい上、大山殺害の実行行為のうち残りの一つに関係する絞頸縄に関する供述にも不自然さが目立つといわざるを得ない。さらに、他の角度から検討してみても、自白の内容において不自然、不合理な点が多数あり、自白全体としてかなり不合理性の強いものとなっている上、被告人の捜査段階における供述は否認と自白との間を揺れ動いており、その自白の内容にも不自然なほどの変遷があって、安定していないというべきである。しかも、一緒に本件犯行を共謀して実行したはずの羽賀の供述と対照してみても、無視し得ないほどの広範かつ重大な供述の食い違いを示しているのである。また、自白に至る経緯をみてもそれが自然なものであるとは到底解し得ないところである。他方、梅田自白を、その詳細性、具体性、迫真性といった角度から検討してみても、また、若干存在する客観的裏付証拠との関係から検討してみても、梅田自白に高度の信用性を付与することは到底できないと考えられる。そうすると、先のバットによる打撃とナイフによる頭部刺突の点を除いて考えても、梅田自白の信用性は、それほど高いものではないといわざるを得ない。

そうだとすれば、検察官の指摘する被告人の原一審以来の供述中の変遷や前記桐山供述の存在を考慮しても、大山殺害の実行行為三つのうち、二つに関する供述が客観的事実と整合しない疑いが強いという梅田自白における大きな問題点を克服して梅田自白の信用性を肯認させるような要素は、本件には存在しないということができる。したがって、このような性質しか有しない梅田自白を柱として、被告人と本件犯行との結び付きを認定することは不可能であり、また、梅田自白には被告人と本件犯行との結び付きという立証命題に関しては、他の証拠の補強証拠として用い得るほどの証明力も認められないというべきである。

第六被告人と本件犯行との結び付きがないとの弁護人の主張について

弁護人は、被告人と本件犯行を結び付ける証拠は、梅田自白と羽賀供述以外には全く存在しないところ、梅田自白には真実性がなく、羽賀供述も信用性がないのはもち論、本件においては、被告人にアリバイが成立し、犯行の動機もなく、その人物像等からみても本件犯行とは結び付かないから、被告人は単なる無罪ではなく、無実である旨主張するので、以下検討する。

一 動機

1  序

弁護人は、本件犯行当時被告人が生活に困っていたわけでもなければ、被告人に羽賀からの頼みを断れないような事情があったというわけでもないのであるから、被告人には本件犯行を犯す動機が存在しない旨主張する。

これに対し、検察官は、被告人が本件に加担したのは、親近感を抱き、信頼もしていた羽賀から、誰しも持っている金銭欲の弱点を突くように金儲けの話があると誘われたことに応じてしまい、羽賀の巧みな誘い込みから殺人という重大な凶行であることを知った時には既に抜けられなくなっていたからであり、完全無欠ではない人間の弱さから、友人に誘われて本件のような犯行に加担することもあり得ることであって、決して不自然なことではなく、このような犯行加担の事情は、小林事件において、清水が犯行に誘い込まれた経緯と同じである旨主張する。

そこで、以下、本件の証拠上、被告人に本件犯行を犯す動機を見い出すことができるか否かについて検討することとする。

2  動機の存在可能性

仮に、被告人が本件犯行を犯したとすれば、被告人は、羽賀に頼まれて何の恨みも縁もない人間を殺害し、所持金を奪った上、死体を埋没したということになる。このような犯行の性格や梅田自白及び羽賀供述を手懸かりに、被告人の犯行動機を合理的に説明できるような事情を考えてみると、一般的な可能性としては、① 安易に犯罪の誘いに乗りやすいような性格、② 金銭欲、③ 羽賀との特別な関係、④ 羽賀による脅迫、⑤ 当時の被告人を取り巻く環境の乱れ、⑥ 当時の被告人の生活状況ないし心理状況の乱れ等が考えられるであろう。そこで、以下、このような点を中心に本件犯行の動機を説明し得るか否かを考えてみる。

(一)  被告人の人間像

梅田自白も、羽賀供述も、被告人が羽賀の誘いにより本件犯行を犯したとする点では一致している。そこで、まず、被告人が安易に犯罪の誘いに乗りやすいような性格を有するか否かを検討するに、証人梅田房吉の原一審第一七回公判供述、斉藤敬吉の一〇月五日付員面、梅田房吉の同月六日付第一回員面及び同月二〇日付第二回検面、梅田美智子および梅田なかの同月七日付各第一回巡面、江原信重の同月三〇日付第一回検面、栗栖福松の同月三一日付第一回検面、梅澤敬次郎の一一月一〇日第一回及び昭和二八年三月一二日付第二回各検面、巡査部長斉藤次夫作成の一〇月四日付「事実調査方について」と題する書面、同月六日付北海日々新聞記事写等によれば、被告人の性格や平生の生活振りは、近隣の者や軍隊時代の友人から見て、おとなしく正直であり、陰日向なく、働き者であって、余り遊びを好まない真面目な人柄であり、時には下仁頃の模範青年と評されたこともある、極く普通の農家の一青年であった事実が認められる。他方、このような評判とは逆に、過去に凶悪犯罪に結び付くような悪い行状があったとか、粗暴な性情を有するとか、浪費癖があるとか、あるいは、飲酒、女遊び、賭け事等が好きであったなどといった事実を窺わせる証拠は全く見当たらず、かえって、被告人の逮捕後の警察官による風評調査の報告書と解される前記「事実調査方について」と題する書面においても、被告人につき近隣の悪評はないと記載されているのである。もち論、被告人に前科、前歴があるという証拠も出されていない。

そうすると、本件の証拠によれば、被告人が、その性格、行状等からみて、友人の誘いないしその他の弱い動機でも安易に本件のような凶悪犯罪に加わりやすい素因を有するとは、到底いえないというべきである。

(二)  被告人の経済状態ないし生活状態

本件のような犯行の動機として、まず一般的に考えられるのは金銭欲であろう。被告人の捜査段階における供述中にも金欲しさによる犯行であることをほのめかすものもある。また、人間誰しもが金銭欲を有することもいうまでもないところである。しかし、前記(一)に認定したような被告人の人間像及び本件犯行の重大性を前提として考えれば、一般人が通常有しているような金銭欲が本件犯行の動機であると単純に説明することは、動機がないというのに近いであろう。本件犯行を金欲しさによる犯行として理解するためには、被告人が本件犯行当時特に現金の必要に迫られていたとか、あるいは後述するような羽賀との特別な関係があるなどの何らかの事情があることが不可欠と考えられよう。

そこで、犯行当時における被告人の金銭の窮迫状況を検討するに、まず、梅田自白によれば、当時の被告人方の経済状態は、「家族だけが食べるのがやっとという程度であって、生活は昔から苦しい方であり、借金はあるが預金はない。」(第一回検面)となっており、また、被告人の実父である梅田房吉も、原一審第一七回公判において、「そのころの私方の生活は苦しく、生活は下の方であったと思います。」と供述している。

しかし、他方、被告人の当審第五回公判供述、被告人の右第一、四回各検面、被告人の同月四日付第二回員面、梅田房吉の第一回員面、同人の第二回、同月二三日付第三回、一一月二〇日付第五回、昭和二八年三月一二日付各検面、斉藤敬吉の員面及び昭和二八年三月一二日付検面、梅田なか(ナカ)の一〇月一九日付第一回及び昭和二八年三月一二日付第二回各検面、堀籠褜子の一〇月二〇日付第一回検面、梅田美智子の一一月一〇日付第一回検面、杉山憲逸の一一月二〇日付第一回検面、巡査部長斉藤次夫作成の一〇月四日付「事実調査方について」と題する書面、大江泰治作成の同月二二日付「調査依頼による回答」と題する書面等を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

本件犯行当時の被告人方の同居家族は、被告人のほか、父房吉(当時五九才)、母なか(当時五三才)、妹たづ子(当時二三才)、妹美智子(当時一六才)及び弟日出男(当時一二才)の合計六人家族であり、農業を生業としていた。当時、農作業の中心は、既に房吉から被告人に移っていたが、他に、中学を卒業したばかりの美智子も毎日農作業に従事していた。また、房吉は、右手の神経痛のため、毎日働きはするものの、主に軽作業に従事しており、忙がしい時や時間が余った時などには被告人や美智子の作業をも手伝っていた。なかは脚気のため、年々仕事ができなくなりつつあり、昭和二五年当時は、主に野菜畑、水田、小家畜等の世話などの比較的軽い仕事を担当し、時には被告人らの仕事も手伝うといった程度であったが、同年九月から一〇月中旬ころまでの農繁期には、畑仕事を手伝うことも多かった。たづ子および日出男は、それぞれ炊事担当者と中学一年生であったため、たまに手伝うほかほとんど農作業に従事していなかった。

また、営農規模としては、被告人方では、畑を約三町一反五畝、水田を約一反、山林を約二町歩、馬、豚、緬羊及び山羊を各一頭、にわとり約二〇羽、居宅、納屋及び馬小屋を各一棟所有していたほか、畑約二反半を借用し、これらの畑では、主に、大豆、色豆、ハッカ、ビート、ジャガイモ等を耕作していた。その収支状況については、昭和二五、六年当時の被告人方の農業収入は、年収二〇数万円程度であり、年間の収入額と支出額は大体同じ位であった。農業協同組合との取引状況は、昭和二七年に貸付金がやや増加しているものの、昭和二四年から二六年にかけては、特段借入過多の状態にはなく、被告人方の農業収入の大部分が振り込まれ、かつ営農経費や生活費を払い出している房吉名義の農協普通貯金勘定も、昭和二五年八月末で現在高二六六六円余りであり、同年九月末には七一八円余りの貸し越しとなっているが、同年一〇月中には合計一〇万円近い作物代金の入金があったため、同月末で現在高五万五四七六円余りとなっており、同年一一月末では、現在高六万六一五一円余りに達している。また、被告人方では、被告人に昭和二六年三月に嫁を迎え、その際に一万五〇〇〇円ないし二万円程度の結納を贈っており、さらに、昭和二七年三月にも、被告人に二度目の嫁を迎え、この時には、三万円の結納金を贈っている。以上のとおり認められる。

なお、右証拠やその他関係証拠には若干証拠内容の食い違いがみられるが、各供述内容の合理性、事件当時との時間的経過、各供述者の立場等を総合勘案すると、右のとおり認定するのが相当であると考える。

右認定事実を合わせ考えると、本件犯行当時の被告人方の生活は、当時の道東の農家の多くがそうであったと思われるように、余裕のない苦しいものではあったであろうが、同時に、被告人方は、相当程度の営農規模を有する自作農であって、家族数が極端に多いというわけでもないのに、労働力にはそれほど不自由しておらず、また、かなりの現金収入もあり、特段借金苦に陥っていたわけでもないものと認められ、先の梅田自白や梅田房吉の証言は、若干誇張されたものであって、そのまま措信することはできないものと考えられる。そのほか、本件犯行当時、被告人方で通常のものと異なる大きな出費があったことを窺わせる証拠もないことなどをも考え合わせると、要するに、本件犯行当時の被告人方の経済状態は、特段窮迫しているとか、あるいは現金の必要に迫られているといった状態にはなかったものと推認することができよう。

また、前記各証拠によれば、被告人は、本件犯行当時、被告人方の資産及び収入を自由にできる立場にはなく、房吉から時々小遣い銭をもらうだけの身分であったことが認められる。そしてさらに、被告人は、当時独り身であり、趣味嗜好としては、煙草を吸う程度であって酒は飲まず、遊興癖や浪費癖もなく、房吉から頻繁に金を無心したりすることもなかったという事実も認められ、そのほか、被告人が当時小遣い銭に窮していたことを窺わせる証拠はない。

以上によれば、被告人は、本件犯行当時、経済的には必ずしも恵まれたものではなかったが、そうかといって、一家の困窮を救うため、あるいは自分の小遣い銭を得るために、特に現金を入手する必要に迫られていたものともいえないことが明らかである。したがって、被告人の経済状態ないし生活状況という視点から見ても、被告人が当時経済的理由により本件のような凶悪犯罪を犯しやすい心理状態に陥っていたと解することはできない。そうすると、前記(一)で論じた被告人の人間像とも考え合わせると、本件犯行の動機が金欲しさにあると理解することは、かなり困難である。

(三)  羽賀との関係

梅田自白によれば、被告人は、昭和一九年一一月一日、応召により現役入隊し、三箇月間の初年兵教育中、小隊は異なるが、同じ中隊に所属し同じ北見出身者であった羽賀と初めて面識を得たことになっており、この点に争いはない。そして、そのほか、被告人の公判供述、羽賀の公判供述及び捜査官に対する供述調書、梅田房吉の前記第一回員面及び第二回検面、羽賀ふじよの一〇月二二日付第一回検面、江原信重、栗栖福松の前記第一回各検面等の関係証拠を見ると、被告人が、軍隊当時羽賀を含む同郷出身者らと何度か話をしたりしたことがあること、被告人が軍隊当時羽賀のことを何でもよくできる同郷の男として尊敬していたこと、羽賀と被告人は、所属中隊の中で除隊時までに上等兵に昇進した比較的少数の者達の中に含まれることが認められ、また、既に認定したように、被告人と羽賀とは、除隊後本件犯行とは無関係に一、二回会ったことがあるほか、二、三度年賀状等の時候の挨拶状のやり取りもあったものであるが、それ以上に、両名が、軍隊当時親しい友人であったとか、あるいは除隊後も親しく行き来して交際していたなどといった事実を認めることはできない。

そうすると、被告人にとって、羽賀は、単に知人のうちの一人というにすぎず、昭和二〇年一〇月に復員除隊した後は、ほとんど交際もしていなかったと認定するのが相当である。そうだとすれば、昭和二五年当時に、羽賀と被告人との間に、何か頼まれれば当然これに応じるとか、あるいは強い信頼関係又は上下関係のような特殊、特別の結び付きや利害関係が生じていたとは、通常考えられないところであろう。また、被告人と羽賀とは、前記のとおり戦友であって、かつ、被告人は羽賀のことを優秀な人物とみていたようであるが、両人は実際に戦地で一緒に戦った仲間同士というわけではないのであるし、また、重大犯罪の共犯者間には何らかの結び付きや信頼関係があるのが通常であろうから、右の程度の関係をもって、普通の暮らしをしていた者が凶悪犯罪に加わることを容易にする要素と評価するのは相当ではないものと考えられる。

そうすると、右の程度の被告人と羽賀との関係をもって、被告人に本件犯行の決意をさせた原因であるとみるのは、困難であろう。

(四)  羽賀による脅迫

梅田自白では、羽賀から脅かされたことも、本件犯行を犯した理由の一つとされている。

しかし、被告人の捜査段階における供述調書を見ると、脅迫の話が出て来るのは、第二回検面のみであり、しかもその内容も、羽賀から、「今になってからやめるというのならばお前の命にもかかわるぞ。」と言われたというにすぎず、実際に凶器や暴力ないし気勢を示して脅かされたとか、あるいは執ように脅迫されたなどといった事情も現れておらず、他に右に示した以上に強烈な脅迫があったことを窺わせる証拠も見当たらない。

そうすると、前項で論じた被告人と羽賀との関係のほか、被告人が羽賀の近隣に住んでいるわけでも、一緒に働いているわけでもなく、その生活圏が全く異なっていることなどをも考慮すると、この程度の脅し文句を言われただけで、本件犯行に及ぶというのは、やはり容易には理解し難いところといわざるを得ないであろう。

(五)  時代背景及び地域性

次に、被告人が当時置かれていた環境が、特に本件のような凶悪犯罪を犯す上での抵抗感を小さくするようなものであったか否かを考えるに、本件犯行は、昭和二五年一〇月一〇日以降のものであるから、既に戦争直後の非常な混乱期も過ぎ去り、治安の乱れや人心の不安定も一応は治まった時期とも考えられる。また、被告人の暮らしていた地域は、北見市郊外の農村地帯であるから、特に治安が悪いとか、人心の荒廃の甚だしい地域であったとは解し得ないであろう。そのほか、本件の全証拠を精査しても、時代背景や地域性などといった面において、本件犯行の動機が薄弱であっても自然ではないといえるような事情を見い出すことはできない。

(六)  本件犯行当時の被告人の生活振り(嫁捜し)

最後に、本件犯行当時、何らかの理由で被告人の生活振りや心理状態等が通常と異なり、乱れていたとすれば、そのため凶悪犯罪に加担する上で抵抗感が小さかったという可能性もあるかもしれない。そこで、本件犯行日とされる昭和二五年一〇月一〇日前後の被告人の生活振りを検討してみるに、本件の全証拠を見ても、当時の被告人の生活振りや言動等の異常を窺わせる証拠は、何一つなく、かえって以下のとおり、当時は丁度被告人の嫁捜しの話が進行していた時期であることが認められる。

すなわち、被告人の原一審第二八回及び当審第四回各公判供述、被告人作成の二次再一審における昭和五七年三月二〇日付上申書、梅澤敬次郎の第一、二回各検面、梅澤やゑの一一月一一日付第一回検面、田中秀一の同月一三日付第一回検面、安田兼市郎の同月一四日付第一回検面、安田サダの同日付第一回員面、溝口シズエの同月一五日付第一回員面、中橋ソノの同日付第一回員面及び同月三〇日付第一回検面、安田梅則の一二月四日付第一回検面、梅田なかの第二回検面、梅田房吉の昭和二八年三月一二日付検面、巡査部長斉藤次夫作成の一一月一三日付「昭和二五年度一〇月中の天候調査について」と題する書面等を総合すると、各証拠間に食い違いがあり、また年月日については若干の誤差があるかもしれないものの、概ね以下の事実を認めることができる。

被告人の実父である房吉は、昭和二五年春ころ、被告人に嫁をもらうために近隣で農業を営む梅澤敬次郎(以下「敬次郎」という。)に嫁の世話を頼んでおいた。敬次郎は、同年九月一七日ころ、梅澤方に農作業の手伝いに来ていた親類の安田サダに被告人の嫁捜しの話を持ち掛けたところ、同女が同女の住む登部落の溝口家に年頃の娘がいる旨の話を出したので、よろしく頼む旨言っておいた。敬次郎は、同月下旬ころ、たまたま房吉と出会った際、登部落の溝口家に年頃の娘がおり、一度見に行って来て被告人に世話したいと考えている旨を話した。房吉は、右の話を被告人に伝えた。

安田サダは、同年一〇月三日ころ、夫である安田兼市郎に対し、被告人の嫁捜しの話を伝えた。そこで、安田兼市郎は、同月一〇日ころ、溝口出義方を訪ね、その妻シズエに会って、娘のフミ子への縁談の話を持ち掛けたが、この当時、フミ子には既に嫁ぎ先が決まっていたため、色よい返事を得ることはできなかった。一方、敬次郎は、同月初めころ、房吉と会った機会に、仕事が忙しくて登地区へ行けないでいるので、被告人を出面に出してくれないかという旨を頼み、房吉は、これを承諾してその旨被告人に伝えた。

他方、被告人は、かつて郵便局の集配手をしていたころ、溝口宅も自分の配達区域にふくまれており、その所在も、そこに娘がいることも知っていたため、その娘を見るために、概ね同年一〇月六日ころから同月一二日ころまでの間のある日の午前一〇時半ころ、自転車で単身溝口宅へ赴き、訪問の口実としては豚の仔を買いに来たように装って在宅していた娘に会い、午後三時ころ帰宅した。被告人は、これにより溝口宅の娘をもらう話に乗り気になり、同月一三日又は一四日から二日間梅澤方へ農作業の出面取りに行った際、敬次郎に対し、梅澤方の仕事を手伝うから嫁の話をまとめて来てくれるように頼み、敬次郎もこれを了承した。被告人は、梅澤方の農作業の手間賃として五〇〇円を受け取った。

敬次郎は、同月一四日午後、溝口家の娘の話を進めるため、安田方へ行ったところ、安田兼市郎からその娘は既に嫁入り先が決まっている旨を聞かされたので、別な嫁の候補を捜すこととし、兼市郎と共に中橋岩吉方を訪れ、中橋方の次女を梅田家の嫁にもらえないかと打診したが、断られた。敬次郎は、その一、二日後に被告人方を訪れて、房吉や被告人に対し、右のてんまつを伝えた。以上のとおり認められる。

右の事実によれば、梅田自白において、本件犯行を決意した日とされている昭和二五年一〇月八日及び犯行日とされている同月一〇日という時期は、その少し前に房吉から嫁の候補者を教えられ、丁度その前後ころにその候補者の顔を見に行った時期ということになる。そうすると、被告人が溝口方へ赴いたのが、同月八日より前であったとしても、また、それより後であったとしても、いずれにせよ、通常であれば、被告人は、本件のような重大犯罪への誘いを承諾し、決行しやすいような心理状態にあったものとは解されないであろう。さらに、犯行日とされている日の三、四日後には嫁の話を早く進めてもらうべく、梅澤方を訪ねている点なども考え合わせると、本件犯行日の前後の嫁捜しに関する被告人の行動について、その直前に強盗殺人を実行した者又はその直後に強盗殺人を実行する者の心理状態と調和的に理解することは、容易ではないといわざるを得ない。

そうすると、被告人の本件犯行日前後の行動や心理状態等については、少なくとも外見上は、特段異常な点や生活上の乱れ等は認められず、むしろ犯罪とは縁遠い普通の状態にあったと認定するのが相当であろう。

(七)  小林事件との比較

検察官は、小林事件の共犯者である清水も、どうしてもこれだけの金が欲しいという具体的な切羽詰まった事情があったわけではなく、容易に金儲けができるならば、儲けたいという欲望を抱いていたにすぎず、それにもかかわらず、羽賀によって誰しもが抱いている金儲けの欲望の弱点を突かれ、親近感を利用されて犯行に誘い込まれたものであり、被告人が本件犯行に誘い込まれたのもこれと同様である旨主張する。

しかし、清水の一〇月一六日付第一回検面を中心に清水が小林事件に誘い込まれた経緯を見ると、羽賀は、酒好きの清水を何回か酒席を設けてもてなした上、当初から麻薬取引の話を持ち出して、酔いで気の大きくなっている清水に協力を約束させ、小遣い銭まで渡した上、その後、「安易な方法で三〇〇万儲けるか、少し危険ではあるが五〇〇万儲けるか、危険でも五〇〇万の方が良いではないか。」などと持ち掛けて、危険なことでもやる旨の清水の同意を得たりしながら、結局は、同人を強盗殺人の話にまで引き込んでおり、その犯行に誘い込む経緯は、梅田自白に示されている本件犯行の共謀に至る過程よりもはるかに慎重かつ巧妙である。また、当初から麻薬取引という一見して犯罪性の強い話を持ち出して協力の約束を取り付けている点も、本件とは異なるところである。

これに対し、本件では、羽賀供述によれば、第一回目の会合の際に既に本件犯行の大略につき共謀が成立したことになっており、梅田自白でも、一〇月六日ころの会合の際に路上でホップの取引による金儲けの話に誘われたにすぎず、同月八日ころの会合の際にやはり路上で実は人を殺して金を奪う旨打ち明けられたことになっている。このように犯行の誘い込みに関する被告人及び羽賀の供述は、先の小林事件の場合と大きく異なっているといわざるを得ない。

さらに、清水の右検面や、原一審第一八回公判供述等によれば、清水は、小林事件を起こした当時けん銃を隠し持っており、麻薬の使用をしたこともある人物であって、酒や遊興に対する関心度や当時の生活状況等の点でも、被告人と大きく異なっていたことが明らかである。

以上によれば、先に述べたように犯行への誘い込みに関する被告人及び羽賀の供述が小林事件の場合とは大きく異なる上、被告人と清水は、その人間像、生活状況等においても相当に異なるものと推認されるのであるから、清水が羽賀によって小林事件に誘い込まれた以上、被告人も同様に本件犯行に引き込まれても不自然ではないという論法は、採れないことが明らかである。したがって、清水の動機の形成過程を被告人に類推して本件犯行の動機を説明することはできないといわざるを得ない。

3  結論

以上のような被告人の人間像、経済状態ないし生活状況、羽賀との関係、羽賀による脅迫、時代背景及び地域性、本件犯行日前後の被告人の行動等に照らすと、仮に、被告人が羽賀からホップの取引の話を発端として巧みに本件犯行に誘われたのだとしても、当時、被告人がこれに加担して凶悪犯罪を犯すような心理状態にあっとは、理解し難く、そのほか、本件犯行の動機を合理的に説明し得るような事情を見い出すことも困難であるというべきである。かえって、この当時特に金銭に窮迫していたわけでもなく、丁度そのころ嫁捜しをしていたといった被告人の生活振りからすると、被告人には本件犯行を犯す動機が存在しない可能性が高いということができよう。

そうすると、検察官は、被告人について本件犯行の動機を十分に立証していないものといわざるを得ない。もちろん、動機が不明であるから直ちにその者が無罪であると判断できるものではないことはいうまでもないが、しかし、本件のような重大犯罪において動機の解明が不十分であるということは、有力な客観的証拠を欠く本件の証拠構造からすれば、被告人と本件犯行とを結び付ける上で、かなり重要な消極的考慮要素になるというべきである。

二 アリバイ

1  序論

弁護人は、証人梅田美智子の原一審第五、六回各公判供述(以下「美智子証言」という。)及び梅田美智子の日記の写一綴(昭和六〇年押第二四号の125。以下「日記写」という。)の記載内容に、被告人方における当時の農作業の実態及び被告人の通常の日課等を考え合わせると、被告人は、昭和二五年一〇月八日及び同月一〇日には、いつものように美智子と自宅の農作業を行っていたのであって、同月八日午後二時ころに北見市街に出ていたり、同月一〇日午後四時に仕事を切り上げて本件犯行のために出発することはできず、また、そもそも農繁期である九月末ころから一〇月一〇日にかけて何回も北見市街へ出て行くこと自体不可能であるし、外出を裏付ける隣人の供述も存在しないのであるから、本件犯行の実行についても、また共謀についても、被告人にはアリバイが成立する旨主張する。

これに対し、検察官は、被告人にアリバイがあることを供述した美智子証言は、全く措信し難いものであり、美智子の日記の原本も、後日日記の体裁をもって作られたものとの疑いを払拭できない上、日記写の正確性にも疑問があり、さらに、仮に日記写の記載内容を前提として考察したとしても、その内容からは、被告人にアリバイが成立すると認めることはできない旨主張する。

そこで、以下、本件犯行日とされている一〇月一〇日及び梅田自白において共謀をした日とされている同月八日を中心に、被告人のアリバイの成立の有無について検討することとする。

2  被告人の外出時間

梅田自白では、一〇月一〇日については、午後四時ころまで畑仕事をし、服を着替えて早目の夕食をとった後、自転車で出掛け、午後五時半ころ柴川木工場に着き、午後七時二〇分ころ大山と会い、本件犯行を敢行した上、午後一一時ころ帰宅したことになっており(なお、羽賀供述によると、被告人と予め待ち合わせた時刻は、変転しているが、第七、八回各検面によると午後五時ころ、原一審第九回公判供述によると午後七、八時ころという。)、同月八日については、昼ころ羽賀に会うために自転車で自宅を出て北見市街の東五丁目のちょっと前で同人とばったり会い、二人で本件犯行場所付近まで行って、本件犯行への加担を承諾した上、夕方の四時半か五時ころ、羽賀と別れ、六時半ころ帰宅したことになっている(羽賀の第七回検面によると午後二時ころ被告人と会ったという。)。そうすると、被告人方から北見市街まで自転車でおおよそ一時間かかるという被告人の原一審第二四、二八回各公判供述、梅田房吉の第五回検面等を前提として考えると、梅田自白上、被告人は、一〇月一〇日は、午後四時半ころから午後一一時ころまでの間、同月八日は、はっきりしないが、概ね午前一一時ないし午後一時ころから午後六時半ころまでの間、被告人方に不在であったということになろう。なお、本件犯行の犯行日時については、早くとも一〇月一〇日午後七時ころ以降であろうという以外、これを明確にする物的証拠はなく、また、共謀の成立日時についても、客観的証拠に乏しい上、梅田自白と羽賀供述との間にも食い違いがある。したがって、可能性としては、被告人が、一〇月一〇日の午後四時半よりもっと遅い時刻に被告人方を出発しても、本件犯行を犯し得るわけであるし、また、同月八日の羽賀との会合についても、絶対にこの日の先に挙げた時間帯でなければならないという理由はないわけである。しかし、当審における検察官の冒頭陳述及び本件の証拠構造からすれば、梅田自白から推論される被告人の外出時間に被告人が外出していなかった事実が証明されれば、それだけで、被告人と本件犯行との結び付きには大きな疑問が生ずることは明らかである。したがって、以下、先に挙げた各時間帯における被告人の行動についてだけ問題にすることとする。

3  美智子証言

まず、美智子証言について検討するに、証人梅田美智子は、原一審公判において、一〇月一〇日の被告人の行動に関する検察官の質問に対し、「その日義光兄さんは、どこにも出て行きませんでした。」などと供述し、また、弁護人の同月八日に関する質問に対しても、「兄さんと二人で仕事をしたと思います。」などと供述し、結局、美智子は一〇月一〇日の日も八日の日も、終日被告人と共に農作業をしていたので、被告人が右両日に北見市街へ外出したということはない旨の証言をしている。

そこで、右証言の信用性について検討するに、梅田房吉の原一審第一七回公判供述、梅田美智子の一一月一〇日付第一回検面、梅田日出男及び梅田なかの昭和二八年三月一二付各検面、梅田房吉の同日付検面を考え合わせると、被告人方の家族は、被告人の逮捕後、一〇月一〇日ころの被告人の行動について色々考えてみたものの、美智子を含めて、誰も具体的事実を思い出すことはできなかったことが認められる。そして、右事実に、美智子証言全体の内容を合わせ考えると、美智子は、原一審公判における供述当時、九月及び一〇月ころの特定の日時に被告人や他の家人が何をしていたかという点については、直接の記憶が全くなく、前記の一〇月一〇日及び八日の被告人の行動等に関する供述も、直接の記憶に基づくものではなく、ただ、美智子の日記を証言前又は証言中に読み、その記載に通常の生活状況を照らし合わせて、おそらくは被告人が家に居たであろうと推測して供述したのか、あるいは右のほか被告人をかばう気持ちも働いてそのような供述になったものと認められる。

そうすると、美智子証言のみから一〇月一〇日及び同月八日の問題の時間帯における被告人の外出があり得ないものであるということはできない。

4  日記写の記載内容

次に、日記写を検討するに、被告人の当審第五回及び原一審第二八回各公判供述、被告人作成の昭和三二年七月一七日付上告上申書及び昭和五七年三月二〇日付上申書、被告人の一次再二審における昭和四二年一月一〇日実施の審尋調書、梅田美智子の原一審第五、六回各公判供述、梅田美智子の第一回検面、梅田たづ子の昭和二八年三月一二日付検面、中村美代子の弁護人に対する供述録取書、橋本友明検事作成の一一月一〇日付領置調書、網走測候所長作成の一〇月二八日付「気象資料回答」と題する書面、検察官作成の原一審第三〇回公判で陳述された論告書、弁護士中村義夫作成の昭和二九年六月二日付弁論の要旨を総合すると、美智子は、昭和二五年三月に中学校を卒業したころから、概ね同年末ころまでの間、毎日、大体寝る前にその日の天候、起床時間、自分のした仕事等について簡単な日記を付けていたこと、原一審当時には、その日記のうち同年四月二〇日から同年一〇月三〇日までの部分が存在していたこと、右日記は、被告人の申出により橋本検事が美智子に対してその提出を求め、昭和二七年一一月一〇日に領置され、原一審公判において、検察官の申請により、本件犯行当日被告人が午後四時ころまで自宅で農作業をしていた事実を証明する証拠として取り調べられ、その後弁護人の申請によりアリバイを証明する証拠としても取り調べられていること、右日記は、原判決確定後、梅田房吉に還付され、同人が破棄したため、現在は存在していないが、被告人の原一、二審における弁護人であった中村義夫弁護士が、原一審当時、弁護活動のために右日記の一部を鉛筆書きで書き写したものが、現在でも存在しており、これが当審に提出されている日記写であることが認められる。

検察官は、右日記の真正であること及び日記写の正確性を争うが、右認定の諸事実、殊に右日記の領置に至る経緯、美智子証言及び梅田美智子の第一回検面の各内容並びに日記写の記載内容のほか、本件全証拠によるも、被告人の逮捕後右日記の領置までの間に、被告人の家族が被告人と面会したこと及び被告人が弁護士と接見したことの証拠は提出されていないことに徴すると、右日記は本件犯行後に被告人のアリバイ偽装のために書かれたり、あるいは従前の記載内容を書き換えたものとは考えられず、右日記には意図的な偽りの記載はないものと解することができる。確かに美智子証言等によれば、右日記の一〇月九日からの記載部分は他と異なる用紙が綴られていたようであり、また、ペン書きの日付が鉛筆で訂正されているものがあったり、一〇月三〇日以降の分が破り捨てられているなど、不自然な点もなくはなかったようであるが、これらの点に関する美智子証言中の弁解等も合わせ考えると、いずれも右日記の真正を決定的に疑わせるような性質のものとは解されず、これらの諸事情をもってしても、前記結論を左右することはできない(なお、弁護人は、昭和二五年一〇月一三日に被告人が梅澤方へ行っていて帰りが遅かったことが、右日記においては「馬に水をやった。」と表現されており、これは秘密の暴露にも相当するものであるから、日記写の証拠価値は高い旨主張するが、右記載をもって、被告人が梅澤方へ行っていた事実を意味するものとは必ずしも解されないので、右見解には左袒できない。)。

さらに、前記各証拠にも一部引用されている右日記の記載内容と日記写の記載内容とを対比してみると、一部写し違い又は引用違いないしは誤記と思われる点もあるが、概ね一致していることや日記写の作成者、作成目的及び発見の経緯(中村美代子の弁護人に対する供述録取書等)等からすると、日記写が、前記日記の各該当部分の記載を漏れなく正確に書き写したものであるとまでいうことはできないものの、概ね正確な写であって、意図的な誤りはないものと認定するのが相当である。

したがって、日記写に書かれていることは、大体は昭和二五年当時のその日付の日における出来事を表していると解してよいものと考えられる。

そこで、日記写のうち、一〇月一〇日及び同月八日の部分の記載内容を見るに、被告人の行動であると特定されて記載されている部分は少なく、わずかに一〇月一〇日の欄に、午後の仕事として「ほくそ(牧草の意味と思われる。)をかりに行った。兄さんと。」という記載が一箇所あるだけであって、前記の問題の各時間帯における被告人の行動の記載であることが明示された部分は全く存在しない。

さらに、日記写の全文を見ると、これは、元来、美智子の行動を記載したものであることが明らかであって、他の家人についての言及は極めて乏しいものとなっている。被告人についても、その名前が出てくる記載は、合計二四日分ある日記写の中で、四日分について各一箇所あるだけであり、前認定の一〇月六日ころから同月一二日ころまでの間に溝口方を訪問した時の外出や同月一三日ないし一五日ころの二日間にわたる梅澤方への出面取りについても直接の言及はないのである。そうすると、被告人が例えば、半日程度外出して農作業をしなかったとしても、必ずしも日記写にそれが記載されているものではないことが明らかである。したがって、日記写の一〇月一〇日及び同月八日の欄には、被告人の北見市街への外出が明示的にも黙示的にも記載されていないが、このことをもって、被告人が終日家や畑等にいて農作業をしていたことを意味するものと理解するのは相当でない。

以上によれば、日記写の記載内容のみから直ちに一〇月一〇日及び同月八日の問題の時間帯に被告人が北見市街へ出かけたことはないと認定することはできない。

5  日記写の記載内容や農作業の分担等からの推理

次に、日記写に記載された作業の性質や被告人方における作業分担、通常の日課等から、前記の問題の時間帯に被告人が外出していなかったことを推認できるかについて検討する。

(一)  被告人方における作業分担と通常の日課

被告人方における仕事の基本的な分担については、前記一、2、(二)の被告人の経済状態ないし生活状況の項において認定したとおりであるが、さらに、右の項に挙げた関係証拠、日記写、被告人の原一審第二四、二八回及び当審第四、五回各公判供述、被告人の一次再二審昭和四二年一月一〇日実施の審尋調書、被告人作成の昭和三二年七月一七日付上告上申書及び昭和五七年三月二〇日付上申書、梅田房吉の原一審第一七回公判供述、梅田美智子の原一審第五、六回各公判供述、梅田日出男及び梅田光晴の昭和二八年三月一二日付各検面、弁護士永井哲男作成の昭和六〇年一一月二六日付写真撮影報告書を見ると、これら各証拠には、食い違いや果たして昭和二五年当時のことを述べているのか疑問のある部分もあるが、全体を総合すると同年九、一〇月当時の被告人方における農作業の分担や生活の状況につき、以下の事実を認めることができる。

被告人方において馬を使って農作業を行うことのできる者は、被告人と房吉のみであり、通常、馬を使う仕事は被告人が行っており、被告人が不在の時やよほど忙がしい時には、房吉が馬を使役することもあった。その他の家人は、馬の世話をすることはあるものの、馬を使って仕事をすることはない。また、被告人方では、当時、馬方を雇ったり、出面を頼んだりして家人以外の者に馬の使役をしてもらったことはない。

被告人方における農作業のうち、近くの杉山の畑からの豆運び、裏山からの牧草運び等は、通常、馬を使役して行うので、被告人が中心となって作業するのが普通であり、そのほか豆落とし及び俵入れ(むしろの上の豆を叩いてさやから豆を分離し、扇風機をかけた後、とうみにかけてごみ等を取り除き、俵に入れ、納屋に収納する作業)等も、美智子一人で行うのは困難なので、被告人が中心となって行うことが多かった。

被告人方では、一〇月ころの馬の飼料としては、デントコーン、牧草等を使用しており、これらは、普通、その日の農作業が一段落ついた後、馬を馬小屋に戻し、当日の晩の分と翌日分とを押切り機で細かく切断(馬草切り)して、馬に食べさせていた(なお、馬草切りについては、前日に翌日の分を全部切っておいたり、あるいは夕方に与える分は切らなくてもよいものと与えて、翌朝その当日分を切るということも可能であろうし、現に日記写にも朝に馬草切りをしたという記載のある日もあり(九月二〇日)、必ず毎日夕方に押切り機による馬草切りが行われていたことは認められない。)。右の押切り機で切る作業は、大低、被告人と美智子とが担当し、二人一組みで作業をすることが多かったが、時に房吉が手伝うこともあった(日記写の九月二二日欄に、「ばんにあがって来て、かへりに馬のとうきびをかって来た。父さんと二人で家へかって来て馬の草をきってやった。」との記載もある。)。なお、右作業はそれほど長時間を要するものではなかった。

被告人方の当時の通常の一日の生活は、まず、たづ子が午前五時ないし六時ころ起床して朝食の用意を始め、次いで、被告人と美智子及びなかが起き、被告人はまず、馬の世話をし、被告人と美智子は概ね午前七時ころ朝食をとった後被告人の指図で農作業を始め、房吉は午前七時過ぎころに起き、朝食をとった後一人であるいはなかと一緒に軽作業をしたり、被告人らの作業の手伝いを始める。その後、皆で昼食をとってしばらく休憩し、大体午後一時ころから再び仕事を始め、最後に馬に飼料を与えた後家に上がり、概ね、日出男、房吉、被告人、なか、美智子、たづ子の順に家のすぐ側電燈のない風呂場で入浴し、その後皆で夕食をとり(夕食後に入浴することもある。)、ラジオを聞いたり、お茶を飲んだりした後、午後七時ころから一〇時ころにかけてそれぞれの部屋に戻って就寝するというものであった。被告人は、被告人用の寝室に一人で就寝しており、玄関から同室までは、他の家人の寝室を通らずに行き来することができた。以上のとおり認められる。

また、被告人が一日の作業を切り上げて家に入る時間については、証拠上、「六時ころ」、「六時から六時三〇分ころ」、「七時ころ」、「暗くなるまで」、「薄暗くなってから」などと様々な供述があるが、これらは、昭和二五年一〇月八日ないし一〇日ころのことを念頭において述べているのか、若干疑問があり、被告人の普段の生活に関する右認定の諸事実や農作業の性質上予め決めた一定時刻に毎日作業を切り上げるわけではないはずであること、通常は暗くなってからまでも戸外で作業を続けることはないであろうこと、日記写によれば、当時美智子が午後七時とか七時半ころに床に就いた日がかなりあるようであること、一〇月一〇日の北見の日没時刻は、午後四時五〇分ころであることなどを考え合わせると、同月八日ないし一〇日ころの被告人方における戸外の農作業の切り上げ時刻は、一定に定まっていないが、薄暗くなったころ(時間で言えば、概ね午後四時半ころから五時半ころということになろう。)が多く、馬に飼料をやって家へ上がるのは、それより少し後ということになろう。なお、弁護人は、天文学的天文薄明は日没後約二時間あるし、人が暗くなったと感じるのは、日没から四〇分経過した後である旨主張するが、右主張が、先に挙げた時刻以降までも戸外作業を行うのが普通であるという趣旨であるのならば、天文学的天文薄明の下で戸外の農作業を行うことは、通常の日課としては考え難いところであろうし、また、一〇月ころにおいては、日没後二、三〇分もすれば薄暗くなってきていることも明らかであるから、そのような見解には左袒できない。

(二)  一〇月一〇日

以上の認定と証拠を前提として、もう一度日記写の記載内容を検討するに、まず、一〇月一〇日午後の記載は、「昼から山へ行ってくさを運んで来た。かへって来てくさをつんだ。それからまめをたわらにいれた。それからかたづてから(「片付けてから」の意味であろう。)ほくそ(「牧草」の意味であろう。)をかりに行った。兄さんと。そして家に運んで来て、とうきびをきってやった。家にあがってふろにはいった。御飯をたべてから日記をかいた。そしてすぐねた。七時頃」となっている。右記載の作業のうち、牧草刈りは、前記のとおり、被告人も行ったものと推認して差し支えないであろう。そのほか、牧草運びやとうきび切り(馬草切り)も通常であれば、美智子は、被告人と一緒に行った可能性が高いものといえよう。

しかし、本項で問題となっているのは、通常の日課の進み方はどうなのかなどといった事柄ではないことはいうまでもないところである。被告人が外出していたとされる特定のある日の作業状況が問題なのであるから、そこで問われているのは、被告人が在宅していたとすれば、その仕事に加わるのが普通であるか否かという点なのではなく、仮に、普段と異なり、被告人が不在であったとすれば、その仕事がどうなるのかという点なのである。そこで、このような観点から検討すると、前認定のとおり、馬にやる馬草切りは、房吉が手伝うこともあり得ようし、また、たまさかのことであるとすれば、美智子が一人で行ったとしても特に不合理とはいえないであろう。さらに、本件の証拠上、一〇月一〇日以外の日でも、被告人が夕方に外出していたこともあったことは明らかである。そうすると、一〇月一〇日の日記欄に美智子がとうきび切りをしたという記載があり、通常は被告人と美智子が一緒にその作業に従事するのがほとんどであるからといって、一〇月一〇日の時も当然に被告人も被告人方に居て右作業を一緒に行っていたとまで断定することはできない。

また、被告人が前記の牧草刈りまでの作業を午後四時ころまでに終わらせていたと考えることも特段不合理なことではないであろう。さらに、午後四時五〇分ころに日没する日に、たまたま被告人が午後四時で仕事を切り上げたとしても、その日はいつもより若干早く家に入ったにすぎず、特別に異常な出来事というわけではないと考えられる。

そうすると、日記写に記載された作業等から推論していっても、被告人が一〇月一〇日の午後四時三〇分ころから午後一一時ころまでの間、北見市街へ外出したことはなかったと認定することはできず、被告人の問題の時間帯における行動は不明というほかない(なお、検察官は、美智子証言の解釈上、美智子は、一〇月一〇日の午後四時五〇分ころには既に作業を終えて入浴していたことになるから、同日午後四時ころには、当日の作業は、概ね終わっていた旨主張するが、被告人一家の入浴時間及び美智子の入浴順序は、常に一定しているとまではいえないであろうから、右のような可能性はあるものの、そのように断定することはできない。)。

これに対し、弁護人は、被告人が早目に作業を切り上げたり、房吉が押切作業を手伝ったのであれば、通常の日課と異なる異常な事実があったことになるのであるから、日記写にも何らかの痕跡が残るはずである旨主張する。しかし、右のとおり、午後四時という時刻は、戸外作業の切り上げ時刻としてそれほど異常なものとは考え難いし、房吉の手伝いについても同様である。また、先に述べたところからしても、美智子の日記には、通常と異なる出来事はすべて記載されているなどと認定することは到底できない。そうすると、日記写に記載がない以上、通常と異なる事実は存在しないという理屈は成り立たないのであるから、弁護人の右主張には左袒できない。

(三)  一〇月八日

次に、日記写の一〇月八日の記載を見ると、「日、晴、朝起き五時半すぎにおきて顔洗って御飯を喰べてから、庭をはいてから、エゴマをたてに行った。そして、おわってから杉山の方に行って、マメをはこんで来て、家でほしてからおとした。昼からつづきをした。ばんにおわって家へあがってからふろにはいってから御飯を食べてから日記をかいた。そしてすぐにねた。七時頃」となっている(なお、日記写には、一〇月七日、九日、一〇日の各欄にはいずれも馬草切りの記載があるが、一〇月八日についてはその記載が欠けている。)。右のうち、豆運びは、被告人も一緒に行った可能性が高く、また豆を干して落とす作業も、通常であれば、被告人が中心となって行った可能性がかなりあるといえる。

しかし、右は、いずれも、被告人が外出していない通常の場合であれば、そのように推測できるというにすぎない上、仮に午前中のうちにエゴマ立てと豆運びを終えてしまっていたとすれば、午後は、美智子と、おそらくは、房吉やなかも一緒になって残りの作業を続けていたとしても、それほど不自然なこととまではいえないであろう。

そうすると、やはり、一〇月八日についても、午前一一時ないし午後一時ころから、午後六時半ころまでの間、被告人が不在であった可能性は残るといわざるを得ない。

(四)  まとめ

以上によれば、日記写の記載内容を他の証拠に照らして解釈し、敷えんしてみても、やはり、一〇月一〇日及び同月八日の問題の時間帯に、被告人が北見市街へ外出していないと認定するのは、無理である。

6  農繁期における多数回の外出

最後に、昭和二五年一〇月当時の被告人方の生活状況、被告人の通常の北見市街への外出頻度、被告人の外出を裏付ける隣人の供述の欠如等といった間接的な事情からみて、被告人の北見市街への多数回の外出が不合理であるか否かについて検討する。

前記4において挙げた各証拠によれば、当時被告人方において主な農作業の手順を決めるのは被告人であり、また最大の労働力も被告人であったこと、被告人が長時間外出すると作業の能率が落ちたり、場合によっては作業の手順も狂わざるを得ないこと、殊に馬を使う仕事については、被告人が不在の時には行いにくいこと、被告人方にとって九月と一〇月は農繁期に当たり、多種類の作物の刈り取り、運搬、乾燥、脱穀、こん包等の作業が目白押しになり、非常に忙がしかったであろうことが認められる。しかし、他方、前掲各証拠によれば、被告人方では、昭和二五年九月一五日はお祭りのため一日仕事を休んでいること、被告人は、同年一〇月に小畑方へ一日間、山口方へ二日間、杉山方へ二日間、梅澤方へ二日間、それぞれ刈り取り作業の手伝いなどの出面取りに行っており、また、同月六日ないし一二日ころのうちいずれかの日に登部落の溝口方まで嫁の候補者を見に行っていること、同月三日、四日及び五日の午前中には、美智子は被告人方で利用する橋や道作りの仕事をしており、五日の午後も、同じ橋か又は別の橋をかけに行っており、被告人も右の仕事をしていた可能性があること、同年九月から一〇月にかけて、美智子は、右以外にも通常の農作業ではない仕事をしている日もあること、美智子は、少なくとも同月九月一五日、同月一六日、同月二四日、同月二八日、同年一〇月一四日に映画又は芝居を見物に出掛けていること、被告人方では、青年男子は、被告人一人であるが、女性や老人をも含めると当時四名の農業従事者がいたこと等の事実も認められる。このような事実からすると、被告人にとっては、大事のためであれば、半日程度の時間をやりくりして外出することもそれほど困難ではないし、また、時には緊急な仕事の切れた時間もあったのではないかと考えられる。

以上によれば、梅田自白にあるように一〇月六日、八日、一〇日と、一日おきに被告人が外出するのは、農繁期にしては若干不自然ではあるが、右認定の諸事実や農作業というものの特質からすると、被告人がいないことで、その日の作業ができなくなるとか、あるいは弁護人の主張するように被告人方の年間収入額が下がってしまうような重大な支障が生ずるとまでは解されないものと考えられる。

また、前記各証拠、殊に被告人の原一審第二八回公判供述、梅田美智子の原一審第五回公判供述、梅田房吉の原一審第一七回公判供述、大江泰治作成の一〇月二二日付「調査依頼による回答」と題する書面等によると、被告人は、外出したり、町で遊ぶことをあまり好まず、また、被告人方の買物は、農協や上仁頃の商店で大部分済ませることができ、かつ、特別な買物であれば通常は房吉が行くので、被告人は、頻繁には北見市街へ出て行っていないことが認められる。もっとも、被告人の年間の北見市街への外出回数については、証拠上、「二、三回」とか、「お祭りかお盆位」というものもあり、被告人も当審第四回公判において、「年三回位」と供述しているが、他方、被告人は、原一審第二八回公判では、「年五回」、昭和三二年一〇月二四日付上申書では、「年五、六回ないし七、八回、多いときは一〇回」と述べており、また、当審第五回公判では「せいぜい三ないし五回」とも述べており、回数を確定することはできない。

しかし、いずれにせよ、梅田自白によれば、昭和二五年九月から一〇月にかけての一か月足らずの間における北見市街への外出は、四回であって、相当頻繁ではあるが、この程度の外出回数では、被告人の通常の外出頻度ないし行動様式からみて、際立って外出回数が多いとか、あるいは周囲の者から見ても異常なものであるとまでは必ずしもいい難いものと考えられる。

以上によると、被告人の生活状況等から梅田自白における被告人の北見市街への外出が、回数的にあり得ないものであるとまで推認することはできない。

また、被告人の外出について隣家の者から具体的な供述が得られていないという点は、実際に被告人が何度も外出しているとすれば、若干不自然ではある。しかし、本件では、被告人に対する捜査が開始されたのは、犯行後約二年を経過した後であるから、近隣の者等が、被告人の一般的な外出頻度や外出の際の状況等については認識していても、二年前の特定の時期における被告人の外出の有無については記憶がないということもあり得ることであろう。そうすると、被告人の外出について、近隣の者の供述等の裏付け証拠がないということをもって、被告人のアリバイの証明とすることは困難である。

7  結論

以上のとおり、昭和二五年一〇月一〇日及び同月八日の各問題とされる時間帯における被告人の外出は、関係各証拠に照らし、あり得ないこととか、あるいは極めて異常ないし不自然なこととまでは解されない。したがって、被告人にアリバイが成立する旨の弁護人の主張は採用できない。

三 その他

1  被告人の人柄

弁護人は、被告人は、その逮捕後でさえ周囲の者から真面目でよく働き、蔭日向がなく、およそ犯罪とは無縁の人柄であると評価されていたものであり、このような被告人の人柄は、本件のような犯罪には結び付かない旨主張する。

確かに、前記一、2、(一)で論じたように、被告人の人間像は、本件犯行と似つかわしいようなものではないことが明らかである。しかし、本件犯行は、もちろん常習犯ではないわけであるし、その動機次第では、通常の暮らしをしていた人間が凶悪犯罪を犯すことがあることも経験されるところであり、このような被告人の人柄をもって、直ちに被告人の無罪の証拠とすることは困難である。

2  嫁捜し

弁護人は、被告人は、一〇月六日ころ、被告人との縁談の話が出ていた娘の顔を見に常呂町字登部落の溝口方へ行っており、同月一三日には、梅澤敬次郎方の農作業を手伝いに行って同人に対し溝口方の娘との縁談の話を進めに行ってくれるように依頼しており、このような犯行日前後の状況からすると、当時、被告人が凶悪犯罪を決意して、実行したり、犯行後、夜になれば羽賀や大山の顔が目に浮かんで寝付かれず、暗いもんもんとした気分で過ごしていたとは到底考えられない旨主張する。

右の嫁捜しの事実については、前記一、2、(六)において判断したとおり、年月日の点を除いて概ね認めることができる。そして、右のような事情が、被告人と本件犯行との結び付きに疑いをさしはさむべき考慮要素の一つとなることは明らかであるが、しかし、このような間接的事情によって、直ちに被告人の無罪の証拠とする見解には、にわかに左袒できない。したがって、被告人の嫁捜しに関する事実は、先に述べた限りでの意味を有すると解すべきである。

3  態度の一貫性

弁護人は、被告人は、昭和二七年一〇月二一日、梅田手記を作成して虚偽の自白を否定し、本件犯行を否認して以来、今日までその態度を一貫している旨主張する。

確かに、被告人は原一審公判以来当審に至るまで、三三年以上にわたって一貫して無実を主張しており、その間の供述も、細かい点ではかなりの変遷が見られるものの、要点は概ね変わっていないことが認められる。このような事情は、もとより被告人の無罪であることを直ちに証明するものではないが、本件の証拠構造に照らすならば、被告人と本件犯行との結び付きを考察する上での考慮要素の一つというべきである。

四 まとめ

以上により明らかなように、被告人については、本件犯行を犯すだけの十分な動機があるとは認められず、その人物像、生活振り等も本件の犯人であることと似つかわしいものではないのであり、これらは、被告人と本件犯行との結び付きに疑いをさしはさむべき考慮要素の一つということができ、したがって、右の結び付きを供述する梅田自白及び羽賀供述の信用性を判断するにあたっての消極要素としても作用するといわなければならないが、これらは、いずれも被告人の無実ないし無罪を直接立証し得るものではないし、また、これらが、前記のような羽賀供述及び被告人の自白の信用性のないことと相挨って、被告人の無実までも立証しているものとも認めることはできない。

第七結論

以上の検討によると、被告人と本件犯行を結び付ける積極証拠は、被告人が共犯者であると名指しする羽賀供述と被告人の自白しかないところ、右羽賀供述は、これにより被告人の有罪を認定し得るほどの高い証明力を有するものではなく、被告人の自白も、これを柱として、あるいは羽賀供述を補強して被告人の有罪を認定し得るほどの信用性を有するものではないから、結局、本件全証拠をもってしても、被告人を有罪と認定するに合理的疑いを容れない程度に証明されているとはいえない。

したがって、本件公訴事実については犯罪の証明がないから、刑事訴訟法四五一条一項、三三六条により、被告人に対し無罪の言渡しをする。

そこで、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中西武夫 裁判官 菅野博之 裁判官 小川浩)

〈以下省略〉

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